風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

カラスと一緒に帰りましょう

2020年10月23日 | 「新エッセイ集2020」

 

早朝の、まだ薄暗い空を、夜の残滓のような黒いものがまばらに、あるいは塊となって流れていく。
それはカラスだった。
カアカアと鳴き声を発しながら、南の空へと飛んでいく。
決まった目的地があって、そこを目ざして一斉に羽ばたいていくようにみえる。その数はおそらく何百羽、いや何千羽にも及びそうだ。
どこからやってきてどこへ行くのか、ひたすら南を目ざして飛んでいく。これらのカラスの移動は、毎朝決まった時間に決まった所へ行くため、かつて駅に向かって急いだ頃を思い出す。

カラスにもいろいろな種族がいるみたいだ。
サラリーマンのようなカラスがいる一方で、どこへも行かず近所に居残っているカラスもいる。
彼らはゴミ箱を漁ったり野良ネコの餌をかすめたりして、まるで日銭を稼いで暮らしているようにみえる。
カラスの勝手でしょとばかり、あまり群れずに勝手気ままに生きているようにみえる。ただ、ヒトの生活圏にいるので嫌われることも多い。

ヒトもカラスも同じような繰り返しで、一日は終わる。
夕空を、せわしなく黒い群れが埋めていく。
朝早くどこかへ向かったサラリーマンカラスが、こんどは南から北へ向かって帰っていく。
昼間はどこにいたのだろうか、そして夜はどこに帰っていくのだろうか。
ぼくはただぼんやり眺めているだけで何もわからない。彼らの不思議な習性を不思議がっているだけだ。

カラスたちの空が静かになったあと、すっかり夜になると、こんどは飛行機が南から北へ向かって飛んでくる。
はじめは小さな星のようで、やがてホタルのように点滅する光となって、ゆっくりと近づいてくる。頭上のあたりまで来ると、そのまままっすぐ北上するのと東に旋回するのがある。北や東のずっと遠くに、やがて翼を収める目的の地があるのだろう。

それぞれの道が、空にもあるようだ。
ぼくが知らない所から知らない所へと通じている道で、ぼくにはその道は見えないし、その道を辿ることもできない。
いま地上はコロナ。ウイルスの動きも目には見えない。
この日々は、なぜか空を眺めることが多いような気がする。
確かなものはどこにあるのか。
ぼくが眺めている空は、ぼくの空だと思ってしまったりする。じつに曖昧な確信をしてしまう。
きょう、ぼくはどこへも行かなかったし、どこからか帰ってくることもなかった。




大阪・近つ飛鳥博物館にて


 


どんぐりころころ

2020年10月14日 | 「新エッセイ集2020」

 

公園を歩く。
足元にどんぐりがごろごろ。
ことしは特に目立って多い。
いまは、どんぐりを拾う子どもも居ないようだ。
小学生だったか中学生だったかの頃、どんぐりの実を夢中になって拾ったことがあった。学校に供出するためだった。何のためにだったかは覚えていない。

集められたどんぐりを、まず教室の収納棚の引き出しに保管する。その役をやらされた。
どんぐりがいっぱいになったところで、職員室に運ぶため引き出しを開けたところ、どんぐりの重みで引き出しの底が抜けてしまった。
どっと滝のように足元に落下するどんぐり。どんぐりころころどころか、どんぐりの洪水となって、教室中にどんぐりが転がり散ってしまった。
引き出しを壊してしまったし、どんぐりも回収しければならない。ぼくはパニックになってしまった。

ああ大失敗とばかりに呆然としていたら、クラスのみんながわいわい競うように、机や椅子の下にもぐってどんぐり拾いを始めている。
みんなが楽しそうにはしゃいでいるのが不思議だった。ぼくはただぼうっと見ているだけだったから。
そのときの苦い状況を思い出す。
そのあとどうなったかは思い出せない。
どんぐりころころ、あの時のどんぐりが今も記憶の中を転がりつづける。

 


ことし最後の朝顔の花

 

 


秋は落ちる

2020年10月07日 | 「新エッセイ集2020」

 

いまは落葉の季節。
秋は英語ではautumnだが、アメリカではfallを使うことが多いらしい。fallというのは落ちるという意味があり、木の葉がさかんに落ちる晩秋の風情を連想する。秋にはfallのほうが似つかわしいかもしれない。
詩の用語としても、fallのほうがよく使われるようだし、fallには“fall in love”などという美しい慣用句もある。

だらだらとでも生きておれば、“fall in love”な穴ぼこにだって、誤って落ちることもある。ぼくだって、いくどかは落ちた。
深い穴ぼこも浅い穴ぼこもあった。どちらも落ちるショックに変わりはない。軽い失神くらいは起きる。ときには目の前が真っ暗になる。そんなとき、妄想もまた真実だということを知ることになる。
だがいつも、自分がどこに落ちたのか、落ちた先に何があったのか、それがよく解らないまま、傷だけを残して終ってしまう。

ぼくのようなアホな人間に比べると、木の葉はじつに静かに落ちる。木の葉にとって、落ちるということは死であるから、その状態は静かにならざるをえないのかもしれない。
人間にとって落ちるとは、ときに堕落を意味する。
若いころ愛読した坂口安吾の『堕落論』には、堕ちよ堕ちよと励まされた。落ちるところまで落ちてこそ人間は救われ、そこから素晴らしい再起があるはずだった。

散ってゆく落葉を見ていると、木の葉のようにひらひらと、ときには枝から離れて落ちてみたい衝動にかられることもある。
その心は、落葉のように静かではないけれど。

 

 

 

 

 

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あの夏の海はどこへ

2020年09月30日 | 「新エッセイ集2020」

 

もうひとつの海

遠くて暗い海で
泳ぐひと達がいる

岩場の潮とつぶやいている
わたしたち泡ぶくだったのね
おいしい水と戯れて
ずっとむかし生まれたのね
あなたの手が水をつかむ
あなたの足が水を突きはなす
その水のすべてを
わたしたち愛したのね

暗い海の
ずっと向こうの
そのまたずっと向こうに
もうひとつの海が
いまもある

*


涙は小さな海

浴室に
小さな海ができた
アサリが潮を吹いている
たぶん塩分の濃度は
海と同じである

ときどき覗いてみる
アサリは元気に
舌のようなものを伸ばしている
わたしの海で生きている
そう思うと情がうつる
縄文人ではないのだから
お前を食わなくても生きてはいける

海水もひとも
水の成分は同じらしい
アサリが吹いているのも
アサリの涙かもしれない
海をおもい泣いているのだろうか
いやいやアサリはアサリ
わたしは縄文人の血にかえる
小さな海は
あしたには干上がってしまうのだ

*


耳の海

夏は山がすこし高くなる
祖父が麦わら帽子をとって
頭をかきながら言った
わしには何もないから
あの山をおまえにやるよ

そんな話を彼女にしたら
彼女の耳の中には
いつも海があると言った

その夏
彼女の海で泳いだあとに
耳から耳へ
遠い海鳴りをいっぱい聞いた

いま山の上には
祖父の墓がある
あれから夏がくるたびに
ぼくは片足でけんけんをして
ぬるくなった耳の水を
そっと出す

 

 


堺市制作のコロナピクト

 

 

 

 

 

 

コメント (2)

まだ朝顔は咲いている

2020年09月23日 | 「新エッセイ集2020」

 

やっと秋風が吹きはじめた。
この夏は暑すぎた。
豪雨や洪水がひどすぎた。
コロナに振りまわされすぎた。
ステイホームもキツすぎた。
たまに出かけると、街も人もディスタンスの異世界。
マスクは吐く息と吸う息がごっちゃになって、まるで自分が吐き出した空気を自分で吸い込んでいるようで、酸欠や熱中症になりそうだった。これでは、むりやり生きてるみたいで、まつたく息が詰まるような夏だった。

季節も凌ぎやすくなって、4連休はどうなったか。
みんな戸外の新鮮な空気に飢えていたとみえて、いっせいに街や郊外に飛び出していったようだ。いままで抑圧されていたものから、解放されたい思いがいっきに爆発したようだ。
GoToトラベルにも乗り損なったので、テレビの観光地ニュースに便乗。高速道路の渋滞や観光地の人混みをみていたら、かえって不思議な感動があった。
天気も快晴、花火も上がったりして祭りのように賑わっている。久しぶりに見た光景だった。妙に懐かしくて気分もスカッとした。ひとときコロナのことなど忘れてしまった。

いつのまにか、春も夏も終わってしまったのだ。
そして今は、しみじみと秋。
ここにきて、わが家の朝顔の花もいっきに数を増している。重なり合って咲ききれない花もある。まるで三密だ。
だが花にむかって三密を避けろなどと、いくらコロナに疲れた頭でも、そんな野暮なことを言ったりはしない。

 


堺市制作のコロナピクト