目をつぶると、ひと筋の川が流れている……
という書き出しで、回想録を書いたことがある。
ひとつの川のある風景は、ぼくの記憶の原風景でもある。
「目をつぶると、ひと筋の川が流れている。夢の中でも夢の外でも、その流れはいつも変わらない。
私はときどき、魚になっている夢をみた。
川の水を、空気のように吸い込みながら泳いでいる。ひんやりとした水苔の匂いが胸いっぱいに満ちてくる。体が流れているような、漂っているような浮遊感が快かった。
梅雨の田植え期と秋の稲刈りの時期になると、学校は農繁休暇というのがあった。農家の子供が多かったから、農作業の手伝いをさせるために、学校は数日間休みとなった。家が商家の私は、この休暇はすることがないので思いきり遊べるのだった。
梅雨の頃はちょうど魚が産卵をする季節で、動きが活発になる魚を追って、私は終日川にいて釣り竿を振りまわしていた。魚は鮮やかな婚姻色に色づいていて、私の手の平は釣り上げた魚の白い精液や小粒の卵にまみれていく。雨あがりの湿った大気と増水した川のしぶきが融け合ったなかで、まるで魚と同じ匂いと空気を吸っているようだった。」
その頃のぼくは、容易に魚にもなれたかもしれない。
後年、それぞれの魚の顔を思い浮かべ、それぞれの魚の特性と釣り方を記録しておきたいと思ったのも、その頃の川も魚たちも、ぼくの生活のだいじな一部だったからだろう。記憶のなかの魚たちのすべてを、ぼくはもういちど記憶の川で追いかけたのだった。
「私の一日の釣りは、ときわ橋の下の瀬で終わるのが常だった。
ときわ橋は大きな滑らかな岩盤でできた地形で、川の流れはそこに集められて大きな瀬となって落ち込んでいた。この落ち込みには魚が集まっていた。
足もとの岩盤にはいく筋かの細い排水路ができていた。崖上の民家から台所排水が流れ出していたのだが、多くなったり途切れたりして、滑らかな岩の肌に縞模様を描いていた。そして日暮れ近くなると、岩盤を侵してくる排水が増えるのを見て、私は急かされるように、その日の釣りを切り上げる決心をするのだった。
そのような単調な日々を、いくど繰り返したことだろう。そして、いつか終わりのときがあったのだが、少年の歓喜を彩ってくれたさまざまな魚たちは、今でもときおり、私の夢の中まで泳ぎ出してくることがある。」
川は、夢ほどに遠くなった。
夢の中から泳ぎでてきた、一ぴきの美しい魚を釣り上げてみる。
雨の日は、雨の匂いがしている。