風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

吾亦紅(われもこう)

2024年09月24日 | 「2024 風のファミリー」

 

学生の頃、東京ではじめて下宿した家の、私の部屋には鍵がなかった。だから、ときどき2歳になるゲンちゃんという男の子が、いきなりドアを開けて飛び込んできたりする。そのたびに、気配を察した奥さんが慌ててゲンちゃんを連れ戻しにくるのだが、そのときに、いつも何気ない言葉を残していくのだった。
「玄関のお花、ワレモコウっていうのよ」。これもそのひと言だった。関東には長十郎という大きな梨があることを、はじめて知った秋だった。

私の部屋は玄関わきにあったので、ドアを開けると下駄箱の上の花が正面に見えた。その花は、花とも実とも言えそうな曖昧な花だった。花にあまり関心がなかった私が気のない相槌を打つと、
「吾もまた紅(くれない)って書くのよ。すてきな名前でしょ」と奥さん。
私は頭の中で言葉の意味を追ってみた。花の名前にしてはあまりにも文学的だった。花そのものよりも名前の方が印象に残った。

奥さんは詩を書く人だった。仲間で同人雑誌を発行していて、私も誘われていたのだが、気後れがして加わることができなかった。奥さんから借りた詩集も読んではみたが、私には詩というものがよく解らなかったのだ。
詩というものを書く人たちは言葉の曖昧な領域にいて、吾も紅、吾も紅と、それぞれが紅い(あかい)個性で咲き誇っているようにみえた。詩というもの、詩を書く人というものへの近づきがたい戸惑いもあった。吾も紅と集まっている人たちの中に入っても、私はとても紅には染まることができないだろうし、吾も紅などといえる自信も情熱もなかった。

だが紅のその花は、私の記憶の中で咲きつづけていたようだ。
ずっと後に信州へ家族旅行をした時に、蓼科高原の草むらの中でその花を見つけたのだった。それはかつて感じたのと同じように、花のようであり花のようでもなかった。記憶の中に存在するひとつの目印のようだった。
私は心の中で古い花の手帳をそっと開いた。ワレモコウという花の名前が浮かんだ。花の名前というより人の名前を思い出したみたいで、懐かしい人と懐かしい歳月に出会ったように全身が熱くなった。

その花は言葉だった。若い日に語られなかった言葉の数々が、風となって花の幹を揺らしてきた。
吾もまた紅などと口からでてきた言葉に、おもわず涙が出そうになった。詩というものを忘れていた長い年月が、いっきに巻き戻された。花は紅、吾もまた紅、体じゅうが熱くなって、忘れていた詩の世界が紅になった。私にも詩が書けるかもしれないと、一瞬だけ思った。爽やかな高原の風に酔って日常生活を忘れた。

それからまた、かなりの年月が過ぎた。
再びワレモコウのことを思い出したのはいつだったろう。
ある日、花がふたたび言葉になった。悲しみが、喜びが、苦しみが、言葉になった。
仕事を失ったあとの、無為な生活を言葉で埋めようとして、私は詩のようなものを書き始めた。蓼科の草原を思い出した。花のような実のような、よくわからない曖昧な言葉の領域を彷徨いながら、熱く燃えたい、紅になりたい、という欲求がよみがえってきた。吾もまた紅になれるかもしれない、とかすかな期待を抱きながら言葉を追った。
しかし、花の言葉を語るということは、詩を書くということは、広い草原を手探りしながら踏み込むようなものだった。




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恐や赤しや彼岸花

2024年09月16日 | 「2024 風のファミリー」

 

近所の農家の、納屋の裏の空き地に彼岸花が群生して咲いている。今年はいつまでも暑いので、花の季節も遅くまでずれ込んでいるのかもしれない。いちめんに血のような、鮮やかな色が地面を染めている。
  ごんしゃん、ごんしゃん
  何故(なし)泣くろ
彼岸花を見ると白秋の詩が浮かんでくる。いや、『曼珠沙華(ひがんばな)』という歌が聞こえてくる。というか、とっくに死んだ友人の歌声が聞こえてくる。
記憶の日々は足早に遠ざかっていくが、彼の歌声はいまも近くにある。

小学生の頃から、彼は高音のよく通る声をしていて、教壇に立って皆の前で歌わされたりしていた。社会人になってからも声楽のレッスンを受けたりして、歌うことの夢は持ち続けていたようだ。
会うたびに、彼の歌い方は少しずつ変わっていった。ベルカント唱法という歌い方なのだと言った。彼が歌う『荒城の月』は、どこか西洋の古城を思わせて、滝廉太郎の歌には合わないような気もした。むしろ、山田耕筰が曲をつけた白秋の『曼珠沙華』の方が、詩の雰囲気に彼の声が合っていて好きだった。

白秋の詩ではなぜか、ごんしゃんはGONSHANというローマ字表記になっている。ごんしゃんというのは、白秋の郷里である九州柳川の言葉で、良家のお嬢さんという意味らしい。
ごんしゃんが赤い曼珠沙華を見て泣いている。「地には七本 血のように」曼珠沙華が咲いている。「ちょうどあの児の 年の数」だという。ごんしゃんは七歳なのだろうか。七という数字が不気味な暗号のように響く。詩の最後は「恐や赤しや まだ七つ」とリフレインされ、高揚したまま途切れるように終る。

澄み切った彼の声が、高い処へ消えていくようで、私は思わず空を見上げてしまう。
そのような歌の日々は今も続いている。「今日も手折りに来たわいな」と、彼は私の夢の中に出てくる。私は彼の歌を黙って聞き、そして彼の歌に癒される。歌われている彼岸花は「赤いお墓の曼珠沙華(ひがんばな)」なのだ。
そういえば、彼のお墓は奈良の何処かにあるはずだが、私はまだ彼の墓参りをしたことがない。
飛鳥伝説の狐のように、石舞台の上で歌ってみたいと言った彼が、冷たい石の下にいるなど想像しがたい。いま彼岸花は地上で燃えている。彼の歌声は澄み渡った空を流れている。




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夏が始まり夏が終わる家

2024年09月12日 | 「2024 風のファミリー」

 

その小さな駅に降り立った時から、私の夏は始まり、再びその駅を発つとき、私の夏は終わるのだった。
汽車が大和川の鉄橋を渡ると、荷物を網棚から下ろして、私は降車デッキに移る。レールを刻む音が、新しい夏が近づいてくる足音に聞こえて、私の胸の動悸が早くなっていく。
奈良県との県境にちかく、大阪の東のはずれに関西線の小さな駅はあった。乗降客はわずかしかいない。駅前には小さな雑貨屋が一軒だけあったが、あとは民家もほとんどなく、ひたすら急な坂をのぼる一本道があるのみだった。

登りきったところに集落があった。そこは父が生まれて育ったところであり、叔父や叔母や年寄りが暮らしているところだった。
庭一面をブドウ棚が覆っており、庭の隅っこに井戸と柿の木があった。
その家はまた、夏休みになると従兄弟たちが集まるところでもあった。ノボルやミヨコがいた、カツヒコやマサヒコがいた、トシオやテルコがいた、サヨコやエツコがいた。
私たちは庭に面した縁側で、収穫されたばかりのブドウを、タネを庭に吐き出しながら、舌が痛くなるまで食べた。

午後になると、大きな麦わら帽をかぶり首にタオルを巻いて出かける。雑草の茂った野良道を下りていくと大和川があった。そのあたりは流れが淀んでいて、土地の人はそこをワンダと呼んでいた。
半日は泳いだり釣りをしたりした。大きなナマズやタイワンドジョウが釣れた。叔父は網を持って川底深くまで潜り、巨大なウナギを捕らえてくることもあった。その頃は川の水も澄んでいたので、道の上から鯉が泳いでいるのも見えた。そんな鯉を追いかけていき、網を打って掬い上げることもあった。

夏は、毎日おなじようなことの繰り返しだった。いとこ達は昼は川遊び、夜はざこ寝で騒ぐだけの毎日。
叔父は早朝からブドウ山に登り、木箱に何杯ものブドウを、天秤棒で前後に担いで戻ってくる。ブドウ山まではかなりの距離があった。石組みだけが顕わになった古墳跡もあった。古代からそのあたりには人の暮らしがあったのだろう。
午前中は、収穫したブドウを特殊なハサミを使ってサビ取りという作業をし、箱詰めをして集荷場に出す。その出荷用の木箱を釘打ちするのは、無口な祖父の仕事だった。納屋からは祖父の声はしなくても、釘を打つ音だけは終日していた。

その家の中心にいたのは祖母だったのではなかろうか。
祖母は、大阪の外へ出たことはなかったと思う。私の住んでいる九州がどこにあるのか、いくら説明しても理解できなかった。どこか広い海の向こうにあると思っているようだった。彼女は名家の出だったが、文字の読み書きもできたかどうかわからない。
それでも本人は、自分が知っているだけの、小さな世界の中心で、また家族の真ん中で賑やかに生きていた。毎日、足ぶみの臼で玄米をつき、朝夕は大きな木のへらを操って茶がゆを炊く。ときには鯰や鯉をさばき、私のためだけに特別に卵焼きもしてくれた。

その祖母が、いちど新世界という歓楽街に連れていってくれたことがある。そのとき入った食堂で、店員に「おぶうをくれはらんか」と言って、お茶を乞うたのが何故か恥ずかしかった。おぶうという言葉が幼児語のように聞こえたからだ。
あとで分かったのだが、お茶のことをおぶうという、その言葉は大阪ではよく使われる日常語でもあったのだ。日常生活の外に出ても、祖母にとってのお茶はおぶうであり、おぶう以外のお茶などなかったんだと思う。

長いようで短かかった夏の終り、祖母が名残りを惜しんで駅まで送ってくれた。別れ際に改札口で、私のシャツの胸ポケットにそそくさと何かを押し込んだ。その慌ただしい仕草が、別れを躊躇っている私には、淋しさを吹っ切ろうとする、祖母特有の励ましのように感じられた。私はホームに押し出され、夏の外に押し出されたのだ。
その時の、その駅での別れが、祖母との永遠の別れになった。そしてそれは、夏の家との永い別離でもあった。




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夏の手紙

2024年09月08日 | 「2024 風のファミリー」

 

きょうも近畿地方は34℃をこえる予報が出ていて、まだまだ炎暑の夏は終わりそうにない。
かつては、暑い夏は騒がしいセミの声とともにあった。騒がしいセミの声が途絶え、ツクツクボーシが鳴き始めると、夏という季節が終わる淋しささえも感じたものだった。
その頃、セミのことを手紙に書いたことがある。セミのことばかりを書いた。その人を好きだということを、正直に書けない事情があったので、その想いの量だけ、とにかくセミのことをいっぱい書いた。

はじめにマツゼミのことを書いた。梅雨の晴れ間に松の木などで鳴いている。一般的にはハルゼミと呼ばれ、いちばん最初に現れるセミだ。姿は見たことがない。鳴き声だけはよく耳にした。次に現れるのはニイニイゼミだった。ジージーと鳴いている。体は小さくて翅に縞模様があった。地味な存在だった。
さらにセミへの想いは広がっていく。アブラゼミやミンミンゼミのことも、いろいろと熱く書いた。どんなことを書いたかは忘れてしまったけれど、書くことがいっぱいあった。

翅が茶色なのがアブラゼミで、透明なのがミンミンゼミ。どちらかというと、アブラゼミは近場にいるが、ミンミンゼミはすばしっこくて、見つけにくいうえに捕まえにくい。いつも手が届かない高い木に止まっていた。
クマゼミ(鳴き声からワシワシゼミと呼んでいた)のことは、せわしない鳴き声以外は印象が薄い。九州でもまだ珍しいセミだった。もっと他のセミもたくさんいたような気がする。いなかったかもしれない。きっと幻想のセミがいっぱいいたのだろう。

好きです、と書きたかった。でも、どうしても書けなかった。セミが好きです、と書いた。「セミ」が「キミ」にみえてどきどきした。書いたり消したりした。
やっぱり書こうと思った。好きです、と書いた。好きです、という文字をはじめて見たような気がした。その文字は、好きですという文字ではないような気がした。あわてて消した。

盆風が立ちはじめると、楽しかった夏休みも終わり、奔放で自由な日々も終わり、何もかもが終わってしまうような焦りを感じた。私は書きかけの手紙をどう続けたらいいのか分からなかった。
騒がしかったセミの声は途絶え、ツクツクボーシやヒグラシが、夏の終わりを告げるように鳴き始める。ツクツクボーシは夏を惜しんでいる。「つくづく惜しい、つくづく一生」と鳴くと言われていた。朝夕に鳴くヒグラシも、次第に細まっていく鳴き声が、遠くへ何かを運び去っていくようだった。

その頃はいろいろなセミの声によって、私の中では季節の移ろいが細かく彩られていたのだった。セミのことをもっと色々と知っていたし、知ろうとしていた。いまはもう、そんな熱い想いでセミの風景を眺めることもできないだろう。
セミのことが詳しいんですね……。
それが彼女からの返信だった。他にどんなことが書いてあったか覚えていない。記憶に残るほどのことは書かれてなかったのだろう。その夏、相手に伝わったのは、セミのことだけだった。




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桂馬の高とび歩の餌じき

2024年09月03日 | 「2024 風のファミリー」

 

私が子どもの頃、近所には子どもがいっぱい居た。
親戚の家でも、そうではない家でも、いずれの家にも子どもが沢山いた。みんな似通った年齢だったので、ごっちゃになって遊んでいた。ときには大人や老人や犬までも、ごっちゃになって遊んでいた。

母の実家は隣にあった。
母が子どもの頃、家は餅屋をしていたので、その名残りだったのだろうか、家の前に大きな縁台があった。餅を買って食べたりする通りがかりの客が、その縁台で一服する、そのためのものだったのだろう。

夏の夕方など、その縁台で将棋をする。始めのうちは子ども達だけで、王より飛車を可愛がったりするヘボ将棋をしているのだが、だんだん大人まで集まってきて、ああだこうだと指図を始める。
岡目八目という言葉もあるが、周りや高みから見ている方が、駒の位置が見やすく、形勢判断がしやすいもので、それで次第に外野がうるさくなって、いつのまにか誰が将棋を指しているのか分からなくなるほどだった。

そんな場に父が出てくると、父は私の味方をすることになる。それが私は嫌だった。周りの目があるので、わざと父の指図とはちがう駒を動かそうと必死で考える。自分が思ったように駒を動かしたいのだが、父より良い手が浮かばなくて焦ってしまう。
父親がわが子の味方をするのは自然なことだったのかもしれないが、相手にも相手の応援がつく。次第に誰が将棋を指しているのか分からなくなり、指している本人は勝敗の楽しみも失われていくのだった。

桂馬が歩の餌食になってしまうのは悔しい。王手飛車はさらに悔しい。飛車はどんなことがあっても相手に取られたくはない。結局は飛車も桂馬もうまく使いこなせなくて、その悔しさだけが、いつも心のどこかに残り続ける。
いつも決まった相手と、決まった手ばかり指しているうちに、たぶん将棋にも飽きてしまったのだろう。それに子どもたちも成長し、いつしか縁台の夏も忘れられてしまう。

最近は天才的な若い棋士たちが注目されている。
おかげで将棋への関心が戻ってきて、棋譜をのぞいてみたりすることもある。プロもアマも飛車は飛車だし桂馬は桂馬、歩もまったく同じ歩であることが、何故か懐かしい。でも駒の動きはまったく違う。やはり天才は天才なのだ。
棋士は勝っても負けても静かに頭を下げる。そして黙ってお茶を飲む。
かつての、あの縁台将棋は騒然としていたが、それぞれの駒の動かし方だけは覚えることができた。しかし駒をうまく使いこなすまでは至らなかった。いまは将棋でごまかせる相手もいない。




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