風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

吾輩も猫である

2017年01月26日 | 「新エッセイ集2017」

いつものように、公園のベンチで朝の瞑想をしていたら、目の前を異様なものが移動していく。
そんなものが目に入るということは、いかに瞑想がいいかげんであるかということだが、その瞑想の原っぱを横切ったものは、公園を棲みかにしている野良猫だった。
異様にみえたのは、そいつが鳩をくわえていたからだ。
鳩の羽がやつの口元からひろがっていて、まるでライオンのたてがみのように堂々としてみえた。
大きな獲物をくわえているせいか、歩き方も妙にゆったりとしている。どうだと言わんばかりの威厳さえある。
こんなやつに馬鹿にされてはかなわないと、必死に瞑想に戻ろうとしたのだが、野性をあらわにした野良の姿に、ぼくの心は千々にかき乱され、瞑想はいつものように迷走を始める。迷い迷って図らずも、ぼくも野良になってしまった。
名前はまだ無い・・・


・・・あいつは、吾輩のことを野良としか呼ばない。名前なぞ無いと思っておるのだろう。
だが名前はあるのだ。餌やりのおばちゃんが呉れた名前だから、気に入ってるわけではないが一応の名前はある。
どうせありふれた名前だから、名前のことはどうだっていい。漱石大先生の猫だって名前はなかったのだ。
それよりも、吾輩の庭でぼうっとしているあいつだって、吾輩からみれば名無しの権兵衛にすぎない。
あんなやつは馬鹿に決まっておる。毎朝同じことばかりしている。きっと、それしか出来ないのだろう。ただ歩いて座って、それでなにが楽しいんだかわからない。そんな暇があったら、鳩の一羽でも獲ってみたらどうか、それが生き甲斐というもんだろう。

あいつは、ただぼうっとしているのではないと言うだろう。
なんでも、頭の中で言葉とかいうものを探しているようだ。いっぱし詩だか小説だかを書いてるつもりらしい。それって、あの漱石大先生の真似事ではないか。不遜にもほどがある。
大先生のことは、吾輩らの間では伝説になっているから、いささかのことは知っておるつもりだ。
だが容貌からして、あいつは大先生には到底およばない。吾輩や大先生には立派な髭があるが、あいつには汚い無精髭しかない。そんなんで大先生の真似をしようなんて、身のほど知らずというもんだ。
やはり馬鹿にちがいない。

言葉なんてものは、吾輩らには数語もあれば事足りるってもんだ。
だが、あいつは言葉を持ちすぎて、使い方も分からずにもて余しておる。ガラクタばかりかき集めて、やたら詰め込むことしか知らない。大切な言葉もそうでない言葉も、ちゃんぽんにしてパニックになっておる。
だから朝からぼうっとして、頭を冷やしておるのだろう。
きのう集めすぎた言葉のガラクタを、やっきになって整理しようとしているにちがいない。言葉には推敲とかいうものがあるらしいが、ガラクタをいくら推敲しても、残るのはガラクタなのだ。

吾輩には、増えすぎた言葉は、単なる煩悩としか思えない。
言葉が少ないおかげで、吾輩らはシンプルな生活が出来ておる。
朝だろうが夜だろうが、腹が減れば何かを食う。春夏秋冬、暑いときは日かげ、寒いときは日なたがベッドだ。発情したら素直に発奮して恋もする。言葉が無ければ思考も思案も必要ない。明日を思い煩うこともない。
漱石先生ものたまっておられる。
「猫などは単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る。おこる時は一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。」すなわち「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)」だと。
あいつがどんなに語彙豊富だとて、こんな立派な言葉は持ち合わせてはいないだろう。

あいつは馬鹿だから、瞑想などしても煩悩を増やすばかりだ。
行住坐臥なんてもんじゃない。指定席のごとく、いつも同じ汚いベンチに座っておる。そんなところでいくら瞑想もどきをやったって、行屎送尿なんて高尚なものどころか、単なる野ぐそに立ちしょんべんだ。
言葉の使い方を知りたいのなら、煩悩を整理したいのなら、吾輩の庭を土足で歩き回ったりせずに、高い山にでも登れ。吉野の大峯山へ行け。365日、いやもっと、千日も山道を駆けてみろ。
だが、あいつには出来まい。きのうの道をきょうも歩く。きのうのベンチにきょうも座る。きのうの言葉をきょうも反芻する。無駄なことばかりしておる。
言葉が少ないぶん、吾輩の方がはるかに明解だ。

どうだ、これだけ言われれば、空っぽの頭にもすこしは血が上っただろうか。逆上もよほど大切なものだと漱石先生もおっしゃった。
「逆上を最も重んずるのは詩人である」と。「この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう」と。
もっとも、詩人は逆上などという俗な言葉は使わない。「インスピレーションという新発明の売薬のような名」をもったいそうに唱えるらしい。
彼らの武器は、インスピレーションと言葉だ。
だが、それだけでは詩は書けない。詩は煩悩だ。解脱だ。インスピレーションからの解脱、言葉からの解脱だ・・・


・・・にゃにゃにゃんと、野良の言葉におもわず逆上してしまった。
やっと猫の妄想から脱出してみると、やつは鳩をくわえたまま尻を振って去っていくところだった。
公園の野良たちは、どいつも丸々と太っている。みごとなメタボだ。それでないと冬は越せないのだろう。やつらは自然の摂理で生きている。風と草しか見ていない。いつもそっぽを向いてどこ吹く風、ぼくに挨拶するやつなど一匹もいない。馬鹿は相手にしないつもりらしい。
やつらは、すでに解脱している。



     (写真は『吾輩は猫である』初版本の扉絵。角川文庫より)




風邪とたたかう

2017年01月20日 | 「新エッセイ集2017」

髭が赤くない医者は信用できないから、ぼくは風邪を引いても医者にはかからないことにしている。
けれども、そうするには、それなりの覚悟と体力、忍耐力なども必要になってくる。
容赦なく攻めてくる敵に対して、孤軍奮闘するようなものだから、勝つためには、まずは敵を知らなければならない。
昼間は咳や鼻みずの責苦があることはもちろんだが、ぼくの場合は夜戦の方が問題となる。敵はぼくが眠った隙をついて襲ってくる。無防備な夢の中で、敵の猛攻を受けることになるのだ。

まず第1夜は水攻めである。
ぼくの脳みそが、桶のようなものに入れられて水漬けになっている。ただ、それだけのことだが、受取り方によっては、湯船にでも浸かっているような、浮遊感覚をともなった快い眠りに思われるかもしれない。
ところが、これが苦痛なのだ。眠りを快く感じるためには、適度の弛緩や夢の内容に動きがなければならないが、敵にそんな心遣いは一切なし。ただ水の中に放り込まれたままで、それはむしろ捕縛されている感覚といえる。金縛り状態ともいえる。だから、ぼくは幾度も脱出を試みる。ああ、もうたくさんだ、と夢の中で叫びながら夢の外へと逃げ出そうとする。
こんな抵抗を1時間おきくらいに繰り返す。そのたびに、頭を静めるためにトイレに行き、台所で水を飲む。別に喉が渇いているわけでもないのだが、水に責められた悪夢の残像があるので、水を補充しておかないと、もし脱水状態にでもなったら大変だと、とんでもない錯覚をするのだ。
つじつまが合わない思考法をしている。これは脳が犯されているのと寝ぼけているのと、その両方のせいにちがいない。さらには、現代医学を信用しようとしない報いなのかもしれない。
こうして悪夢の第1夜を、悪戦苦闘の末になんとか脱出する。
昼間は咳と鼻みず、それと、うっかり昼寝をすると夜とおなじ強敵が現れる。昼夜猛攻を受けたのでは体力がもたないので、できるだけ昼寝はしないように頑張る。風邪に犯された頭脳は、まことに奇妙な論理を展開するようだ。

そして再び、悪夢の夜がやってくる。さすがの敵も作戦をすこし変えてきた。
第2夜は石攻めである。
眠りに落ちるやいなや、ぼくの脳は石にされてしまった。正真正銘の石頭、もう何を考えることもできない。とうとう頭が石になってしまったと、そのことばかりを延々と考え続ける。
これはもはや夢とはいえない。フリーズしてしまったパソコン画面のようなもので、固定した観念像がぼくの脳壁にべったりと貼り付いているのだ。
ひとの脳は、あれこれと様々なことを思考するようにできているはずだから、たったひとつのことを考え続けることほど苦しいことはない。それも自ら望んだものなら快感かもしれないけれど、この場合はスフィンクスよりも厄介な、風邪という理不尽な怪物に押し付けられた難題なのだ。
ぼくはまた昨夜と同じように、苦悶しがら夢の外へ脱出しようとする。トイレのあと、台所へ行き水を飲む。今夜の給水の理由は、ぼくの脳が石になったのは渇水のせいだと判断したからだ。思考力までも、からからに乾いて干物になったようだ。
床につくと、再び戦闘開始。
石あたま、脱出、石あたま、脱出、石あたま、脱出、石・・、脱・・、石・・、脱・・・・・・・、ああ疲れた。
やっと明け方をむかえて長い夜から脱出する。石のかたまりだったぼくの脳は、小さな無数の石ころになっていた。すこしは頭の体積が軟らかくなったように感じられる。でもこれは、戦力の衰えた脳が、都合よく逃げの体勢にはいった兆しかもしれなかった。
いずれにしろ、夜が明ければひと息つける。レースのカーテンがほんのり白くなったのにさえ救われる思いがした。

昼間は、カミさんの脅しも加わる。
風邪は万病の元だなどと、恐ろしい言葉を浴びせてくる。あなたのは風邪を通りこして、脳膜炎とか脳溢血とかじゃないかと、ぼくを更に死の淵へ追いやろうとする。ぼくにはもはや、昼も夜も援軍はいないのだ。
満身創痍、鼻をかみすぎて鼻は痛い。咳をしすぎて喉は痛い。髪は鳥の巣になってかゆいし、肛門もなぜか荒れて痛い。いまさら引くこともできず、身も心もぼろぼろになって第3夜に突入する。
やぶ医者よりもカミさんの診断の方が正しければ、今夜あたりは討ち死にするかもしれない。

敵は再び水攻めでやってきた。
どうやら原始的な戦法が好きなようだ。今夜の敵は、ぼくの脳を水浸しにしただけでは収まらず、更にぐるぐるとかき回すのだ。メリーゴーラウンドに乗って遊んでいるわけではない。なにかの周りを回っているようでもあるし、ぼくの周りをなにかが回っているようでもある。それも強要されるということは拷問に等しい。
3夜目ともなると、こちらもすこしは慣れたとはいえ、体力も消耗しているので苦痛に変わりはない。脱走、トイレ、台所、水と、惰性でひと通り夜中の儀式を繰り返す。
悪夢の合間には、さすがに不安になって脳のチェックをしてみた。
1+1=2、ようし、計算力はパス。昨夜食べたものは何か、湯どうふ。ようし、記憶力は普段よりも良いくらいだ。川柳のひとつも思い浮かぶか。そんな、普段でも難しいことができるわけがない。面倒臭い言葉遊びなんか勘弁してくれ。いまは右脳にまでかまっている余裕はない。右も左もパニックになっているんだ。
もはや夢も覚醒も区別がつかなくなって、ただ妄想する。
ひとが死ぬときの苦しみとは、きっとこのような苦しみにちがいない。ひとは死ぬとき脳みそが次第に萎縮して、最後にひとつだけ苦しみの領域が残されるのだ。いまは臨終の状態に近いのかもしれない。しかるのちに呼吸が止まり酸欠状態になり、やつと一条の光が射し、きれいなお花畑が現れるのだろう。臨死体験者が語る、あのお花畑だ。
どうやら妄想ばかりは元気なようだ。この分では右脳もまだいけそうだ。ようし、とりあえずパスにしとこう。それに、お花畑もまだ見えてこないし。

風邪はやはり夜の悪魔の仲間だった。まわりが明るくなると、敵もすこし腰が引ける気配がした。
4日目の朝になってようやく、ぼくの脳の回りを渦巻いていたものが静かになって、一条の光が射しこむように、細い糸のような水が流れはじめた。冷たい雫のようなものが脳から流れ出して、肩から胸へと、そして体の隅々へと下りてゆく。その雫の行方を夢ともうつつとも知れず追っているうちに、久しぶりに深い眠りに落ちていった。
連日の睡眠不足をとり戻すように、翌日は炬燵でうたた寝をした。その短い眠りの中で、柔らかい肌の温もりに包まれている夢をみた。花のような淡い香りもしているようで、心地よく触れ合っているのは明らかに異性の体であり、密着した肌の感触が指先に残った。目覚めた後もしばらくは、指の記憶を確かめようとする余裕が、ぼくの体に生まれていた。ようし、オスの機能もパス。おもわずガッツポーズの気分がよみがえった。
生還の喜びにひとり浸りながら、眠りにはやはり、安らぎや喜びがなくてはならないと考えた。眠りが戦いであってはならないのだ。
久しぶりの爽やかな気分で、ぼくは風邪との不戦を誓った。



かすかに見えるものの中に

2017年01月15日 | 「新エッセイ集2017」

いま私は3畳の狭い部屋に閉じこもって日々を送っている。
かといって、世間の壁と折り合えずに閉じこもっているわけではない。どちらかと言えば、世間に見放されて閉じこもっている、あるいは自分勝手に閉じこもっている、と言った方がいいかもしれない。
そんな人間だから、いつのまにか、うちのカミさんとの間にも間仕切りのようなものが出来てしまっている。小さな家の中で無益な諍いを避けるため、お互いに傷つけあわなくてもすむように、それぞれが身に付けてきた生活の知恵で対処していくうちに、自然にこういう形に収まったということだろうか。
今のところ、この狭い空間の住み心地は悪くない。

以前は、カミさんが洗濯物を干すためにベランダに出るとき、私の部屋を、まるで廊下のように通り過ぎるのが気になって仕方なかった。洗濯や料理や掃除などの家事で忙しく動き回っている身には、私のやっていることなどは、単なる時間つぶしの遊びに過ぎないのだ。遊んでないで勉強しなさい、と言われる子供の気持ちがよくわかった。
そこで私は洗濯機の乾燥機がわりになることにした。洗濯機の仕上がりのブザーがなると、私はやおら洗面所に駆けつける。駆けつけるとは少し大げさで、実際は引き戸を1枚開けるだけのことである。そして私は洗濯物をベランダに運んで竿にかける。
これで私の部屋は乱されることがなくなり、余分な小言をもらう気遣いも減った。洗濯物の干し方についても、工夫をすれば結構楽しいものであるが、それについては、ここでは語らないことにしよう。

ふたたび私の狭い部屋にもどる。
ガラス戸の外で、私の干したシャツやパンツが風に吹かれて揺れているのを見つめながら、私は詩を書いたり、古い日記を整理したりしてきた。これが私の1日である。このような生活に、私は今のところ満足している。
ところで私が整理してきた日記というのは、16歳から25歳くらいまでの間に書き残したものだが、その頃、私は詩や小説を書く生活に憧れていた。それ以前は読書が好きだったというのでもないから、なんら文学的な関心や素養があったわけでもない。むしろ小・中学生の頃は漫画家になりたかった。手塚治虫や馬場のぼるにハガキを出したりするほどの漫画少年だった。
それが福永武彦の小説を読んでから漫画を捨てた。かなり感傷的な色に染まりはじめていた私の創造世界を、漫画で表現することは難しいだろうと思ったのだった。いま考えてみれば、たんに私の描画力が未熟だったというだけのことだつたのだろう。

結局は自分のイメージを文章で表現することもできなかった。思うように言葉を綴れない鬱屈した気持を、ただ日記帳に吐き出していたようだ。
25歳で私の日記は終わり、その後ふたたび日記帳を開くことはなかった。それは書くこと、すなわち文学との長い決別でもあった。
結婚をし、子供が生まれ、生計に追われる、ごく普通の生活が続いた。自分の家庭や仕事にもある程度満足した。その結果として、今の生活があることを思えば、それなりに納得できる人生だったかもしれない。ときどきは変化をもたらしてくれる子どもや孫たちにも恵まれた。

それはそれとして、なぜまたカビ臭い日記を引っぱり出すことになったかというと、興味本位で始めたホームページのせいだった。貧弱だったコンテンツを埋めるために、古い日記でもアップしようとデータ化を始めたのだった。作業は順調に進んだ。だが21歳から22歳の頃の日記にさしかかって読み返していると、なぜかキーボードを打つ手がしばしば止ってしまった。
私はその頃も、今と同じように3畳の部屋に閉じこもっていたのだ。早稲田鶴巻町の東京の空を眺めながら、周りも見えず、将来も見えず、自分自身のこともよく見えず、悶々として日々を送っている様子が、日記帳のどのページからも立ち上がってきた。
私にはさまざまな劣等感があった。体が痩せていること、貧乏であること、東京の人間でないこと、親友も少なく恋人もいないこと、実存主義が理解できないこと、ひとを楽しませる会話ができないこと、数えればきりがないほどだった。
そんな私は何に支えられていたのだろうか。あるかないか判然としない将来の希望だったのだろうか。はっきりわからないから、それは希望であり続けることができたのだろうか。それが若さというものだったのだろうか。

3畳一間の下宿の窓から外を眺めていた孤独な私と、いまベランダの洗濯物を眺めている私との間には、気の遠くなるほどの歳月が横たわっている。その間に世の中は大きく変わった。まるで価値観が裏返しになったように変わってしまったのだ。
都会がスモッグで靄っている風景は、繁栄の象徴と見られていた。若者は都会に憧れた。食生活は貧しく、体格も貧相だった。常に栄養価の高い食品をとるように気を付けなければならなかった。アメリカでは道端に自動車や冷蔵庫が捨てられていると聞かされた。そんな話などとても信じることができないほど、日本は小さな貧しい国だった。若者は都会に憧れ、日本人はアメリカやヨーロッパに憧れた。
そして、変わった。
いまや一歩外にでると、道路は車が溢れている。少し山道に入ると、道端に古い車が捨てられている。テレビや洗濯機も捨てられている。現代では、人は物を捨てることに苦労している。
飽食の時代である。太りすぎた人も、痩せた人もいかに栄養価の低いものを食べるかに苦心している。食べ物も捨てられる。週2回のゴミ回収では追いつかないほどのゴミの量だ。ゴミも多様化して、人はゴミを分別することで悩まなければならなくなった。自治体までもゴミの処理場所に困っている。

そして、私も変わった。
肩がこりやすくなった。目が悪くなった。疲れやすくなった。さまざまな限界がみえるようになった。悪あがきをすることが少なくなった。残された時間を気にするようになった。
古い日記帳は閉じた。古い自分と決別することにした。窓の外の新しい風景を眺めることにした。
いま私の前途に、どれほどの可能性が残されているのかはわからない。先が見えないのは、若かった日も今も変わらない。ただ、これから歩いていく道は、おそらく1本くらいしかないだろうと思う。そう思うと気楽でもある。この1本の道の向うに、どんなかすかな明かりであろうとも、そのかすかに見えるものの中に、何かがあるかもしれないと思ったりする。
少しだけ希望があり、少しだけ不安がある。もう少しだけ頑張れそうな、まだまだ力を傾注できるものがありそうな気がしている。
今この3畳間にいながら、ベランダの洗濯物の向うの空を眺めている。すばらしい洗濯びよりだ。雲がゆっくり流れている。


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反骨の神さまがいた

2017年01月10日 | 「新エッセイ集2017」

正月は、ふだんは疎遠な神さまが身近かに感じられたりする。
お神酒やお鏡や初詣などと、神事にかかわることが多いせいだろう。
最近では、初詣も近くの神社で済ませてしまうが、かつては山越えをして奈良まで遠出したものだった。
大阪平野と奈良盆地を分けるように、南北に山塊が連なっているが、その中のひとつに葛城山という山があり、この山の奈良県側の麓に、地元では「いちごんさん」と呼ばれている神社がある。かつてよく通った一言主神社である。
境内には樹齢1200年の大銀杏があり、この神社をイメージしながら詩を書いたこともある。

    かなりむかし
    子どもの頃には神さまがたくさんいた
    古い石段を登ってゆくと空から
    神さまが降りてくる
    樹齢千年の銀杏の樹のてっぺんに
    神さまはいらっしゃるのだ
    と大きな木が言った

この神さまは、司馬遼太郎の『街道をゆく』にも登場する。その中で、この神は葛城山の土着神であり、ひょっとすると、葛城国家の王であったものが神に化(な)ったものかもしれない、と書かれている。
また『古事記』や『日本書紀』には次のように記述されている。
雄略天皇が葛城山で狩をしていると、自分と同じ顔をした、装束までそっくりな「長人」(のっぽな人)が現れた。天皇が「この倭(やまと)では自分以外に主はない。主のまねをするとはなにごとだ」と問い詰めると、「自分は神である。悪いことも一言、良いことも一言で言い放つ神、葛城の一言主の神である」と答えたので、天皇は「現人(あらひと)の神さまとは知りませんでした」と詫びてひれ伏したという。
また別の記録によると、そのとき葛城の神と天皇は大げんかになり、一言主の神は土佐へ流されてしまったとある。そして300年後の764年にようやく許されて、再び現在の場所に戻ってきたことになっている。
このような話の背景には、当時広がりつつあった崇仏思想との軋轢も感じられる。「異国の神はきらきらし」と表現されたように、すぐ近くの斑鳩の地には法隆寺のきらびやかな堂塔伽藍が聳え立ち、あたりに威容を誇っていたにちがいない。
そんな状況にあって、蕃神に屈服することなどできるかと、葛城の神は「今の世に至りて解脱せず」(『日本霊異記』)と、ひとり反骨を貫いたのだった。

元旦の早朝、ぼくと家族は葛城山の懐を貫通する長いトンネルを抜けて、葛城の神様をお参りするのが恒例になっていた。
この鄙びた神社を詣でるのは殆どが地元の人たちで、元旦の朝といえども閑散として、かえって荘厳さが保たれているところが好きなのだった。
神社の境内は山腹にあるので、飛鳥の山々の上からのぼってくる太陽を正面に望むことができた。山の稜線が浮き上がるように、次第に褐色に縁取られてくる。突如はじけ散った太陽の光に射抜かれて、寒さに固くなっていた体が荘厳な神の世界に包まれる。
ときには社殿の回廊から、「今年は晴れていてよかったですなあ」などと、現代の葛城の神さまの声も聞こえてくるのだった。

一陽来復と大書された神社のお守りには、南天の実が入っている。
南天と難転摩滅を掛けているのだろう。このお守りは節分の日の真夜中に、その年の恵方に面した壁に貼り付けることになっている。こうして1年の厄を払う。
「悪いことも一言、良いことも一言」
と言い放つ葛城の神さまに、ことしのお前の願いごとは何か、一言で言えと問われたら迷いそうだ。欲の世の中に生きている人間にとって、一つだけの願い事というのは案外むつかしいことでもある。



雑煮で始まる争いもある

2017年01月05日 | 「新エッセイ集2017」

朝はすりこぎを持ってすり鉢に向かう。これが正月三が日のぼくの日課だ。
元日の朝は胡桃(くるみ)、2日は山芋、3日は黒ごまを、ひたすらごりごりとすり潰す。
胡桃と黒ごまはペースト状になって油が出てくるまですり潰し、山芋はだし汁を加えながら適度な滑らかさになるまですり続ける。
ごますりが下手で、商人にもサラリーマンにもなれなかった人間が、なんで正月早々からこんなことをしなければならないのかと、これまでのぱっとしない生きざまの怨念もこめて、すりこぎを持つ手にも思わず力がはいる。

胡桃と黒ごまのペーストには砂糖を加えて甘くする。これに雑煮の餅をつけながら食べるのだが、これは岩手県三陸地方の一部に伝わる風習のようだ。
うちのカミさんは子どもの頃からずっと、この雑煮で育ってきたのだつた。
ぼくは最初、こんな甘い雑煮を食べることにびっくりしたが、これをカルチャーショックというのだろうか、もともと、この種の驚きを好んでしまう性癖から、面白いね、珍しいねなどと言って驚いているうちに、この甘い雑煮はすっかりわが家の風習になってしまったのだった。
それ以後、まさか正月三が日すり鉢に向かう苦行が待っていようとは、ゆめゆめ、いや初夢にすら見なかった。

このような正月の風習にもすっかり慣れてしまうほど、もう古い話になるが、カミさんとの出会いは東京だった。彼女は会計事務所に勤め、ぼくは小さな出版社で雑誌の広告を作っていた。
そのころ彼女は両親と一緒に暮らしていた。両親は岩手で事業に失敗して東京に出てきたということだった。父親も母親も東北弁で、彼女も家では親の言葉につられて訛りが出てしまうのだが、それは九州出身のぼくにとっては外国語に近い言葉だった。
ところどころ判ったり判らなかったりする言葉の曖昧さが、かえって新鮮で快い響きとなって伝わってくる。宮沢賢治や石川啄木に心酔していたぼくは、「あめゆぢゆとてちてけんじや」や「おら おらで しとり えぐも」といった賢治の詩語や、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人込みの中にそを聞きに行く」の、啄木の「そ」を聞いているようで感動してしまうのだった。
それまでぼくの知らなかった言葉を使って、それも体の芯から出てくるような濁音の多い言葉を交わしながら、家族というものがひとつになって生きている。東京でずっと独りぼっちの生活をしてきたぼくは、そんな家族の温もりのようなものに、いきなり包み込まれてしまったのだった。

結婚式には、北からと南からのそれぞれの親類が集まった。
ちがっていたのは言葉だけではなかった。顔はもちろん体型までもまるでちがって見えた。ぼくの方は背が高くて痩せ型で、顔も細おもてなのに対して、彼女の方はがっちりした体格で顔も大きくてごつかった。
のちの話だが、ぼくが彼女の方にはアイヌの血が入ってるにちがいないと言うと、彼女はあなたの方こそ渡来人だと言い返してきた。お互いにアイヌや渡来人を蔑視して言ったわけではなかったが、異人種に接するような感覚は残り、この第一印象は、男と女の違いや性格の違い、感覚や思考の違いとともに、夫婦の間に人種問題まで残してしまったといえるかもしれない。

それでも正月三が日は平和に雑煮を食べる。
元日の朝は、雑煮の餅を胡桃にまぶして食べる。東北のある地方では、美味しいことを胡桃味と表現するそうだから、これはやはりご馳走なのだろう。
2日の朝はご飯を炊いて山芋をかけて食べる。これもシンプルで美味しい。以前は、南部の鼻曲がりという鮭も食膳に並んだが、最近は岩手の身内も亡くなってしまい、鼻の曲がった鮭にもお目にかかれなくなった。
3日の朝は黒胡麻のペーストを餅につけて、黒っぽいいささかグロテスクな雑煮を食べる。北と南が融合した和やかな正月の食卓である。

けれども、めでたく平穏な時は長続きはしない。
4日の朝には、すりこぎのことで大喧嘩になった。
すりこぎがすりへっているとカミさんが言うので、すりこぎだって木なんだからすり減って当然、なにをばかなことを言い出すのだと、それが発端だった。
すりこぎの減り方などどうだってよかったのだが、その微妙なところで国境を越えてしまうのがわが家の内部事情で、さらには領土問題にまで発展するほどの勢いがついてしまう。
わが家の夫婦喧嘩は、アイヌと渡来人の誇りを背負って戦うことになってしまう。異民族の争いでもある。
いつまでたっても、容易にはすり潰せないものがあるのだ。


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