慰霊の日は沖縄の終戦記念日ではない。
その後も、戦闘や、マラリア、そして日本兵による殺戮で...
命が奪われた。
:
:
60年前、久米島では軍による住民虐殺が6月23日以降4件発生し、20人が死んだ。
歴史の事実は誰にも変えられない。
直視して初めて未来がある。
QABでは5年前当時を知る人が減る中で、今だから語れる証言を得た。
『痛恨の碑』
久米島出身の人たちが日本軍による抗議を込めて建てたものだ
当時、久米島には、鹿山隊長率いる日本軍が約30人駐屯。
そして
6月26日にアメリカ軍が上陸する。
●喜友村宗秀さん
「アメリカ軍と友軍に挟まれて、どこに逃げていいか当時は判断できなかった」
:
:
鹿山隊長は 住民たちにある命令を下した。
『アメリカ軍と接触したものが帰ってきたら、直ちに軍駐屯地に引渡すこと。
その命令に違反したものはスパイとみなし、その家族はもちろん、
警防団長、区長は銃殺する』
:
:
その命令のあと0歳から70歳まで20人が無残な形で命を奪われた。
当時、島では8月15日の敗戦を知る者はいなかったといいます。
●喜友村宗秀さん
「(敗戦を知らない友軍は)アメリカにひいきする奴は やるよ(殺す)という状態だった」
●譜久里廣貞さん
「日本は、勝つとしか考えないから」
●喜友村宗秀さん
「アメリカ軍よりも友軍が怖かった」
●喜久永米正さん
「誰かに見られたら、アメリカと話しよったと(日本軍に)告げますから。
そうしたらこれはスパイと決め付けていてやられますから。
疑心暗鬼で、人を信用できなくなるわけです」
:
:
島の中で、日本軍の影におびえていた住民たち。
ずっと沈黙を守っていた当時の様子を、やっと語りだした。
●喜久永米正さん
「私と喜友村さん二人でお墓から遺骨を出したんです。
見たら3人とも頭はないと…二人で話したんですよ。
それだけ鹿山という人物は、疑い深くて、首を見ない限り
信用したないというところがあるわけです」
:
:
鹿山隊長は、当時の事を戦後27年目にテレビのインタビューに答えている。
『戦争中の軍人としては当然のことであり、戦争をぬきにして私の行為は考えられない』
『島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも島民を掌握するためにやったのです』