風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

鍋の底が抜けたら

2024年01月28日 | 「2024 風のファミリー」

 

ずっと気になっているわらべ唄があった。

なべなべ がちゃがちゃ
そこがぬけたら かえりましょ

夕暮れになって辺りが次第に暗くなってくる頃、ケンケンパ、瓦けり、かごめかごめ、花いちもんめ、楽しい遊びが中断されて、子どもたちはそれぞれの家に帰ってゆく。そんな遠い日の懐かしい光景が浮かんでくる。
それにしても、なぜ鍋はとつぜん底が抜けてしまうのか。昔は破損した鍋釜を修理する鋳掛屋(いかけや)という商売もあったようだが。

東京荻窪で自炊をしていた学生の頃、私の手元に鍋といえるものはフライパンがひとつだけだった。目玉焼きも野菜炒めも、そしてたまには、すき焼きまでこなせる重宝な鍋だった。
すき焼きといっても高価な牛肉が買えるわけではなく、いつも豚肉のこま切れなのだが、いちど作ると1週間はすき焼きのアレンジで食いつなぐことができた。残り汁に有りあわせの野菜をただ足してゆくだけ。煮汁が少なくなれば水と調味料を加え、あとは飽きる飽きないを超越して、ひたすら食べ続ける。
私が都会の片隅で生きているのは、ただ、がつがつと食うためだけなのかと深刻に考える日もあった。

結婚してからは、食うということの心配はなくなったが、こんどは別の意味で、食うためや食わせるためにがつがつと働かなければならなくなった。そして幾年月かが過ぎて、いくつもあった黄色い嘴がひとつふたつと飛び立って、ふたたび残された巣に戻ってみると、互いにひと仕事終わったみたいに、ただ生きるという意欲も弱まってくるようだった。
どうして毎日、わたしだけが食事の用意をしなければならないのかと、カミさんが言い出したりする。そんなときは、心身ともに疲れているという赤信号なのだ。献立が何も思い浮かばないという菜箸の先が、乾いた鍋の底を突然かき混ぜはじめる。

そんなことを言われても、私の古いフライパンはすっかり錆びてしまっている。
食わせてやったり食わせてもらったりの夫婦の関係は、飼育などという生易しい次元の問題ではない。愛情があるとかないとか、人間の本質的な問題にまで進展しかねないのだ。
カネがあれば何でもできる世の中らしいが、いまさら離婚を決行するにも、分け合うだけの年金も財産もない。カネがないということは、切れるべき縁もとっくに切れているということだろうか。それならそれで気分も楽なのだが。

夜になっても台所に電気が点かないままだと、悪い予感に襲われる。
ついにカミさんはダウンしたようだ。口に体温計をくわえ、額にアイスノンをのせて炬燵でのびている。
仕方なく私はスーパーに行き、鍋用にセットされたアンコウを買ってくる。土鍋にたっぷり水を入れ、白菜やネギ、椎茸などをぶち込んで火にかける。味付けはみりんと醤油、さらにおまけでモンゴルの塩をひとつまみ。これでモンゴル横綱のように力が付くかもしれない。
仕上がりは上々で、けっこう美味しかった。料理の腕というよりはアンキモのお陰にちがいない。カミさんは黙って食べて、すぐに寝てしまった。

2日目は、鍋の残りに白菜と豆腐、それにエリンギを加えた。アンコウは初日で平らげたので、買い置きの黒豚のロース肉を入れた。これも及第点の美味しさだった。けれどもカミさんはあまり食べなかった。どんなに絶品の味でも食欲がないのでは仕方ない。
だが食事のあとで、白菜はきれいに洗ったかとひと言。流しで虫が這っているのを見かけたらしい。ドジな虫だ。悪いところを見られてしまったものだ。たしかに白菜は虫食いだらけだった。子どもの頃はそんな野菜ばかり食べていたので、私は平気なのだが、田舎の都会っ子育ちが口癖のカミさんは、虫を親の仇のように毛嫌いするのだ。

次の日も、鍋の残りに餅とうどんを入れて食べた。白菜は止めにして春菊を入れた。土鍋料理も今日あたりが限界だと思ったので、最後のスープまで飲み干した。3日目ともなると煮汁も絶妙の味になっている。すこし舌触りがざらついていたのは、春菊の洗い方が雑だったかもしれない。カミさんのクレームを心配したが、もはやその気力もなさそうだった。
翌日もカミさんは起きてこなかった。土鍋も空になったので安心して寝ているのかもしれない。でもにわか料理人としては、土鍋を普通の鍋に取り替えるくらいのレパートリーしかない。

荻窪時代の腕を活かして、今度はすき焼き風にしてみた。
まず冷蔵庫に残っていた豚肉を炒めて、砂糖とみりん、醤油などで味付けし、その上に適当に刻んだ白菜をぶち込んだ。幾分やけくそ気味である。鍋を白菜で山盛りにし、無理やり蓋をして煮込む。しばらくすると、食欲をそそるような甘い匂いが漂ってきた。
だが煮詰まると、白菜が鍋の底に沈んでしまったので、冷蔵庫にあった豆腐を追加した。

お腹が空いていれば、どんな料理でもご馳走のはずだ。カミさんは豆腐ばかり食べ、合間にすこしだけ白菜に箸を伸ばした。今回はお咎めはなかった。すこしは料理人の苦労を気遣う余裕も出てきたのかもしれない。
翌日はいよいよ最後の晩餐、鍋の底に残った煮汁にうどんを入れて、特製焼きうどん風にしてみた。このレシピは荻窪仕込みだから年季が入っている。けれども昔はむかし、料理の腕もすっかり落ちている。鍋の底にうどんが焦げ付いてしまった。

なべなべ そこぬけ
そこがぬけたら かえりましょ

わが家の鍋も、ついに底が抜けてしまったようだ。そんなわけで、私ももう帰りたくなったのだった。


「2024 風のファミリー」





正月は雑煮を食べて争う

2024年01月23日 | 「2024 風のファミリー」

 

すりこぎを持ってすり鉢に向かう。これが正月三が日の私の日課だった。
元日の朝は胡桃(くるみ)、二日は山芋、三日は黒ごまを、ひたすらごりごりとすり潰す。
胡桃と黒ごまはペースト状になって油が出てくるまですり潰し、山芋はだし汁を加えながら適度な滑らかさになるまですり続ける。
胡桃と黒ごまのペーストには砂糖を加えて甘くする。これに雑煮の餅をつけながら食べるのだが、これは岩手県三陸地方の一部に伝わる風習のようで、カミさんは子どもの頃からずっと、この雑煮を食べてきたという。

私は最初、こんな甘い雑煮を食べることにびっくりしたが、これをカルチャーショックというのだろうか、もともと、この種の驚きを好んでしまう性癖から、面白いね、珍しいねなどと言いながら食しているうち、この甘い雑煮がしっかりわが家に定着してしまい、これが正月三が日すり鉢に向かう私の苦行の始まりとなった。

このような独特な風習にも、すっかり慣れてしまうほど古い話になるが、カミさんとの出会いは東京生活の頃だった。彼女は会計事務所に勤め、私は小さな出版社で雑誌の広告を作っていた。
そのころ彼女は両親と一緒に暮らしていたが、両親は岩手で事業に失敗して東京に出てきたと聞いた。父親も母親も東北弁で、彼女も家では親の言葉につられて訛ったりするのだが、ところどころ判ったり判らなかったりする言葉の曖昧さが、かえって新鮮で快い響きとなって伝わってくる。それは九州出身の私にとっては興味深い言葉だった。

宮沢賢治や石川啄木の作品にも関心をもっていた私は、「あめゆぢゆとてちてけんじや」とか「おら おらで しとり えぐも」といった賢治の詩語や、啄木の俳句「ふるさとの訛りなつかし停車場の人込みの中にそを聞きに行く」の、啄木の「そ(方言)」をナマで聞いているようで感動してしまうのだった。
それまで馴染みのなかった言葉で、それも体の芯から出てくるような濁音の多い言葉を交わしながら、家族というものがひとつになって生きている。東京でずっと孤独な生活をしてきた私は、そんな家族の温もりのようなものに、いきなり包み込まれてしまったのだった。

結婚式には、北の方からと南の方からのそれぞれの親類が集まった。
ちがっていたのは言葉だけではなかった。顔はもちろん体型までもまるでちがって見えた。私の方は背が高くて痩せ型で、顔も細おもてなのに対して、彼女の方はがっちりした体格で顔も大きくてゴツかった。
のちの話だが、彼女の方にはアイヌの血が入っているにちがいないと私が言うと、あなたの方こそ渡来人だと言い返してきた。お互いにアイヌや渡来人を蔑視して言ったわけではなかったが、異人種に接するような感覚は拭いきれず、この第一印象は、男と女の違いや性格の違い、感覚や思考の違いとともに、夫婦の間に人種問題まで残してしまったようだ。

それでも正月三が日は和やかに雑煮を食べる。
元日の朝は、雑煮の餅をペースト状にした胡桃にまぶして食べる。東北地方では、美味しいことを胡桃味という表現も残っているそうだから、これはやはりご馳走なのだろう。
二日の朝は、ご飯を炊いて山芋をかけて食べる。これもシンプルで美味しい。食膳には南部の鼻曲がりという鮭も並んだが、いつしか岩手の身内も亡くなってしまい、鼻の曲がった鮭にもお目にかかれなくなった。
三日の朝は、黒胡麻のペーストを餅につけて、黒っぽいグロテスクな雑煮を食べる。北と南が融合した平和な正月の食卓である。

けれども、めでたく平穏な時は長続きはしない。
四日の朝には、すりこぎのことで喧嘩になった。すりこぎがすりへっているとカミさんが言うので、すりこぎだって木なんだからすり減って当然、なにをバカなことを言い出すのだと、それが発端だった。
すりこぎの減り方などどうでもよかったのだが、その減り方に日頃の怨念を感じたのかもしれない。そんな些細なことから国境を越えてしまうのがわが家の事情で、アイヌと渡来人の誇りを背負っているかのような、まさに異民族の争いにまでなってしまう。
いつまでたっても、すりこぎではすり潰せないものがあるのだった。


「2024 風のファミリー」





レンコンの空は青かった

2024年01月13日 | 「2024 風のファミリー」



お節と雑煮にも飽きて、ごまめとお茶漬けくらいがちょうどよい頃、冷蔵庫を覗いていたら、野菜室の底にレンコンが見つかった。暮れから水に浸けられたままで出番がなかったのだ。まるで忘れられたように、薄よごれた表情でレンコンはそこにあった。
レンコンは、穴がたくさんあいていて見通しが良いとか。そんなことから縁起のよい食材とされているが……

レンコンばかり食べて過ごしたお正月があった。
東京でひとりだった。
年の暮れの31日ぎりぎりまでアルバイトをしていた。暮れの31日に出社する社員などいない。それでアルバイトの私に残った仕事が任された。地図をたよりに、一日中電車で東京のあちこちを駆け回った。
任されていた仕事を終えて、お正月休みの食料を買い込まなければと、閉店間際のデパートに立ち寄ったが、食品売場のショーケースはすつかり空っぽ。かろうじて、酢レンコンが一袋だけ売れ残っていたのを買った。食べるものはそれだけしかなかった。

お正月でも食堂の一軒くらいは開いているだろう、などとは甘い考えだった。まだ武蔵野の林や藁屋根の農家が残っているような、東京のはずれに間借りしていた。たった一軒あった近所の更科そば屋も、お正月の間はしっかり休んでいた。
ぶらっと外に出ても、人と出会うこともなく、動くものは小鳥だけで静まり返っていた。友人たちはみんな帰省し、東京には頼る親戚もなかった。食べ物を探して歩きまわったが、どの店もしっかり暖簾を仕舞っていた。

まだコンビニもスーパーもない時代だった。もちろんスマホもパソコンもなかった。誰とも繋がることもできず、孤独な若者がひっそり餓死しても不思議ではなかった。
空腹になると酢レンコンをかじった。というより常に飢えていた。空腹の極地でも酢レンコンはまずかった。酢の物では飢えはしのげない。反って酢の刺激で飢えが助長されて、食の妄想は募るばかりだった。頭の中は食べ物のことでいっぱいになった。

ひとりきりの三が日、とりとめのない妄想の行き着くところは、空しさと滑稽さしかなかった。レンコンには、なんでこんなに穴ばかり空いているのだ、空虚、空疎、空腹、ああ、レンコンと心中か。そんな言葉しか出てこなかった。もはやレンコンが食べ物かどうかも分からなくなった。やけくそ気味になって、薄っぺらくて白い酢レンコンを空に向かってかざしてみた。
レンコンの小さな穴の中に、いくつも小さな空があった。ふだんは寝ぼけたような東京の空が、レンコンを青く染めそうなほど真っ青だった。レンコンの穴のひとつひとつに、しっかり本物の空が詰まっていた。食べたくなるような美しくて青い空だった。


「2024 風のファミリー」





神様を探していた

2024年01月06日 | 「2024 風のファミリー」



新しい年が始まる。カレンダーが新しくなる。新しい朝、新しい風、新しい太陽。すべてのものに「新しい」をつけて気分を新たにする。元日の朝は、厳かな気分で柏手を打つ。神棚はないが長いあいだの習慣で、三方にお鏡を飾りお神酒を供える。神様の依り代として形だけは整えて、静かに神様に向き合おうとする。

そういえば、神様とも疎遠になって久しい。奈良の法隆寺の近くの、鬱蒼とした森の中に静かな神社があった。子ども達がまだ幼かった頃、正月三が日の一日、その神社にお参りするのがわが家の恒例になっていた。それぞれの年の、それぞれの記憶がそこから始まっている。ある年は、妻のお腹が大きく膨らんでいた。手水鉢の水を柄杓で受けている格好が、力士のように威張ってみえた。それから十日後に男の子が生まれた。

その翌年、妻はびっこを引きながら神社の石段を上った。暮れから足首を痛がっていた。腱鞘炎なら歩いた方が良いだろうと無理して歩いていたが、次第に歩くこともできなくなり、痛い痛いと涙を流しながら、家の中を這って移動していた。
休日あけの病院でリュウマチだと診断された。医者は痛み止めの注射だけを打って、原因も治療法もわからない病気だと言った。どうすればいいのか途方に暮れた。神様助けてくださいと祈るよりほかなかった。

朝の出勤前が忙しかった。妻を車に乗せて大阪駅近くの鍼灸院に通った。副作用があるという注射を打つよりも、灸の方が良いかもしれないと判断したのだった。一日に何回か、妻は自分でも灸をすえていたので、家じゅうもぐさの匂いが籠もっていた。匂いを嗅ぐだけでも効能はあるのだと言いながら、病人臭がこもるのを言いわけしていた。

3人の子ども達が順ぐりで風邪を引いた。出勤途中に、開院前の小児科病院の予約ノートに、子どもの名前を書いておく。昼休みに家まで車を走らせることもあった。子どもは突然高熱を出したり思わぬ怪我をしたりする。親の手が完全には届かない子ども達は、神様の手に委ねられているのかもしれなかった。
そして神様は、しばしば願いを聞き入れてくれたようだ。妻は起床時に、手の指がこわばる状態がしばらく続いていたが、足の痛みはなくなって歩けるようになった。子ども達も風邪ひきや肺炎程度でなんとか順調に育った。

その神社には20年ほども通い続けただろうか。ちょうど子ども達の成長期でもあった。今よりも森の神様がずっと身近にいた頃だった。まだお参りする人もまばらで、しんしんと冷える早朝の境内で、太い倒木を燃やす焚火にあたっていると、神殿の奥で祝詞をあげる神官の声が、深い森から聞こえてくる神様の声のようだった。神社の森は、そのまま後背の山へと広がっていたから、森の奥深くには、ほんとに神様が潜んでいそうだった。しんとした元日の朝の澄んだ空気の中で、神様の呼吸に触れているような気がしたものだった。

最近は、正月の鏡餅に向かって打つ柏手が、なぜか空疎な響きに聞こえる。いつからか、すっかり神様から遠ざかってしまったようだ。私のそばから、いや、私の中から神様はいなくなってしまったのだろうか。ふと、そんなことを考える。
ひとは言葉で神様に祈るが、そのとき神様からの応えがあるとすれば、それは言葉ではないもので返ってくるのだろう。だから神様は目には見えないが、神様からの応えも目には見えない。

私は詩を読んだり書いたりすることもあるが、詩の言葉は、日常の言葉や意識よりも深いところから生まれてくるような気がしている。たぶん詩の言葉というものも、神様の領域の近くにあるものかもしれない。
このところ詩の言葉になかなか手が届かないのは、神様が遠くなってしまったからかもしれない。詩神という言葉がある。詩の神様もきっと深い森の奥にいるのだ。詩の言葉を探すということは、森の奥深くに分け入って神様を探すことかもしれないなどと、新しい年の新しい朝には思ったりする。


「2024 風のファミリー」





<2024 風のファミリー>残されて在るものは

2024年01月01日 | 「2024 風のファミリー」

 

いま私は3畳の狭い部屋に閉じこもって日々を送っている。
かといって、世間の壁と折り合えずに閉じこもっているわけではない。どちらかと言えば、世間に見放されて閉じこもっている、あるいは自分勝手に閉じこもっている、と言った方がいいかもしれない。
そんな人間だから、いつのまにか、うちのカミさんとの間にも間仕切りのようなものが出来てしまっている。小さな家の中で無益な諍いを避けるため、お互いに干渉しあわなくてもすむように、それぞれが身に付けてきた知恵で、自然にこういう形に収まったということだろうか。いまのところ、この狭い空間の住み心地は悪くない。

以前は、カミさんが洗濯物を干すためにベランダに出るとき、私の部屋をまるで廊下のように通り過ぎるのが気になっていた。洗濯や料理や掃除など家事で忙しく動き回っている身には、私のやっていることなどは、単なる時間つぶしの遊びに過ぎないのだ。遊んでないで勉強しなさい、と言われる子供の気持ちがよくわかった。
そこで私は洗濯物を干す役割を引き受けることにした。洗濯機の仕上がりのブザーが鳴ると、やおら洗面所に駆けつける。駆けつけるとは大げさで、実際は引き戸を1枚開けるだけのことである。そして私は洗濯物をベランダに運んで竿にかける。これで私の部屋は乱されることがなくなり、余計な気遣いも減った。

ふたたび私の個室にもどる。ガラス戸の外で、私の干したシャツやパンツが風に揺れているのを見つめながら、私は詩を書いたり古い日記を整理したりしてきた。このような生活に今のところ満足している。
ところで私が整理してきた日記というのは、16歳から25歳くらいまでの間に書き残したものだが、その頃、私は詩や小説を書く生活に憧れていた。それ以前は読書が好きだったというのでもないから、なんら文学的な関心や素養があったわけでもない。むしろ小・中学生の頃は、手塚治虫や馬場のぼるにハガキを出したりするほどの漫画少年だった。
ところが、福永武彦の小説を読んでから漫画を離れた。かなり感傷的な色に染まりはじめていた私の創造世界を、漫画で表現することは難しいと思ったのだった。いま考えてみれば、たんに私の描画力が未熟だっただけなのだ。
結局は自分のイメージを文章で表現することもできず、思うように言葉を綴れない鬱屈した気持を、ただ日記帳に吐き出していたようだ。25歳で私の日記は終わり、その後ふたたび日記帳を開くことはなかった。それは書くこと、すなわち文学世界との長い決別でもあった。
結婚をして子供が生まれ、生計に追われる、ごく普通の生活が続いた。家庭生活や仕事にもある程度満足した。その結果として、今の生活があることを思えば、それなりに納得できる人生だったかもしれない。いろいろと変化をもたらしてくれる子どもや孫たちにも恵まれた。

それはそれとして、なぜまたカビ臭い日記を引っぱり出すことになったかというと、興味本位で始めたホームページの穴埋めに、古い日記でもアップしようとデータ化を始めたのが動機だった。作業は順調に進んだ。だが21歳から22歳の頃の日記になって、なぜかキーボードを打つ手が進まなくなった。
私はその頃も、今と同じように3畳の部屋に閉じこもっていたのだ。早稲田鶴巻町の東京の空を眺めながら、周りも見えず、将来も見えず、自分自身のこともよく見えず、悶々として日々を送っていた様子が、日記帳のどのページからも蘇ってきた。
私にはさまざまな劣等感があった。体が痩せていること、貧乏であること、東京の人間でないこと、親友も少なく恋人もいないこと、実存主義が理解できないこと、ひとを楽しませる会話ができないこと、数えればきりがないほどだった。
そんな私は何に支えられていたのだろうか。あるかないか判然としない将来の夢だったのだろうか。判然としないから、それは夢であり続けることができたのだろうか。それが若さというものだったのだろうか。

3畳一間の下宿の窓から外を眺めていた孤独な私と、いまベランダの洗濯物を眺めている私との間には、気の遠くなるほどの歳月が横たわっている。その間に世の中は大きく変わった。まるで価値観が裏返しになったように一変したのだ。
東京の空はいつも薄曇っていた。スモッグで靄っている風景は、繁栄の象徴と見られていた。若者は都会に憧れた。食生活は貧しく、体格も貧相だった。常に栄養価の高い食品をとるように気を付けなければならなかった。アメリカでは道端に自動車や冷蔵庫が捨てられていると聞いた。そんな話などとても信じることができないほど、日本は小さな貧しい国だった。日本人はアメリカやヨーロッパに憧れた。
そして変わった。いまや一歩外にでると道路は車が溢れている。少し山道に入ると、道端に古い車が捨てられている。テレビや洗濯機も捨てられている。現代人は物を捨てることに苦労している。
食べ物も捨てられる。飽食の時代である。太りすぎた人も痩せた人も いかに栄養価の低い食品を摂取するかに苦心している。

そして私も変わった。肩がこりやすくなった。目が疲れやすくなった。さまざまな限界がみえるようになった。悪あがきをすることが少なくなった。残された時間を気にするようになった。古い日記帳は閉じた。古い自分と決別することにした。いま私の前途に、どれほどの可能性が残されているのかはわからない。先が見えないのは、若かった日も今も変わらない。ただ、これから歩いていく道は、おそらく1本くらいしかないだろう。そう思うと気楽でもある。この1本の道の先に、どんなものが残されて在るのか。不確かな希望があり、不確かな不安もある。いま窓の外では、私の抜け殻が風に揺れている。

 

本年もよろしく