風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

赤い実を食べたら

2017年10月29日 | 「新エッセイ集2017」

 

いつも通る池沿いの道の、土手の一角を赤く染めて、小さな赤い実が群がってなっている。
きょねんの今ごろも、同じ木の、同じ赤い実のことを書いたら、そのときは名前を知らなかったのだが、ある人からピラカンサスだと教えられ、それからぼくは、この赤い実のなる木の名前を覚えた。

たしか、炎と棘がこの木のキーワードだったと記憶している。ピラカンサスの赤い実は、熱く燃えて突き刺さってくるのだ。
ああ、あれから1年がたったのかと、同じ赤い実を見ながら思う。
炎と棘、この激しさがなかったな、ぼくのこの1年には。赤い実と実を突きとおす、確かな手応えがなかったんだ、とおもう。

きょねんの赤い実とことしの赤い実が、どうしても、ひとつのものになってしまう。きょねんとことしとの間に、判然とした距離がみえない。赤い実の、ふたつの風景のあいだを埋めるものがない。
実が成熟するまでの長い1年があったはずなのに、きょねんの場所に、きょねんと同じ、そのままの赤い実があるとは。季節の巡りとは、すべてが始まりに還ってしまうことなのだろうか。

   赤い鳥 小鳥 なぜなぜ 赤い
   赤い実を 食べた

また、同じ歌を口ずさんでいる。
赤い鳥は、いつも赤い実を食べる。無意識に口をついて出る歌には、幼時に戻ったような安心感がある。快く納得してしまう、歌にはそんな力があるのかもしれない。
赤い実を食べて、赤い鳥になろうとしたわけではないが、赤い実に触れようとしたら、鋭いとげの痛みが指先に走った。
炎と棘の、この痛みだけは確かにおぼえている。

 

 


きょうは空まで掃くのだ!

2017年10月24日 | 「新エッセイ集2017」

 

早朝の空の高いところでは、いつも季節がすこし先を進んでいるようにみえる。そこではもう冬の冷たい風が吹いていて、薄い雲が布のように流されている。
それは、誰かが箒で掃いたあとのようにもみえる。

おでかけですかー?
と空から声が降ってくる。
掃いていたのは、レレレのおじさんだったようだ。今日ははりきって空まで掃除している。
バカボンのパパなら、
「お出かけじゃない、帰ってきたところだ」と怒鳴るところかもしれない。それでも、どんなときでも、レレレのおじさんは「レレレのレー!!」でお終いなのだ。

そんな、レレレのおじさんがぼくは好きだ。
いつも出番は少ない。存在感のない存在感。まるで薄っぺらなシール。どんなところに貼ってもいい。今朝は空に貼りついている。
もともと、レレレのおじさんはそうじの国ホウキ星から、地球を美しくするためにやってきたという。だから、空はおじさんの故郷、おじさんの領域だったのだ。

レレレのおじさんは、独り者の老人にみえる。
ひまなので一日中そうじをしているのかと思っていたが、バカボンのパパに言わせると「そうじが趣味の自由人なのだ」という。
掃除が趣味というのがいい。しかも自由人。
だがなんと、おじさんには25人の子どもがいたらしい。おじさんの奥さんは、5年で5組の5つ子を生んだことになっている。すごい!
25人の子どもたちを、やれご飯だ、それ学校だ、とホウキで追いやっているうちに、25人のパパは、ホウキを振り回すのが習性になってしまったらしい。

う~ん、ぼくのうちも家族が多い方だったけど、そういえば親父がいつも、やれそれやれそれとうるさかったなあ。懐かしい。
レレレのおじさんの、あの掃除をする格好は、せっかちな親父を思い出してしまう、のだ。

だが、レレレのおじさんには、そんなに子どもがいたのだろうか。気になるので、バカボンのパパに質問をしてみた。
質問「レレレのおじさんは昔たくさん子供がいたのに、なぜ今はひとりなのですか?」
答え「時と場合によって変わるのだ。そのへんの事情はどこの家庭も同じなのだ。」
なんと、レレレのおじさんは、あるときは独り者、あるときは25人の子持ちだったりする。レレレのレーなのだ。

きれいな秋の空から、なんでこんなに脱線してしまったのやら。もしかして、今朝のお日様は西から昇ったのだろうか。
脱線ついでに、気になるキャラのウナギイヌについても質問してみた。
質問「ウナギイヌは、本当の所、食べると何の味がするんでしょう?」
答え「ウナギのカバヤキだけを食べて育った、イヌの味がするのだ。」
ほんと? うんうん、天才が言うことはほんと、なのだ。

きょうも空はきれいな青空。これでいいのだ!

 

 

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この電車はどこへ行きますか

2017年10月17日 | 「新エッセイ集2017」

 

このところ、電車の夢をよくみる。
どこかへ行こうとして乗るのだが、その電車は見慣れない駅に止まって、その先にはもう走らない。仕方なく電車を降りて歩き始めるのだが、街の様子も風景もはじめて目にするものばかりで、どこを歩いているのか、どこへ行こうとしているのかも分からない。それでも歩き続けている。

目が覚めると、歩き疲れたという疲労感だけが残っている。まったく割りの合わない夢だ。
夢が日常の生活や精神状態を暗示している場合もあるだろう。ぼくの電車の夢にも、何らかの表徴は読み取れるかもしれない。座る場所がない座席だとか、長い長い車両だとか、いきなり猛スピードで走り出す疾走感だとか、見たことがあるようなないような街の様子とか。
だが、元は単なる体の疲れのような気もする。体に残った疲労感が夢の妄想を生み出しているにちがいない、と思う。

いつだったか、『電車ごっこ』という詩を書いたことがある。
あの詩は、電車の夢の反動として生まれてきた詩だったかもしれない。
『電車ごっこ』の電車はどこへも行かない。いつもの場所で、いつものように同じところを走っておればいいのだ。ただ輪っかのなかで揺られていればよい。その安定感と心地よさ。
詩の中の電車は、走るというより逃避しているのかもしれなかった。

あるいは、どこかへ行かなければという焦燥感に疲れているのだろうか。
一体どこへ行きたいのか。はっきりとそのような場所があるわけでもないのだが、こころの深層で、そのような場所を求めているのかもしれない。
それは、必ずしも場所ではないだろう。日常生活の小さな充足感かもしれない。はっきりと目には見えないものを追って疲れているのかもしれない。

きょうは休日だ。夢想の中で、電車ごっこの電車を走らせよう。どこへも行かない、どこへも行かなくていい。そんな電車を走らせよう。
いつもの公園を抜けて、駅の自転車置き場を抜けて、陸橋を渡って、スーパーの中をうろついて、汗をかいて水を飲んで、餃子ランチを食べて、ベンチに座って、夕方はいつもの公園で瞑想をして、ぐるっと回って帰ってこよう。
そして再び夜、電車ごっこの電車に乗ったまま、夢の線路を走ろう。

 

 


恐や赤しや まだ七つ

2017年10月13日 | 「新エッセイ集2017」

 

近所の農家の、納屋の裏の空き地に彼岸花が群生して咲いている。
今年はいつまでも暑かったので、花の季節も遅くまでずれ込んでいるのかもしれない。いちめんに血のような、鮮やかな色がみごとだ。

   ごんしゃん、ごんしゃん 何故(なし)泣くろ

彼岸花を見ると白秋の詩が浮かんでくる。いや、『曼珠沙華(ひがんばな)』という歌が聞こえてくる。というか、とっくに死んだ友人の歌声が聞こえてくる。
遺族からもらった今年の年賀状に、すでに十三回忌も済ませたと付記してあった。もうそんなになるのかと信じられなかった。

小学生の頃から、彼は高音のよく通る声をしていた。社会人になってからも声楽のレッスンに通い、歌への夢を持ち続けていたようだ。会うたびに、彼の歌い方は少しずつ変わっていった。ベルカント唱法という歌い方なのだと言った。
彼が歌う『荒城の月』は、どこか西洋の古城を思わせて、滝廉太郎の歌には合わないような気もした。むしろ、山田耕筰が曲をつけた白秋の『曼珠沙華』の方が、彼の声と詩の雰囲気が合っていて好きだった。

白秋の詩ではなぜか、ごんしゃんはGONSHANというローマ字表記になっている。ごんしゃんというのは、白秋の郷里である九州柳川の言葉で、良家のお嬢さんという意味らしい。
ごんしゃんが赤い曼珠沙華を見て泣いている。
「地には七本 血のように」曼珠沙華が咲いている。
「ちょうどあの児の 年の数」だという。ごんしゃんは七歳なのだろうか。七という数字が不気味な暗号のように響いた。
詩の最後は「恐や赤しや まだ七つ」。この箇所はリフレインして歌われる。旋律は高揚したまま途切れるように終る。
彼の、あの澄んだ声が高いところへ消えていくようで、ぼくは思わず空を見上げてしまう。

そのような歌の日々は今も続いている。
「今日も手折りに 来たわいな」と、彼はしばしば夢の中に出てくる。ぼくは彼の歌をけなし、そして彼の歌に癒される。
歌われている彼岸花は「赤いお墓の 曼珠沙華」なのだ。
そういえば、彼のお墓は奈良のどこかにあるはずだが、ぼくはまだ彼の墓参りをしたことがない。彼が冷たい石の下にいるなどと考えることを、恐や赤しやで避けている。いつか彼がただの彼岸花になったら、そのとき彼の墓参りをすることにしよう。
いずれにしろ彼はまだ、ぼくの中では生き続け、ごんしゃんごんしゃんと歌い続けているのだ。

 

中沢 桂 「曼珠沙華」

 


夢の柵をこえる

2017年10月10日 | 「新エッセイ集2017」

 

おりおりに、黒井千次の短編集を読んでいる。
何気ない日常生活の中に、ふっと現われる妖しい夢や危険な陥穽。不思議な土人形の家や、凝視し続ける眼科医院の巨大な眼の残像。シャッタースピード1秒の写真に残るものと残らないもの。
ある物の影が、突然、その物の存在そのものになってゆく。夢と現(うつつ)、影と物、それらがひとつになる時、普段ぼくらが見過ごしているものの、もうひとつの形が見えてくることがある。

「彼」は、検診を受けるために近くの開業医を訪ねるのだが、受診票に書かれていた但し書きが気になっている。それには、オカシナ夢をみた直後は危険なので受診しないように、と書かれてある。「彼」の頭には、明け方にみた夢がひっかかっていた。
その夢とは、「眼鏡を外した嶋根サンは顔まで裸だった。そこに驚くほど柔らかな口唇がついていた」。
そんな嶋根サンの内腿の感触まで生々しく蘇ってくるのだ。「彼」は自分ではもう、そんな夢をみるのは珍しい年齢だと思っている。
夢は夢、身体は身体と割り切って、「彼」は出かけるのだが…。

受診の前に、オカシナ夢について医師にそれとなく確認する。
医師は、夢のせいで検査の結果が狂うということはないが、検査したために、夢の方が壊れるかどうかは何とも言えないと答える。
「夢が壊れますか。」
「壊れるかもしれない。逆に増殖しないとも限らない。目が覚めたからといって、夢は死んでしまったわけではないでしょうからね。」
「彼」はオカシナ夢のことよりも、それが正夢か逆夢かということの方が気になっていたのだった。夢が増殖するとは、正夢になるということだろうか。
無事に検査を終えて高揚した気分のままに、「彼」は正夢を期待して、「シクラメンのような」嶋根サンに電話をする。けれども「私、夢を見ない人なんです」という彼女との会話は、思うようには進展せず、あえなく夢は逆夢で消えてしまう。

短編小説を読むということは、日常生活で小さな旅をするのに似ている。楽しいが、すこしだけ疲れる。
ひとつの短編を読み終えると、朝の散歩で拾ってきた落葉をページの間にはさみ、閉じた本を膝の上にのせたまま、ぼくは椅子にすわった姿勢で目をつむる。眠るつもりはないが、眠ってしまうかもしれない。そんな曖昧な気分のなかを漂うのが快い。

娘がまだ小さかった頃、落葉を拾って遊んだことがある。
親子がそれぞれに、自分の手に合った落葉を拾ってしまうのがおかしかった。娘は小さな落葉を、ぼくはすこし大きめの落葉を拾っていたのだ。この季節になると、そんな単純な遊びの楽しさを思い出して、きれいな落葉が目に付くとつい拾ってしまう。
きょうは、落葉を拾おうとする右手に、なぜか力が入っている。
更にその先へと、ぼくは必死で手を伸ばそうとしている。なかなか思うように落葉に手が届かない。
いつのまにか、ぼくの手の先に娘が立っている。なぜか娘は、ぼくが読みかけの開いたままの本の上を歩いている。まだ幼くて足元がふらつくような歩き方をしている。娘の足がすこしずつ本の端の方へ向かっている。
ああ、落ちる、と叫んでさらに手を伸ばす……

がたんと音がして、体が浮き上がるような感じがした。床に本が落ちている。すこし離れたところに、栞にしていた落葉もころがっている。
すこしずつ血の気が戻ってくる頭で、落葉は舟の形をしているなあと考えている。
ひらりと柵を越えた落葉が、はや夢の外へと漂いはじめているようだった。

検診から帰った「彼」は昼寝をして夢をみる。屋根一面に馬の屍体がのっている夢だ。
「黒ずんだ馬は台所の流しの下にも、テーブルの脇にも、冷蔵庫の前にもずっしり横たわって動こうとしない。口のあたりが濡れたまま腐り、顔の崩れてしまった馬もある。これでは冷蔵庫の扉も開かない。」
ひとつの短編小説が終る。タイトルは『夢の柵』。