風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

カビの宇宙

2024年10月20日 | 「2024 風のファミリー」

 

秋の陽は釣瓶おとし、陽が落ちるのが早くなった。夜空の月も輝きを増して澄みきっている。夏から秋へと、昼間せめぎあっていた二つの季節が、夜にはすっかり秋の領分になっている。
久しぶりに、風が冷たいと感じて窓を閉めた。夏のあいだ開放していた窓を締めきると、どこからともなくカビ臭い匂いがしてきた。いかにも部屋に閉じこめられている感じがする。
この感覚は懐かしい。カビの匂いは嫌いではない。カビ臭い部屋にいると、特別な空気に包まれているような安堵感がある。こんな私の習癖を他人に話したら、きっと笑われてしまうだろう。

古い民家や寺院などを訪ねると、どこからともなくカビの匂いがしてくることがある。すると、体がすぐにその場の空気に溶け込んで、以前からそこに居たような落ちついた気分になってしまうのだ。
生まれた川の匂いを覚えているという、魚族の感覚に近いものだろうか。これって、子どもの頃の記憶と強く結びついているのかもしれない。
古くて小さな家に、家族7人が住んでいたことがある。家族はいつも狭い部屋でごっちゃになって暮していた。だからときどき、ひとりになりたかった。ひとりきりになれる部屋が欲しかった。

子どもの頃は、望んでも無理なことがいっぱいあった。無理なことばかり望んでいるようでもあった。そんな無理の中から、子どもはとっぴな夢をみたり、行動したりするのかもしれない。
ある時期、押入れの一隅を自分の隠れ家にしたことがある。閉めきると暗闇なので、そこで何かが出来るわけではない。ただ、じっとして自分の空間を確かめている。それは何かを避けて隠れていることかもしれなかった。
かくれんぼという遊びがある。自分を隠し誰かに発見してもらうという行動は、子どもが本来もっている欲求なのかもしれない。そこから生まれてくる快感こそ遊びの原点なのだろう。私の場合は、自分で隠れて自分で見つける、単なるひとり遊びのようなものだったけれど。

とにかく押入れはカビ臭かった。暗闇なので、聴覚と嗅覚だけの世界だ。外の気配に耳をすましながら、家族の干渉から逃れられていることを楽しむ。そのかたわら、ひたすらカビの匂いに耐えなければならない。
最初はカビの匂いが嫌だったが、ひとりの空間を守るための代償、のようなものだった。匂いは次第にぼくを包み込み、守ってくれるものになっていく。カビの匂いが、秘密めいた心地のいい匂いに変化していったのだ。
そこは暗くて小さな宇宙だった。カビの臭いは、ひと時の自由の匂いだった。

いま、ぼくの狭い部屋の隅に小さな物入れがある。扉を開くと、カビの匂いがとび出してくる。カビの住処はそこにあった。
とりあえず必要ないものとか、だけど大切なものかもしれないものとか、とりあえず捨てられないものとか、いつかまた使うかもしれないものとか、種々雑多なものを放り込んである。どんなものがあるのかもよく分からない。物がだんだん増えていくので、確かめるのも次第に億劫になっていく。それでますます整理ができない。
そこにはたぶん、ランダムに書きなぐったノートや古い日記帳がある。読み返すこともないような古い手紙がある。たくさんの写真やフィルムがある。録音テープや8ミリフィルムがある。父が使っていたドイツ製の蛇腹カメラがある。もちろん、私が使っていた一眼レフや交換レンズもある。それらは、デジカメの時代になって出番はなくなった。フロッピーディスクやMOディスクもあるだろう。ラジカセもあるだろう。使い古したカバンもあるだろう。そのすべてが、カビに包まれて眠っている。

いまや、カビの部屋にこもっているのは、私の抜け殻ばかりだ。彼らは私の干渉から離れて、自由に余生を楽しんでいる、と思いたい。そのうち、チーズのように熟成されるかもしれない。そうなれば愉しい。
久しぶりにカビの匂いに包まれて、妄想の殻がカビのように増殖していく。




「2024 風のファミリー」




 


彷徨いの果ては

2024年10月14日 | 「2024 風のファミリー」

 

近くの自然公園で、中年の男が野宿をしていたことがある。
男は大きな犬を連れていた。犬には首輪もリードもついていた。かなり長い期間だったと記憶する。夜はどこで寝ていたか、雨の日はどうしていたかなどはわからない。ただ昼間はいつも公園の草むらで犬とぼんやり過ごしていた。男はこの公園にすっかり居ついた風だった。
その間に犬はひとまわり大きくなり、毛並みも色艶もよくなったようにみえた。犬にはこの生活が合っているのかもしれなかった。それに比べて男の方は、色が浅黒くなって服装も薄汚れ、体も痩せて小さくなったみたいだった。

朝夕、男は犬をつれて公園内を散歩する。犬が嬉々として男を引っ張っている様子は、この公園に住みつく前にあったであろう、ごく平穏な日常生活がそのまま続いているようにみえた。男には家族も家もあり、そんな家をたったいま出てきた人が犬を散歩させている。そんな風にみえた。
すれ違うとき、男はなにげなく私の視線を避けた。私たちは公園でしばしば会うから、顔はお互いに見知っている。男の意識して避ける気配に私の方もよけいな意識をしてしまう。すれ違うとき犬に何か話しかけている男のしぐさも、その場をつくろう意識的な行動に思えてしまう。私は男の生活に干渉しようなどという考えはなかったが、無視もできなかった。

公園のなだらかな斜面を下ったところには、かなり大きな池がある。春から夏にかけては、亀や外来魚のブラックバスなどが水面近くを泳ぎ回っている。やがて秋が深くなると亀は冬眠し、魚は水底に姿を沈めてしまう。
冬のあいだは、鴨や鵜などの水鳥で賑やかになる。やがて春になると遊歩道の桜が満開になり、桜の花が散ると周りの雑木がつぎつぎに白い花をつける。
このような公園の四季を、男と犬がひとり占めしているように見えることがあった。ベンチがあり遊具があり、砂場があるように、男と犬がいつも公園のどこかを占めていた。

その頃、私は体調をくずして、心療内科からもらった安定剤と睡眠薬を服用していた。無気力になったり不安になったりした。いくぶんかは薬のせいもあったかもしれないが、仕事もできなくなり、収入もなくなって新しい仕事を探さなければならなくなった。
その後の仕事は長続きしなかった。仕方なく、わずかな年金と貯金で暮らす生活に切り替えることにした。車を手放し家財道具も整理して、家賃の安い公営住宅に移った。できるだけ生活の規模を小さくしなければならなかった。

ホームレスの一歩手前だった。車を手放したから、どこへ行くにも歩かなければならない。駅までの20分の道のりはずっと上り坂で、スーパーへ買い物に行くのもリュックを背負ってゆく。まるで山登りだ。歩けない老人になったら、姥捨山に捨てられたようなものかもしれないなどと、悲観的なことばかり想像した。
妻はこのような生活は不本意らしく、ときどき不満が爆発してしまう。私は自分が力不足だった結果だから、どんなことも甘受しなければならないと思った。

正直なところ、私はこのような生活でも満足だった。パソコンと書物に向き合う、ほとんど引きこもりの生活である。けれども、やっとこの自由な環境を確保できたというのが実感だった。
長いブランクののちに、若い頃に夢みた森にふたたび分け入ることができそうな期待。あいかわらず道も不確かな茫漠とした森であるが、いまは思うがままに森の中を歩いていけそうだという、それだけで満足なのだった。

公園の男が連れていた犬は、よその犬や人が近づくと激しく吠えた。この犬は家を守っているつもりなのかもしれなかった。公園の雑草の中には、私には見えないが犬とその主人の家があるか、あるいは家よりももっと大切なものがあるのかもしれなかった。それほど男と犬は公園にすっかり居ついていた。
だが、わが家の生活がそれなりに落ちついた頃、公園の男と犬は居なくなった。
その日から公園の風景も変わったように思えた。私の散歩はずっと続いたが、その公園でも私が落ち着ける場所は、まだ見つかっていなかった。




「2024 風のファミリー」




 


秋色の向こうに

2024年10月06日 | 「2024 風のファミリー」

 

母の命日で、天王寺のお寺にお参りに行ってきた。
お墓は九州にあるのだが、なかなか帰れないので、分骨して大阪のお寺に納めた。それで秋は母の、春は父の法要をしてもらうことになっている。
九州の秋がすっかり遠くなった。
最後に母に会ったのはいつだっただろうか。記憶力がすっかり衰えていると聞いていたが、久しぶりに会ったのに特に驚いたふうもなく、私のことはまだ覚えていた。母の口から自然に私の名前がでてきて安心した。

それは、なにげない日常の続きのようだった。過去のいくどかの再会の時や、いつだったかの母の病室を訪ねた時と同じだった。変わらずに保たれているものがあることに、そのときは安堵した。
何しに来たんやと母が言うので、会いに来たのだと応えた。久しぶりに会ったということを、母はぼんやり意識しているようなので、大阪から別府までフェリーに乗って、それからレンタカーを借りて来たことを説明した。

天気が悪いと船は揺れるやろ、と母が言う。昔の船旅を、母は思い出しているのかもしれなかった。いまは大きな船だから、ほとんど揺れることはないよと応えると、そうかと頷いた。
そんな会話の後すぐにまた、何しに来たんやとたずねてくる。会いに来たのだとこたえる。そのようにして、会話はいくども始めに戻ってしまう。母の記憶力は、やはり衰えてしまっているのだった。

今のことは今しかなく、それも瞬時に消えてしまうのだろう。会っている瞬間は、会っていることを自覚している。だが話したことも聞いたことも、記憶には残らずすぐに忘れてしまう。だから同じ会話が繰り返される。母にとっては、会った瞬間だけがずっと続いているのだろう。
私としては、幼い子供と会っているような気分になって、もはやこの人はかつての母ではなくて、生まれ変わった母なのだと思うことにした。

昔の話をした。私の祖母、すなわち母の母親の手の甲にはピンポン玉くらいの瘤があった。そのことを話すと母も思い出して、私の記憶力に驚いてみせた。古い記憶はまだ母の中にもしっかり残っているのだった。
母の実家は饅頭屋をしていたのだが、母が女学生だった頃の話をしだした。毎朝大きな鍋であんこ練りを手伝わされた。あんこは熱くなると飛び散るので、よく火傷をしたもんやという。そこには、もうひとりの母がいた。

2日目も同じような繰り返しだった。母にとっては昨日のことは何も残っていない。昨日はすっかり消えて今日がある。いくど会っても初めての再会となるのだった。
持参した腹太饅頭を、入れ歯を外したままの口でおいしそうに食べた。食べ物はおいしいのだと言う。だが食べたばかりの施設の食事で、何を食べたかは思い出せないのだった。
果物が食べたいというので、3日目はオレンジを持参して食べさせた。もういいと言うので控えていると、ふたたび食べたそうに手を伸ばしてくる。食べた記憶も味の感覚もすぐになくなるのかもしれなかった。

レンタカーにはカーナビがついていた。よく知っている道だが、とりあえず目的地だけを設定して走りだした。私は慣れた懐かしい道路を走りたいのだが、カーナビは新しい道や近道へとしきりに誘導しようとする。いくどもナビの声に逆らって走行するうち、かえって遠回りになったりした。
18歳で私は家を離れた。カーナビのように、母は私が生きる方向を指示することは一度もなかった。もしかしたら母にも、私に走って欲しい道はあったかもしれない。私は勝手に自分の道を走りだしたのだったが、あれは母に逆らっていたのかもしれない。

ときには母を憎んだり蔑んだりしたこともある。母の思いが解かりすぎる時は、わざと母の思いをはぐらかしたりしたこともある。母はカーナビのように親切でもなかったけれど、うるさくもなかった。幾日かかけて母が縫ってくれた夜具をチッキで送り、ボストンバッグをひとつ持って、私は初めての東京へと出ていったのだった。
そんな古い話もして、母に感謝をすればよかったかもしれない。だがそれはしなかった。

帰省して母の近くで過ごした最後の日、病院の母はとても眠たそうで、言葉もほとんど出てこなかった。
ばいばいといって手を振ると、布団の中でかすかに母の手が動くのが見えた。その手をとって握りしめたら、水に濡れたように冷たかった。その冷えきった手に囲われるように、わずかに浮いた掛布の隙間から、縫いぐるみや人形がいくつも、しっかりと抱かれているのが見えた。




「2024 風のファミリー」




 


秋の夕やけ鎌をとげ

2024年10月01日 | 「2024 風のファミリー」

 

きょうは夕焼けがきれいだった。よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空がしずかに燃えていた。
急に空が広くなって、遠くの声まで聞こえそうだった。
おうい鎌をとげよ〜と叫ぶ、祖父の声が聞こえてきそうだった。夕焼けの翌日はかならず晴れるので、農家では稲刈りの準備をするのだった。

祖父は百姓だった。重たい木の引き戸を開けて薄暗い土間に入ると、そのまま台所も風呂場も土間つづきになっていた。風呂場の手前で野良着を着替えて農具をしまう。その一角には足踏みの石臼が埋まっていて、夕方になると祖母が玄米を搗いていた。土壁に片手をあてて体を支えながら、片足で太い杵棒を踏みつづける。土壁の上の方には、鎌や鍬がなん本も並んで架かっていた。

祖父に聞いた話だが、祖父のおじいさんは脇差しで薪を割っていたという。どんな生活をしていた人なのか、想像もつかない。シンザエモン(新左衛門?)という名前だったので、シンザさんと呼ばれていたようで、その呼称が屋号のようにして残り、私の父が子供の頃でもまだ、シンザさんとこのシゲちゃんという風に呼ばれていたという。

そのシンザさんとこのシゲちゃんは、家の障子やふすまに落書きをするのが好きな悪ガキだったという。祖父がいくら叱りつけても止めようとはしない。よくみると、子供にしては上手に描いているので、しまいには祖父も叱れなくなったという。
悪ガキで次男坊だったシゲちゃんは、学齢も終えずに、粟おこしの高山堂に奉公に出されてしまった。そこから、商人としての道筋ができたのかもしれない。

いちどだけ、父が絵を描いたのをみたことがある。画用紙のまん中に大きな赤い固まりがあった。それは何なのかと聞くと、父は石だと言った。そんな赤い石があるのかと聞くと、夕焼けのせいで石が燃えているのだ、と父は言った。
九州の田舎を行商していたときに見た、どこかの道端の風景だったのだ。父が絵を描いたのを見たのは、それがいちどだけだった。金儲けに日々追われる商人に、絵を描いたりする余裕はなかった。

小学生の時から、私はソロバン学校に通わされ、夜は店を閉めたあとに、父の帳簿付けの計算をさせられた。振り返ってみれば、私が父の商売を手伝ったのはそれだけだ。高校を卒業すると、私はすぐに家を飛び出した。人あしらいのうまい父の才覚が私にはなかったし、父もそれを知っていたのだと思う。
父はひとりで商売を続け、80歳で店を閉め、それから6年後に死んだ。

父は生前、ぼんやり店の前に立って空を眺めていることがあった。釣りが好きだったから空模様を心配していたのかもしれない。あるいは、仕入れのためのカネの工面など考えていたのだろうか。
ひとは毎日、空の存在など忘れて生活している。誰にもふり向かれなかった空の、夕焼けは一日の終わりの静かな叫びなのかもしれない。百姓の祖父も死に、商人の父も死んで、シンザさんとこの夕焼けだけが残った。
おうい鎌をとげよ〜、と叫んでいる夕焼けだ。だがもう、シンザさんとこに、鎌をとぐ者はだれも居ない。




「2024 風のファミリー」