風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

人形のとき

2025年03月02日 | 「2025 風のファミリー」



まだ雪が舞う日もあるような春だった。九州の田舎の、すり鉢のような小さな街を、雛の節句を祝う静かな華やぎの風が漂っていた。
さまざまな雛人形が、古い時代の装いや表情をして、家々の玄関や店先に飾られていた。人形のあるところには、いつもとはちがう少しだけ華やいだ風景があった。
住む人も減り、人の影もめっきり少なくなったのに、着飾った人形ばかりが勢ぞろいして、かつて賑わった街の記憶を無言で語りかけてくるようだった。

そんな季節に、父は逝った。
父は翌日出かける予定があったのか、ていねいに髭を剃り顔も洗って寝た。そして、夢のなかで出かける場所を間違えたのか、そのまま戻ってくることがなかった。
その夜、家族は眠り続けている故人を取り囲んで、記憶の中の父と語り合った。冬でもないが春でもない、夜が更けるにつれて外の冷気に包まれてくる。すこしでも暖を取ろうと、寝かされた人の夜具に手や足を入れてみるが、死んだ人の氷のような冷たさが、夜具にまで重たく沁み込んでいた。

父を送る慌ただしい数日間が過ぎて、気持ちの整理もできないまま、雛祭りをする街の中を歩いてみた。
人形の顔は何百年も変わることがない。古い時代の人形は、いまも古い時代を生きているようにみえた。人形の記憶は、失われることも蘇ることもないのだろう。変わらないということは、人形の不気味さでもあり、変わらない表情のままで、人の記憶の脆さをじっと見つめ返してくるようだった。

人はさまざまな記憶を失ったり蘇らせたりしながら、記憶と現実の流れのなかで、とても危うく生きているのかもしれない。
最近、妻の記憶が曖昧になった。娘が置いていった小さなお雛様を、毎年この時期になると出すのだが、妻は初めて見るような顔をして眺めている。娘が生まれた最初のひな祭りに、娘を抱いて池袋の東武デパートにお雛様を買いに行ったが、妻はその時の記憶も失くしている。ときには娘の名前さえ忘れてしまう。変わらない表情で、様々なことを語ってくれる人形と、妻はただ可愛いと言いながら対面している。かたわらで今は、人形の時だけが静かに流れている。

 

 

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