「自然な建築」の中で、隈氏は「二十世紀はコンクリートの時代でした」と答えている。コンクリートの独特な「強さ」と非連続性(突然おこる物質変化)は存在の不安定さを「固定」したが、そこには永遠性はなく、表象と存在の分裂を許容したという。二十世紀は表象の時代であった…まさしく表象が問われ、本質がみえ難くなった時代、それは何もかもにあてはまるような気がする。
形態の美しさよりも関係性にその重要性を見出し、組積造(メーソンリー)的な社会システムがコンクリートの出現により完全に破壊された姿を残念に感じる隈氏は「石の美術館」や「ちょっと蔵広場」「広重美術館」「浜田醤油」「安養寺」「亀老山展望台」「陽の楽家」と全国各地で様々な素材と対峙する中で、自然素材の「弱さ」をサポートするために知恵を絞り続ける。また、建築は制約への挑戦でもあるという。
自然とは何か、と問いかけることは、時間とは何かを問うことであり、生とは、死とは何かを問うことにも繋がるといい、「自然な建築」は欠点も多く、メンテナンスにも手間がかかる。そんな建物を建て、大切にメンテし続ける大きな決断をして下さった方々に大きな感謝をし、大きな寛容の上にはじめて成り立つ「自然な建築」に二十一世紀のあり方、ありようをみる隈氏の姿勢に感動する。
形態の美しさよりも関係性にその重要性を見出し、組積造(メーソンリー)的な社会システムがコンクリートの出現により完全に破壊された姿を残念に感じる隈氏は「石の美術館」や「ちょっと蔵広場」「広重美術館」「浜田醤油」「安養寺」「亀老山展望台」「陽の楽家」と全国各地で様々な素材と対峙する中で、自然素材の「弱さ」をサポートするために知恵を絞り続ける。また、建築は制約への挑戦でもあるという。
自然とは何か、と問いかけることは、時間とは何かを問うことであり、生とは、死とは何かを問うことにも繋がるといい、「自然な建築」は欠点も多く、メンテナンスにも手間がかかる。そんな建物を建て、大切にメンテし続ける大きな決断をして下さった方々に大きな感謝をし、大きな寛容の上にはじめて成り立つ「自然な建築」に二十一世紀のあり方、ありようをみる隈氏の姿勢に感動する。