風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

秋色の向こうに

2024年10月06日 | 「2024 風のファミリー」

 

母の命日で、天王寺のお寺にお参りに行ってきた。
お墓は九州にあるのだが、なかなか帰れないので、分骨して大阪のお寺に納めた。それで秋は母の、春は父の法要をしてもらうことになっている。
九州の秋がすっかり遠くなった。
最後に母に会ったのはいつだっただろうか。記憶力がすっかり衰えていると聞いていたが、久しぶりに会ったのに特に驚いたふうもなく、私のことはまだ覚えていた。母の口から自然に私の名前がでてきて安心した。

それは、なにげない日常の続きのようだった。過去のいくどかの再会の時や、いつだったかの母の病室を訪ねた時と同じだった。変わらずに保たれているものがあることに、そのときは安堵した。
何しに来たんやと母が言うので、会いに来たのだと応えた。久しぶりに会ったということを、母はぼんやり意識しているようなので、大阪から別府までフェリーに乗って、それからレンタカーを借りて来たことを説明した。

天気が悪いと船は揺れるやろ、と母が言う。昔の船旅を、母は思い出しているのかもしれなかった。いまは大きな船だから、ほとんど揺れることはないよと応えると、そうかと頷いた。
そんな会話の後すぐにまた、何しに来たんやとたずねてくる。会いに来たのだとこたえる。そのようにして、会話はいくども始めに戻ってしまう。母の記憶力は、やはり衰えてしまっているのだった。

今のことは今しかなく、それも瞬時に消えてしまうのだろう。会っている瞬間は、会っていることを自覚している。だが話したことも聞いたことも、記憶には残らずすぐに忘れてしまう。だから同じ会話が繰り返される。母にとっては、会った瞬間だけがずっと続いているのだろう。
私としては、幼い子供と会っているような気分になって、もはやこの人はかつての母ではなくて、生まれ変わった母なのだと思うことにした。

昔の話をした。私の祖母、すなわち母の母親の手の甲にはピンポン玉くらいの瘤があった。そのことを話すと母も思い出して、私の記憶力に驚いてみせた。古い記憶はまだ母の中にもしっかり残っているのだった。
母の実家は饅頭屋をしていたのだが、母が女学生だった頃の話をしだした。毎朝大きな鍋であんこ練りを手伝わされた。あんこは熱くなると飛び散るので、よく火傷をしたもんやという。そこには、もうひとりの母がいた。

2日目も同じような繰り返しだった。母にとっては昨日のことは何も残っていない。昨日はすっかり消えて今日がある。いくど会っても初めての再会となるのだった。
持参した腹太饅頭を、入れ歯を外したままの口でおいしそうに食べた。食べ物はおいしいのだと言う。だが食べたばかりの施設の食事で、何を食べたかは思い出せないのだった。
果物が食べたいというので、3日目はオレンジを持参して食べさせた。もういいと言うので控えていると、ふたたび食べたそうに手を伸ばしてくる。食べた記憶も味の感覚もすぐになくなるのかもしれなかった。

レンタカーにはカーナビがついていた。よく知っている道だが、とりあえず目的地だけを設定して走りだした。私は慣れた懐かしい道路を走りたいのだが、カーナビは新しい道や近道へとしきりに誘導しようとする。いくどもナビの声に逆らって走行するうち、かえって遠回りになったりした。
18歳で私は家を離れた。カーナビのように、母は私が生きる方向を指示することは一度もなかった。もしかしたら母にも、私に走って欲しい道はあったかもしれない。私は勝手に自分の道を走りだしたのだったが、あれは母に逆らっていたのかもしれない。

ときには母を憎んだり蔑んだりしたこともある。母の思いが解かりすぎる時は、わざと母の思いをはぐらかしたりしたこともある。母はカーナビのように親切でもなかったけれど、うるさくもなかった。幾日かかけて母が縫ってくれた夜具をチッキで送り、ボストンバッグをひとつ持って、私は初めての東京へと出ていったのだった。
そんな古い話もして、母に感謝をすればよかったかもしれない。だがそれはしなかった。

帰省して母の近くで過ごした最後の日、病院の母はとても眠たそうで、言葉もほとんど出てこなかった。
ばいばいといって手を振ると、布団の中でかすかに母の手が動くのが見えた。その手をとって握りしめたら、水に濡れたように冷たかった。その冷えきった手に囲われるように、わずかに浮いた掛布の隙間から、縫いぐるみや人形がいくつも、しっかりと抱かれているのが見えた。




「2024 風のファミリー」




 


秋の夕やけ鎌をとげ

2024年10月01日 | 「2024 風のファミリー」

 

きょうは夕焼けがきれいだった。よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空がしずかに燃えていた。
急に空が広くなって、遠くの声まで聞こえそうだった。
おうい鎌をとげよ〜と叫ぶ、祖父の声が聞こえてきそうだった。夕焼けの翌日はかならず晴れるので、農家では稲刈りの準備をするのだった。

祖父は百姓だった。重たい木の引き戸を開けて薄暗い土間に入ると、そのまま台所も風呂場も土間つづきになっていた。風呂場の手前で野良着を着替えて農具をしまう。その一角には足踏みの石臼が埋まっていて、夕方になると祖母が玄米を搗いていた。土壁に片手をあてて体を支えながら、片足で太い杵棒を踏みつづける。土壁の上の方には、鎌や鍬がなん本も並んで架かっていた。

祖父に聞いた話だが、祖父のおじいさんは脇差しで薪を割っていたという。どんな生活をしていた人なのか、想像もつかない。シンザエモン(新左衛門?)という名前だったので、シンザさんと呼ばれていたようで、その呼称が屋号のようにして残り、私の父が子供の頃でもまだ、シンザさんとこのシゲちゃんという風に呼ばれていたという。

そのシンザさんとこのシゲちゃんは、家の障子やふすまに落書きをするのが好きな悪ガキだったという。祖父がいくら叱りつけても止めようとはしない。よくみると、子供にしては上手に描いているので、しまいには祖父も叱れなくなったという。
悪ガキで次男坊だったシゲちゃんは、学齢も終えずに、粟おこしの高山堂に奉公に出されてしまった。そこから、商人としての道筋ができたのかもしれない。

いちどだけ、父が絵を描いたのをみたことがある。画用紙のまん中に大きな赤い固まりがあった。それは何なのかと聞くと、父は石だと言った。そんな赤い石があるのかと聞くと、夕焼けのせいで石が燃えているのだ、と父は言った。
九州の田舎を行商していたときに見た、どこかの道端の風景だったのだ。父が絵を描いたのを見たのは、それがいちどだけだった。金儲けに日々追われる商人に、絵を描いたりする余裕はなかった。

小学生の時から、私はソロバン学校に通わされ、夜は店を閉めたあとに、父の帳簿付けの計算をさせられた。振り返ってみれば、私が父の商売を手伝ったのはそれだけだ。高校を卒業すると、私はすぐに家を飛び出した。人あしらいのうまい父の才覚が私にはなかったし、父もそれを知っていたのだと思う。
父はひとりで商売を続け、80歳で店を閉め、それから6年後に死んだ。

父は生前、ぼんやり店の前に立って空を眺めていることがあった。釣りが好きだったから空模様を心配していたのかもしれない。あるいは、仕入れのためのカネの工面など考えていたのだろうか。
ひとは毎日、空の存在など忘れて生活している。誰にもふり向かれなかった空の、夕焼けは一日の終わりの静かな叫びなのかもしれない。百姓の祖父も死に、商人の父も死んで、シンザさんとこの夕焼けだけが残った。
おうい鎌をとげよ〜、と叫んでいる夕焼けだ。だがもう、シンザさんとこに、鎌をとぐ者はだれも居ない。




「2024 風のファミリー」