暑くもなく寒くもない、心地よい風が吹いている。草木の若葉や花の香りをいっぱい含んでいる。
昨日の風は鳴ってゐた……
は、立原道造の詩のどこかにあった言葉だけれど、昨日の風ってどんな風だろうと、ふと思った。いま吹きすぎていく風は、今日の風なのか昨日の風なのか、そんなことは考えもしないことだった。
もしも風に記憶というものがあるとしたら、それぞれの風が通ってきた、それぞれの記憶の道があるかもしれなかった。そんな風があるとすれば、その風は昨日の風かもしれないし、もっとずっと昔の風かもしれない。
記憶の風景の中を吹きすぎていく風は、たぶん音楽のようなものだろう。
しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?
(立原道造『優しき歌』より)
この日頃、記憶の風に吹かれながら、記憶の歌を聞くように、自作の古い詩を集めてウェブ詩集を作っている。それなりの時間がたって読み返してみると、自分の詩作の軌跡や作品の瑕疵がよくみえる。
読み返したくないと思ったり、こんな詩を書いたのはどんな自分だったのだろうかと振り返ったり、久しぶりに自分が書いたものと向き合っていると、さまざまな思いが交錯する。
詩として作品化されたものは多分にフィクションだけれど、背景にはリアルな生活や情感があったわけで、フィクションとリアルとの隙間を記憶の風のようなものが吹いていて、その風の振幅の中にも真実と嘘が混在しているにちがいなかった。
それらの記憶を証明するものは言葉だけれど、ぼくの言葉が真実を語ったかどうかは自信がない。
ただ、言葉の真実に近づきたいという切望だけはあったと思う。そして今は、そのことだけを言葉の音楽のように聞いている。