天王寺のお寺で、母の三回忌の法要をした。
3人の僧侶が読経する前で、焼香をして手を合わせただけの、きわめて簡略な儀式だった。
お寺という場がひとつの結界だとしても、死者と生者が触れ合う一瞬の時間もなかったかもしれない。死者と生者が出会うそこでは、刻々と時を捨てて死者は死につづけ、生者は生きつづけるしかないのだろう。
けれども日常生活においては、母はぼくの記憶の中で生きつづけている。死者も生者もこの世の結界を超えて、ときには夢やある種の気配のように自由な身軽さで生きつづけている。それはそれで素晴らしいことだと考える。
お寺と地続きで、茶臼山という古戦場がある。
ある年の大坂の夏と冬、大勢の武者たちが戦って死んでいった場所だが、すべてのことが嘘だったかのように、今はことさらに静まりかえっている。
薄暗い歴史の森を抜けると、明るい現代の芝生の公園が広がる。
人々は芝生に寝転がって空を仰いでいる。すこし日常の感覚を離れると、芝生はそのまま青い空に続いている。ひととき芝生と空の中間でまどろむ人たちは、そのとき一体どこを浮遊しているのだろう。
公園の向こうには、のっぽのビルが空へ伸びている。
地上60階建て、60層の現代の塔は高さ300メートルもあるらしい。ビルのてっぺんがあるところは、もはや空の場所なのかもしれない。人々がそこから眺めるのは、空ではなく地上の風景だろう。
地上には空があり、空には地上がある。
その中空を飛び交う鳥たちには、どんな世界があるのだろう。
想像すると鳥にもなれそうで、体がだんだん軽くなっていく。