室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』を読む。
その中で、立原道造のことを次のように書いている。
「彼は頬をなでる夏のそよかぜを、或る時にはハナビラのやうに撫でるそれを、睡りながら頬のうへに捉へて、その一すぢづつの区別を見きはめることを怠らなかった」。
建築士でもあった道造は、色鉛筆をさまざまに使い分けて葉書を書いたらしい。ドイツ製の色鉛筆の蒐集は、道造のもうひとつの手が愛したものだった。
「此の不思議な色鉛筆の蒐集品だけが、テエブルの上で彼の頭と心にある色彩を見せてゐたやうである」
と犀星は、一度だけ道造の部屋を訪ねたときの印象を書いている。
道造の「頭と心にある色彩」が、まだ詩の言葉として熟成される以前のことだったのだろう。
道造は23歳の秋に肋膜を発症。その後、疲労と微熱に苦しむことになる。
昭和14年の春に道造が亡くなった時、そばに付き添っていた女性がいた。彼女は、病室の道造の寝台の下に、畳のうすべりを敷いて夜もそこで寝ていたという。道造の衰えていく手となって、ひたすら献身的な看護をした。
「女の人はかういふ恐ろしい自分のみんなを、相手にしてやるものを沢山に持ち、それの美徳を女の人は皆いしくも匿して生きてゐるやうに思はれた」
と犀星独特の文章で、彼女のことを書いている。
凍てた雪を踏んで、犀星と詩人の津村信夫が、東京の中野療養所の道造を見舞う。
<センセイ、僕こんなになっちゃいましたよ、
ほら、これを見てください。
道造はふとんの中で大事にしまっていた自分の手を、いくらか重そうにして、出してみせる。
<手が生きている間は書けるよ
こいつが動かなくなると書けなくなるが。
と犀星は慰めるように言う。
「立原は嬉しさうに笑ひ、生きてゐる大切な右の手をまたもとの胸の上にしまった。私は人間の手といふものがどれほどの働きと、生きる証拠を重い病人に自信を持たせてゐるかを、知ったのだ」。
帰り道、犀星と津村はしみじみ話す。
<手を出されたときは参った…
<僕も参ったよ。あれが生きてゐる人の手だからね。
ふたりの会話はそれきり途切れてしまう。
かつて、軽井沢の犀星の別荘を訪ねてきては、庭の椅子で静かに居眠りをしていた道造を、犀星は「いつ来ても睡い男だ」と書いている。作家の仕事を邪魔してはいけないという、若さの遠慮があったのだろう。
<僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでせうかしら、
してくれると嬉しいんだがナ。
そんな道造はまだ無名だった。
「詩人としてはそんなに人から愛誦をうけることは未だあるまいといふ、誰でも持つ初期の心配をたくさんに持ってゐた」と犀星。
だが、
「彼のきれぎれな、美しいとも書き現はさなければ当らない溜息が、後の詩人達の溜息にかはって影響をあたへてゐたことを思へば、ラジオで放送される程度のあやふやなものではない、年若い愛誦者の一人づつに幾日も彼の詩はついて放れなかったし、それが詩技のもとになって後代の詩人達をやしなってゐることは……」
それは僕のせゐではなからうと、道造は照れて言うかもしれない、と犀星は回想する。
その時はすでに、道造は天国の人だった。
そして、美しい溜息だけが残された。
しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?
(『優しき歌』より)
昭和14年2月、第1回中原中也賞受賞決定。3月、25歳で死去。
(文中の「 」部分は、室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より引用。
写真は軽井沢の室生犀星旧居)