大阪の正月10日は 十日戎で各神社はにぎわう 主神は七福神の恵比寿神で 神社の境内では福娘が 福笹にさまざま飾り付けをする 商売繁盛や笹もって来い 威勢のいい囃子言葉は 商人が多かった土地柄か 何より金もうけは大事 この日いちばん賑わうのは 今宮戎神社のえべっさん 戎さんは大きな耳をしてはるが なんでか耳が遠いらしい 願いごとは何であれ 大声で怒鳴らな通じへんと 金儲けしたい猛者どもが 大声で怒鳴りながら 拝殿の裏にある銅鑼を ガンガンと叩く いくら耳が遠い戎さんでも たまらず耳を塞いでしまわないか いつの正月だったか 娘が福笹を戴いてきたことがある 娘はもちろん 商売繁盛などではなく 良縁祈願でもしてきたのだろう その福笹の笹に 虫の卵がついていた 福笹はリビングに飾ってあったのだが 部屋を暖房していたせいで まだ戸外は真冬なのに 早々と卵が孵ってしまった はじめのうち それらは単なるホコリだと 見過ごしていたのだが そのうちホコリは 意志をもって動いていて 蚊のように飛び交っている 日ごとに数を増して いつのまにか部屋中いたるところで その小さな虫が舞うようになった その頃になって 家族みんなが気味悪がって よく注意して見ると 虫は天井の方から ふわっと落ちてくる その大元はなんと福笹で たくさんの幼虫が 綿毛のように群がっている 手にとって見るとそれは 小さなカマを持ったカマキリの幼虫 まさに孵ったばかりの幼虫が 次々と飛びたつ時を待っている OLだった娘は 昼間は家にいなかったが トンボだろうがセミだろうが 虫という虫はなんであれ とことん嫌っていたので この環境はとても許せない 福笹ごと外へ出してほしいと訴える しかし戸外は厳寒 そんな寒いところへ出したら カマキリは即お陀仏だろう かといって リビングをカマキリに明け渡す そんなわけにもいかず 生くるべきか死すべきか 迷いつづけているうちに わたしとカマキリ どっちが大事やの と娘は怒りだす始末 曖昧模糊とした主の言い訳けに 娘をからかう気持もあって カマキリの方が大事や などと言ってしまったので 娘はついにキレてしまい それなら私が出てゆく と虫の部屋を脱出 一方カマキリの幼虫がどうなったか 今では定かではないが それどころか春から秋にかけて カマキリ騒動がずっと尾を引いて その年の秋に娘は 部屋どころか家まで出てしまう 彼女は高校を卒業するとすぐに 銀行に勤めていたのだが 同じ支店の同僚との恋愛ざたが発展し ふたりは結婚の意向もありながら それは銀行としては不都合なことなのか わざわざ支店長までが 言い訳に出向いてくる始末 あげく娘だけが退職させられた そんな事情の相手と結婚 などは許せないと 母親はずっと頑張っていたが 最終的には娘の体のことも気遣い 娘の気持は変わらないということで 親の気持は熟さないまま 結婚式の準備は当事者ふたりが進め 秋には結婚という決着になった ある日曜日の朝だった リビングの床に新聞を広げて読んでいた 僕の背中に娘が とつぜん体を投げかけてきたことがある それは一瞬のことだったかもしれない 娘は寝起きでまだ寝ぼけていて 発作的に親に甘えたくなり 幼児がえりをして そのような行動になったのかもしれない 娘はひと言の言葉も発せず 娘の体の温もりだけが背中に残り その温もりに重たいものも残ったが 何か言いたいことがあったのか あるいはただ衝動的な甘えだったのか 互いに確認することも躊躇われ その場はそのまま過ぎ去った だがその後の さまざまな出来事をふり返ってみると あのときの娘の行動にも 思い当たるふしがないこともなかった そのころ娘のお腹には 小さな命が宿っていたのだ それは娘だけの秘密だったが そのとき伝えたいことがあったとすれば そのことではなかったかと 想像することもできた 披露宴で花嫁の父として スピーチを終えて席に戻ると 母親をはじめ家族が ハンカチを顔に押しあてて泣いている その様子をみると 急に気がゆるんで涙が溢れてきた 感動でも悲しみでもなく 割り切れない悔しさのようなもの だったかもしれない 職場では不正をしたわけでもない ただ恋をしただけ なのに退職を強いられ さらには ひとりの男に娘をさらわれてしまう その年のすべてが早送りのようで 喜んでよいやら悲しんでよいやら なお判然としない思いが もやもやと漂っているのだった 年がかわり春がきて 娘は男の子を産んだ 娘は母乳の出がよく 赤ん坊は食欲旺盛 欲しがるままに飲ませたもので 子どもは太りに太り やがて夏がきて しこ名入りの浴衣など着せたら 小さな関取りの出来上がり わが家のリビングを這い回るのを かわいい可愛いと みんなで追いかけたり 抱き上げたりする賑やかさ カマキリの幼虫で あれだけ騒いだ同じリビングを いまは太った赤ん坊が 這い回って騒いでいる 十日戎の福笹の カマキリ騒動で始まった なんやかんやと 落ち着かない年が過ぎ ひと巡りしてまた 新たな命の誕生となってみると 父親にも聞き取れなかったような 娘の小さな声が 耳の遠い戎さんの耳には しっかり届いていたのかもしれなかった