いつも言葉のことを考えている。
言葉で考える。言葉で自分を表現する。言葉でひととコミュニケートする。
言葉を並べる。文ができる。詩ができる。メールも打てる。
だが、そう簡単ではない。言葉は楽しませてくれるが、悩ませてもくれる。
言葉を選ぶ。
衣装のように着たり脱いだりする。なかなか自分の体にフィットしない。
ぼくは自分のことを、気分が比較的安定した人間だと思っている。感情のさざ波は常に立っている。けれども大荒れすることはない。
けれども、とつぜん自分というものを捨てたくなることがある。
着膨れしたように、体の動きが不自由になっているのを感じる。袋小路に追い詰められて、くるりと方向転換したいのだが思うようにいかない。もっと身軽になるために、着ているものを脱ぎ捨てたくなる。
これは自分ではない、と思う。
玉葱のように、皮だか実だか分からないものを、1枚1枚はいでいこうとする。というような冷静なものでもない。足掻いているといった方がいいかもしれない。ほんとうは泣き叫びたい心境なのだ。
子どもの頃の記憶と感覚が蘇ってくる。
いい子だなんて言われたくない。とつぜん悪い子に変身したくなる。駄々をこねて泣き叫ぶ。自分でもよく分からないが急にそうしたくなる。まわりの大人たちは大いに面食らう。
けれども、子どもをそうさせる何かが、小さな体の中には起きている。子どもの言葉が、それを説明できないだけなのだと思う。言葉が追いつかない、未知の感情が昂ぶっているのだ。
大人になったぼくは、言葉をたくさん憶えた。
だが、ぼくはときどき、自分のもっている言葉の外に放り出される。というか、自分を言葉で説明するのが嫌になる。自分で説明できない自分になりたくなる。
体につけているものを、自分が着ているものを、きちんと言葉で認識しながら生きている、そんな大人の生き方にうんざりする。
裸になりたいのだ。
着ているものを1枚ずつ脱ぎ捨てて、最後に裸になる。だが、裸になるということは簡単なことではない。玉葱のように、脱ぎ捨てたあとには何も残らないかもしれない。泣き叫んだあとに、何もない自分が立っているかもしれない。それもさみしいことだ。あるいは何も変わらない自分が立っている。それもがっかりだ。
本当はほんの少しでも、新しくなった自分がそこにいて欲しいのだ。
何もなかったら、それを形容する言葉も見つからないだろう。その結果、ぼくはまた新しい言葉を探さなければならないことになる。それもまた、いいかもしれないし、それが望むところかもしれない。だが、なかなかそこへもたどり着けそうにない。
古くなった言葉の殻を脱ぎ捨てて裸になる。そこからメタモルフォーゼが始まるはずだと思っている。