帰途はシェエラザードの海を漂う
いつか確認する日のために、岩に3人の名前を刻印したあと、展望台の麓の草むらで弁当を食べた。母が作ってくれた弁当は、卵焼きがたっぷり入っていた。かつての貧しい弁当とは違っていた。最後の弁当だと思うと胸がいっぱいになった。
食べ終わると、いつもの頭痛が始まったので、ぼくは展望台に登るのはやめて、ひとり残って草の中で寝ていることにした。ぼくの頭痛はしばしば起きた。映画を観たあとだったり寝不足だったりすると起きた。
草むらを抜けてくる風の音に混じって、しばらくの間、ふたりの話し声が聞こえていたが、それも次第に遠くなって、あとは草がそよぐ音だけになった。きゅうに周りの風が静寂の音に変わった。
少しだけ伸び始めた髪の毛をくすぐるように風が吹いていた。髪はほんの数日前に伸ばし始めたところだが、手で触れると、これまでの丸刈りとは違う、やわらかい髪の感触に変わりつつあった。
公立高校だったので、卒業近くになって進路が決まるまで髪を伸ばすことは厳禁だった。だから就職や進学が決まった者は誇らしげに髪を伸ばした。ぼくは進路が決まらなかったので、卒業まで髪を伸ばすことはできなかった。
じっと空を眺めているうちに、脈を打つような激しい痛みは治まってきた。春がすみのせいで空の色も白っぽかった。あるのかないのかわからない空を見つめていると、自分の体が宙に浮いているような不安に襲われた。まもなく始まる新しい生活、東京にはどんな生活が待っているのかも分からない。まるで今の空のように霞がかかっていた。
ふたりが戻ってきた。
高原を吹く風は爽やかさと冷気が控えめに混じっていた。しかし、波のような草原のうねりを越えて歩いていると、すぐに汗をかくほどだった。
視界を遮るものはなく、なだらかな風景が幾重にも広がっていた。遠く低くなるほど霞みの中に沈んでいくようだった。
そんな風景をしっかり記憶しようとしたが、この季節はあらゆる景色がすでに、古い記憶のようにぼんやりしているのだった。いくつもある山々のくぼみの、さらに遠くにぼく達の視線は注がれていた。これまでの生活の痕跡と、やがて置いていかなければならないものが、そこにあると思った。
高原からの帰途は最終バスに乗り遅れてしまい、夜道を歩いて帰ることになった。この日が記憶に残るには十分な、長くて暗い道のりだった。
この暗い道はどこまで続くのか、これは明日からの不確かな道の始まりなのかもしれなかった。今まではひとつの道を歩けたものを、これからは別々の道を歩いていくことになる。夜道はさまざまな思惑の道でもあった。
もう語る言葉も語りつくしたあとの、疲れた体と魂は次第に空っぽになっていくようで、どこか異国の音楽が闇をぬって染み込んできた。ある部分のある主旋律ばかりが単純に繰り返され、ひとりが口にするとすぐに3人で共有されるものがあった。いつかハーモニカで吹いたかもしれない懐かしい旋律だった。そのままどこかへ運ばれていきそうな、もはやあらゆるものが、ひとつの旋律になって流されているようだった。ぼく達は海になり船になって遠くの耳にしたがって漂う。シェエラザード、海とシンドバッドの船、カランダール王子の物語、海とシンドバッドの船、シェエラザード・・・