風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

花のなまえ

2017年07月31日 | 「新エッセイ集2017」

連日あつい真夏日が続いているが、百日紅の花も負けずに燃えるように咲いている。
あちこちで白い花や黄色い花、小さな花や大きな花など、名前もわからないが、それぞれの花が、それぞれの花の時季を迎えて咲いているようだ。こんなただ暑いばかりの夏も、花の季節なのだろうか。
炎天下で咲き誇っている、真夏の花の強さを感じる。

キハナ(季華)という名の女の子の孫がいる。いつのまにか、女の子とも言えないほど成長してしまったけれど。
その命名には、ぼくも関わりがある。四季折々に咲いている花のようにあってほしい、という思いを込めた名前だった。
彼女が、花のように育っているかどうかは、まだわからない。いつのまにか高校生になったと思ったら、もうすぐ卒業しようとしている。

何かをたずねると、「わからへん(わからない)」という答えがかえってくる。それが口癖になっているのかもしれない。
本当にわからないのかわかっているのか、よくわからない。「わからへん」と言いながら、何事もすいすいとこなしているようにもみえる。
脳天気ともいえるが、善意に解釈すれば、いつも自分でわかっていることよりも、さらに先の未知の部分をみつめているのかもしれない、ともいえる。未知のことは、誰でもわからへん(わからない)ものなのだ。

この夏には、通っている高校の学園祭があり、招待券をもらったので参観に行った。
クラスで創作劇をすることになり、彼女は尻込みしたが、皆んなに背中を押されて出ることになったと聞いた。
劇が始まってみると、彼女はなんと劇中のヒロイン役だった。
演技はいまいちだったが、現代っ子らしい激しい動きのダンスや、さまざまな場面転換の雰囲気を、それなりに楽しんでこなしているようにみえた。

いつからか、大学は東京に出たいというのが彼女の夢になった。
家庭の経済のことも考えて、寮のある国立の某女子大がターゲットになった。
かなり手ごわい大学だが、推薦入学の一次審査を通り、先日は東京の大学まで二次の面接試験を受けに行った。
あいかわらず、どこまでわかっているのかわかっていないのか、試験が楽しみだと言いながら、るんるん気分で出かけていったようだ。

だが面接試験が終わると、とたんにどん底に落ち込んでしまった。
まさか面接官の質問に「わからへん」とは答えなかったと思うが、面接官に椅子をすすめられる前に、さっさと自分から座ってしまったし、終わったあとも、お礼の挨拶もしなかったような気がするという。前もって高校で指導された、面接の基本的なことをミスしてしまった。だからもう駄目だという。
本人は緊張することもなかったというが、あがっていることもわからへんほど、舞い上がっていたのかもしれない。

それから3週間、彼女の暗い日々がつづいた。
合格発表は大学のホームページにアップされると聞いていたので、指定された日のその時間を待ってアクセスしてみた。
そこには彼女の受験番号があった。なんども確かめた。
まるで受験生本人のように動悸がした。さっそく彼女に電話をすると、ほんまに?ほんまに?と、信じられないといった声。
パソコンがなぜか繋がらなくて焦っていたという。パソコンが悪かったのか彼女の操作が悪かったのか、そのことはたぶん、彼女にも「わかれへん」かっただろう。

かくて、彼女の新しい進路も決まった。
いまは喜びが大きすぎて、どう喜んでいいのかわからずに戸惑っているようだ。
東京での生活は、ほんとの「わかれへん」ものが、もっとたくさん待っているだろう。そこでも「わかれへん」という呪文で、なんとか乗り切っていくのだろうか。

大都会でも、東京は大阪よりも緑地が多いように思う。いま頃はたぶん、色々な花も咲いているだろう。
学生だった頃のぼくは、東京で花に目をとめたことがあっただろうか。というよりも、花や花の名前などほとんど関心がなかった。だが年々歳々花相似たり、いつのまにか色々な花の名前もおぼえた。
それでもまだまだ、名前のわかれへん花は、たくさんある。


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いつか、朝顔市のころ

2017年07月27日 | 「新エッセイ集2017」

アサガオは朝ごとに新しい花をひらく。
毎日が新しいということを、なにげなく花に教えられる。
アサガオが中国大陸から渡来した時の名前は、「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。中国ではアサガオの種は高価な薬で、対価として牛1頭を牽いてお礼をするほどだった。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきているらしい。
牛からアサガオなどと、とても連想しにくい名前だったのが、アサガオが好まれた江戸時代に、わが国ではいつしか朝顔姫とも呼ばれるようになったらしい。七夕の牽牛と織姫の連想から、日本人が好む優しい夢のある名前に変えられていったのだろう。

江戸時代とアサガオの、そんな風景にいちどだけ出会ったことがある。
飯田橋の小さな出版社で働いていた頃、浅草の印刷所によく通った。薄暗いところで、無口な若い職工たちが活字を拾っていた。見ていると、気が遠くなるような細かい作業だったけれど、そうやって、鉛の細い棒を並べていくことで、言葉ができ文章が出来上がっていくのだった。言葉というものは鉛のように重かったのだ。

印刷所の社長は山登りが好きで、「山の音」という喫茶店によく連れていかれた。いつも山の話ばかりで、ぼくもいつのまにか、八ヶ岳や白山などの3千メートル級の山にも登ることになってしまった。
ぼく自身は山登りが好きだったかどうかはわからない。山に登りたくなるときには、こころに空洞があったように思う。空隙を埋められない、なにかやり足りないものがあるような気がして、山登りで体を虐めたくなるようだった。

いつもの喫茶店で谷川岳の話を聞いたあとで、ぼくは浅草の静かな住宅街を歩いていた。ぼちぼち山で汗をかきたいという、さみしい欲求が溜まっていた。
とつぜん賑やかなところに出た。道路いっぱいにアサガオの鉢が並んでいた。それが浅草の朝顔市だというのを初めて知った。
ぼくはまだ、花というものに興味がなかったけれど、花の周りで賑わっている人々の様子に、なぜか涙が出るほどに感動していた。ぼくの孤独な若い生活が、すっかり失っていた懐かしい風景だったのだ。

ぼくはとうとう谷川岳には登らなかった。ルートだけを探り、赤鉛筆で汚した5万分の1の地図だけが残った。そのあと、山よりもだいじな朝顔姫との遭遇があり、ぼくの生活は急に慌ただしくなったのだった。



雲の日記

2017年07月22日 | 「新エッセイ集2017」

小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものに挑戦したことがある。
絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を描写するのがいちばん簡単だと考えたのだった。
たしかに雲の写生は簡単だった。白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本晴れの日は雲がない。何も描かなくていい、やったあ、だった。
それでも1週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。

午後は、日が暮れるまで川にいた。
湧き水が混じっているので冷たかった。泳いでいて体が冷えきってくると岸に上がり、熱した砂に腹ばって温まる。熱くなると、また川に飛び込む。
夏休みは毎日、それの繰り返しだった。

砂地に寝転がってぼんやり空を見つめていると、頭の中がとほうもない空のようにからっぽになった。
雲が流れていた。ああ、雲が流れているなあと思った。それ以外に思考は広がらなかった。
空腹になると、クルミの木の高い茂みに石を投げて実を落とす。かたい種を河原の石で砕き、白い実を取り出して食べる。実と殻と砂が口の中でじゃりじゃりするので、舌先で固いものだけを避けては、吐き出し吐き出しして食べた。

お盆の頃になると、河原は無数のトンボが飛び交いはじめる。
トンボには仏さんが乗っているから、殺生してはいけないと大人に言われた。でも子どもは、禁じられたことはすぐに忘れてしまう。というより、やってみたくなる。
細い竹の棒をふりまわして、飛んでくるトンボをつぎつぎに叩き落とす。空中でバシッという手ごたえを残して、トンボは翅を広げたまま川面に落ちる。
トンボが笹舟のように、揺れながら流れていくのが痛快だった。生贄となったトンボの翅が次第に川面を埋めつくしてゆく。無為なるぼくらの夏を、いっとき満たしてくれる祭典だった。

いくどかの夏をやり過ごす。簡単で単純なことにも挫折はあった。
その挫折感とともに雲の日記を思い出す。空には雲が、川面にはトンボの翅が、悔恨の影を落として漂っている。
今のぼくには、雲はたいそう複雑な表情をしているようにみえる。
雲というものを、なんの変哲もない単純なものだと思っていた、遠い日の不思議な少年は、いまも河原に取り残されているようだ。


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ひとはなぜ、絵を描き始めたのだろうか

2017年07月19日 | 「新エッセイ集2017」

先日、近くの大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。
およそ2千年前の弥生時代の土器や銅鐸に線描きされた絵は、見ているとどれも妙に懐かしいものがあった。
どこかで見たことがあるような懐かしさだ。それは幼児が初めて描く絵と似ている。ひとは誰でも、幼い頃そんな絵を描いていたにちがいない。
身近にある物のかたちを写し取ることができた喜びを、親子で味わった瞬間があると思うが、絵というものを初めて認識したときの、そんな懐かしい感覚が呼び覚まされるような気がした。

弥生時代に描かれた絵には、鹿、鳥、魚、人物や建物、舟などがあるが、なかでも、いちばん多く描かれているのは鹿のようだ。
当時は、鹿は身近に多くいた動物だったのだろうか。鹿は四季の移ろいに合わせて体毛や角の色が顕著に変化する動物だそうで、とくに春から秋への変態は、稲作農耕の田植えから収穫へのサイクルと、ちょうどマッチしていたのではないかと考えられている。
弥生人にとって、鹿は動く暦だったのだろうか。生長してゆく稲や鹿の色や形の移り変わりを、弥生人は大きな自然の変遷として見つめていたのかもしれない。

鹿の絵の中には、背中に矢が刺さったものもある。弥生人たちは鹿を狩猟して、その肉を食用にしていたようである。
飢饉や天災と戦っていたであろう彼らにとって、鹿は命をつなぐ大切な糧であり、農耕の指針であったが、また一方で、ひとは生きるための神の啓示も鹿に求めていたのだった。
彼らは鹿の骨を焼いて吉凶を占ったらしく、黒く焼けた鹿の骨も多く出土している。彼らは、さまざまな予測できない未知なるものに取り囲まれていたのだろう。

ところで、土器などになぜ鹿や鳥の絵が描かれたのだろうか。
それは、伝達するという意味があったという。伝達といっても人から人へではなく、神への伝達だったと考えられている。豊穣を神に願っての農耕儀礼だったのだ。
弥生人にとって、鹿は特別に神聖な動物とされていたようだが、鳥もまた神すなわち精霊が住む空を飛ぶところから、神への使い、あるいは死者の魂を天に運ぶ生き物と考えられていた。
四季に合わせて変容する鹿を追い、空を舞う神の鳥を見つめていた弥生人の宇宙は、豊かで広大なものだったかもしれない。

やがて弥生時代の後期になると、弥生人の描く絵はそれまでの具象画から、線や円といった記号が多くなり抽象化してゆく。これは、弥生人たちの間でそれまで伝承されてきた、農耕祭祀の意義が次第に薄らいでいったからではないか、と考えられている。
ひとが集団で生活を始め、米などの食料や農具や刃物などの鉄器が蓄えられるようになると、集落間の略奪などが起こり、さらには戦争へと進展していく。
鹿や鳥への素朴な崇拝から、銅矛(どうほこ)や銅戈(どうか)をかたどった祭器が作られるようになり、急速に武力崇拝へと移っていったようである。

鹿や鳥をはじめ、トンボやカメ、トカゲやクモなどが描かれていた時代は、動物や昆虫とヒトが、さらには死と生と、悪霊と神とが同居していた、ひとときの平和な時代だったのかもしれない。



どこかにいい国があるかな

2017年07月15日 | 「新エッセイ集2017」

ヒグラシの声を久しく聞いていない。

    また蜩(ヒグラシ)のなく頃となった
    かな かな
    かな かな
    どこかに
    いい国があるんだ
                 (山村暮鳥『ある時』)

ぼくの住んでいるあたりでも、かつては車で1時間ほども走ると、里山ではヒグラシが盛んに鳴いていた。
谷あいを細い川が流れ、瀬音に混じってカジカの鳴き声も聞くことができた。
清流の石ころに巣食っている川虫をとり、釣り針の先に刺して岩陰の落ち込みめがけて竿を振ると、ぐぐっと竿先が引き込まれる。回りの木や雑草を気にしながら竿を引き寄せると、美しいヤマメが宙を舞って手元に飛び込んでくる。冷たくてぬめっとした手触りと、揃えて並べたような青い側斑が美しかった。

ヤマメとの出会いに鼓動を早くしながら、瀬から瀬を上ってゆくうちに疲れて、流れのそばに開けた砂地で寝ころがっていると、両側に迫った山には、早くも薄暮のかげが深く落ち始めている。
その頃には、ヒグラシの声が山肌を突き抜けて降ってくるのだった。
ヒグラシがかなかなと鳴いている、そんないい国にいながら、ほかにも、どこかにいい国があるように思えるひとときだった。

それから後に、里山の入口には広い駐車場ができ、川原は水遊びやバーベキューで賑わうようになった。そして、ヒグラシの声もしだいに山奥へ追いやられていった。
いい国は、だんだん遠くなってゆくのだった。

その日は夏休みの最後の日だったかもしれない。
すこしずつ暗くなってゆく山あいの空に、ひとつふたつと点を打つように星が輝き始める。それらの星を縫うように、小さな星がゆっくりと流れていった。銀色に光る人工衛星だった。
ひとの手は星にまで届いていたのだ。
静止した星々の中で、ひとつだけ音もなく遠ざかってゆく星は、美しい星座の神話を、宇宙に新しく書き加えているようだった。ひとが作った小さな星が、どこかのいい国を目指して飛行しているようにみえた。

いま、どこかにいい国があるだろうか、と考える。
地球上のいたるところで、いきなり爆弾がどかんと炸裂する。地上から離れた高層ビルだろうと、アフリカ大地溝帯のど真ん中だろうと、選ばれた神のメッカだろうと、どこであろうと、一瞬にして廃墟になってしまう現実がある。
本当にいい国は、どこかにあるのだろうか。

人と人との、国と国との争いは幾千年も続いて、いまだに終りそうもない。
いい国はどこにあるのか。とほうもない光の世紀を超えて、はるか冥王星の彼方ほどの遠くに、その国はあるのだろうか。
記憶の中のヒグラシの声が、ときに首をかしげて鳴いているように聞こえる。
どこかにいい国があるかな? かな? かな? かな? と。


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