『わたしが一番きれいだったとき』という、茨木のり子の詩を読んだことがあるひとは多いと思う。実際もきれいなひとだったらしくて、『櫂』という詩誌の同人だった川崎洋が、初対面のときの印象をきれいなひとだったと、どこかで書いていた。
彼女の『二人の左官屋』という詩の中に、「奥さんの詩は俺にもわかるよ」という詩行がある。たしかに彼女の詩はやさしく読める詩が多いので、幅広い年齢層に親しまれているようだ。
彼女の詩の読みやすさは、散文に近いということもあるが、一見やさしそうにみえる詩の背後に、社会に対する透徹した見識や厳しい創作の姿勢があるから、何気ないやさしい言葉が、共感を得る美しい言葉となっているのだろう。
『美しい言葉とは』という自身のエッセーの中で、日常会話においても文学作品においても、美しい言葉とは「いつまでも忘れられない言葉」のことだと述べている。
読むひとや聞くひとの胸に、棘のように刺さってくる言葉であっても、「良くも悪くも一人の人間の紛れもない実在を確認できるもの」であれば、それは美しい言葉であるという。ひとりの人間が、その言葉の中に見えるか見えないか、それは美しいと同時に重い言葉でもあろう。
そのひとの弱さをあえて隠さない言葉であり、整理しても整理しきれない部分を含んだ言葉であり、語られる内容と過不足なく釣り合っている言葉、などが美しい言葉だという。言葉に対しての、かなり厳しい姿勢が要求されている。
どんな些細なことであっても、そのひとなりの発見を持った言葉は美しいという。そのことを、表現する言葉が正確であり、あるいは正確さへと近づこうとしている言葉は美しいという。
そしてさらに、言葉以前の問題として、そのひとの「体験をみずからの暮らしの周辺のなかで、たえず組みたてたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく結晶化させる」ことだと述べている。
独自の発見があるということ、表現が正確であるということ、さらには内容において、これまで見聞した経験が十分に自分の中で純化され、自分独自の認識になっているということ。これらのことは、あたりまえなことのようだが、美しい言葉へのハードルの高さを感じさせられる。
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
(『倚りかからず』)
それは
椅子の背もたれだけ
(『倚りかからず』)
できあいの思想や宗教や学問には倚りかかりたくないという。さらには、いかなる権威にも倚りかかりたくないと、凛として言葉と真摯に向き合い、倚りかからない詩人の言葉は、ことさらに美しくもあり厳しくもある。