おりおりに、黒井千次の短編集を読んでいる。
何気ない日常生活の中に、ふっと現われる妖しい夢や危険な陥穽。不思議な土人形の家や、凝視し続ける眼科医院の巨大な眼の残像。シャッタースピード1秒の写真に残るものと残らないもの。
ある物の影が、突然、その物の存在そのものになってゆく。夢と現(うつつ)、影と物、それらがひとつになる時、普段ぼくらが見過ごしているものの、もうひとつの形が見えてくることがある。
「彼」は、検診を受けるために近くの開業医を訪ねるのだが、受診票に書かれていた但し書きが気になっている。それには、オカシナ夢をみた直後は危険なので受診しないように、と書かれてある。「彼」の頭には、明け方にみた夢がひっかかっていた。
その夢とは、「眼鏡を外した嶋根サンは顔まで裸だった。そこに驚くほど柔らかな口唇がついていた」。
そんな嶋根サンの内腿の感触まで生々しく蘇ってくるのだ。「彼」は自分ではもう、そんな夢をみるのは珍しい年齢だと思っている。
夢は夢、身体は身体と割り切って、「彼」は出かけるのだが…。
受診の前に、オカシナ夢について医師にそれとなく確認する。
医師は、夢のせいで検査の結果が狂うということはないが、検査したために、夢の方が壊れるかどうかは何とも言えないと答える。
「夢が壊れますか。」
「壊れるかもしれない。逆に増殖しないとも限らない。目が覚めたからといって、夢は死んでしまったわけではないでしょうからね。」
「彼」はオカシナ夢のことよりも、それが正夢か逆夢かということの方が気になっていたのだった。夢が増殖するとは、正夢になるということだろうか。
無事に検査を終えて高揚した気分のままに、「彼」は正夢を期待して、「シクラメンのような」嶋根サンに電話をする。けれども「私、夢を見ない人なんです」という彼女との会話は、思うようには進展せず、あえなく夢は逆夢で消えてしまう。
短編小説を読むということは、日常生活で小さな旅をするのに似ている。楽しいが、すこしだけ疲れる。
ひとつの短編を読み終えると、朝の散歩で拾ってきた落葉をページの間にはさみ、閉じた本を膝の上にのせたまま、ぼくは椅子にすわった姿勢で目をつむる。眠るつもりはないが、眠ってしまうかもしれない。そんな曖昧な気分のなかを漂うのが快い。
娘がまだ小さかった頃、落葉を拾って遊んだことがある。
親子がそれぞれに、自分の手に合った落葉を拾ってしまうのがおかしかった。娘は小さな落葉を、ぼくはすこし大きめの落葉を拾っていたのだ。この季節になると、そんな単純な遊びの楽しさを思い出して、きれいな落葉が目に付くとつい拾ってしまう。
きょうは、落葉を拾おうとする右手に、なぜか力が入っている。
更にその先へと、ぼくは必死で手を伸ばそうとしている。なかなか思うように落葉に手が届かない。
いつのまにか、ぼくの手の先に娘が立っている。なぜか娘は、ぼくが読みかけの開いたままの本の上を歩いている。まだ幼くて足元がふらつくような歩き方をしている。娘の足がすこしずつ本の端の方へ向かっている。
ああ、落ちる、と叫んでさらに手を伸ばす……
がたんと音がして、体が浮き上がるような感じがした。床に本が落ちている。すこし離れたところに、栞にしていた落葉もころがっている。
すこしずつ血の気が戻ってくる頭で、落葉は舟の形をしているなあと考えている。
ひらりと柵を越えた落葉が、はや夢の外へと漂いはじめているようだった。
検診から帰った「彼」は昼寝をして夢をみる。屋根一面に馬の屍体がのっている夢だ。
「黒ずんだ馬は台所の流しの下にも、テーブルの脇にも、冷蔵庫の前にもずっしり横たわって動こうとしない。口のあたりが濡れたまま腐り、顔の崩れてしまった馬もある。これでは冷蔵庫の扉も開かない。」
ひとつの短編小説が終る。タイトルは『夢の柵』。