マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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田中町カマ納めのカリヌケ

2013年01月08日 07時00分05秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
実った稲を刈り取ったときは「カリヌケ」。

イネコキの作業を「コキヌケ」と呼んでいる大和郡山市田中町のM婦人。

「カリヌケ」、「コキヌケ」は収穫した折りに豊作に手を合わせる家の行事。

箕に刈りとり作業に使ったカマを置く。

家で料理した御供も置く。

コンバインの機械で刈りとるようになった今もそれをしているというが纏めて1回。

かつては「カリヌケ」、「コキヌケ」の2回であった。

現在のコンバインは刈り取ってイネコキまで一挙に作業が終わる。

それで1回になったと話す。

先々月に取材させていただいた山添村の「刈り仕舞い」。

同じように箕にカマを置いて家の料理を供える。

天理市櫟本の住民M氏はその作法を「コキヌケ」と呼ぶ。

それを取材された知人によれば、納屋に置いたプラスチック製の箕にカマを置いた。

供えるのはアカゴハンで灯明を灯していたという。

かつてはそれぞれの農家で行われていた様相はコンバインの導入とともにしなくなったという。

大和郡山市の額田部町に住むYさんが嫁入りしたたきはイネコキをしていた。

その後に脱穀の機械が導入されイネコキがなくなった。

60年以上も前のことである。

イネコキが辛かったと話していたのは伊豆七条町のYさん。

稲刈り終えればカリヌケをする。

竹の箕にカマを置いてアズキメシのセキハンを供える。

ドロイモ・コンニャク・アゲサンの煮ものやふかしたサツマイモも供える。

イネコキしたらコキヌケで隣近所の農家が箕にセキハン、同じような煮ものを供えていた。

コンバインで機械化されて一挙にイネコキを済ませるようになったからカリヌケ・イネコキ・コキヌケをしなくなったという。

その当時であろう。

箕やホウキ、サラエなどをリヤカーで売る商売人が行商していたと話したのは長安寺町のYさんはその作法に名前はなかったという。

田中町のM婦人が作法をしながら話してくれた。



家の中のハンドコ(床の縁)に竹の箕を置いてカマを置く。

そこにアズキゴハンやでっかいアツアゲ。

コンニャク、ニンジン、ダイコン、ゴボウにゴボテンの「たいたん」を供える。

手を合わせることもなくただ単に置くだけだと話す。

かつては蔵やイナヤ(稲屋)にもお供えをしていた。

セキハンかアズキゴハンだったそうだ。

このような家の行事をしているのは同町で3軒あったという。

その日は家のご馳走を食べる習慣があった。

神さんにオイモやアゲサンを供える家もあるというが、竹の箕に供えているのはM家だけのようだ。

置いたカマは稲刈りをしたときの道具。

現役の道具だけに刃はギザギザ。

使っている証しである。

もしかとすればトイシも置いていたかも知れないと話すご主人と婦人。

出里の吉野郡から嫁入りしたのは昭和53年。

先代のおばあさんが亡くなられたあとも「毎年してますんや」と話す婦人は田中町で暮らすようになって35年。

「普段の暮らしのなかでのことやから行事とは思ってませんのや」と話す。

苗代に御田祭でたばったお札を挿す。

田中町の周辺にあった御田祭の竹串の幣。

あっちこちにあることは判っている。

そのうちの一つがM家であった婦人は田植え初めをさなぶりと呼ぶ。

M家では家の年中行事が他にもされている。

大晦日の30日にはモチ搗き。

正月のモチを石臼と杵で搗くそうだ。

正月明けたら7日の七草粥。

七草は揃わないが味噌汁に入れる。

青菜も一緒に供えるのは神さん。

5皿であるが仏さんには2皿。

その数がそのような意味をもつのか判らないという。

当家は数年前に改築された。

蔵に納めてあったのはこれだと拝見した手鏡。



形は合わせ手鏡で作者の刻印がある。

「千鳥」の文字がある手鏡に「天下一藤原政重」の名が刻まれていた。

一番小さい手鏡は鏡箱に納められている。

使わないときに包んでいたと思われる布も残っている。

それには三つ葉葵の紋がある鏡には「藤原光長」の名がみられた。

左の大きな鏡も名があるが「□□藤原家」。

「天下一藤原政重」の名をネットで調べてみればさまざまな手鏡が掲載されていた。

江戸時代の作品らしくて「松声」の文字がある手鏡は国立博物館で所有されているとあった。

そもそも「天下一」の称号を与えたのは桃山時代の織田信長。

工芸人の意欲を高めるためにあったという。

銅鏡と思われる手鏡に記銘されている藤原光長についても調べたところ、公家・藤原北家高藤流・藤原光房の子・九条(別称海住山)家の祖[1144(天養元)年~1195(建久6)年]とある。

それらと大切に保管されていた三枚の手鏡の年代が同一かどうかは判然としないが、柄をつけた柄鏡(えかがみ)に名を入れて新鋳造法によって大量生産された時期は室町時代後期から江戸時代の中期まで。

天和二年(1682)以降の時代は乱用を防ぐために名を入れることができなくなった。

それだけに貴重な鏡がここにある。

貴重と云えばもう一枚。

唐招提寺で行われる「うちわまき」。

撒かれる団扇は魔ものを遠ざける魔除けの宝扇だ。

「もう駄目だと思ったり まだやれると思ったり」と書かれた宝扇。

その言葉を書いたのは大滝秀治氏である。



渋味がかかって独特の台詞回しは脇役以上の脇役に徹底した俳優が残した思いが宝扇文字に残された。

ちなみに知り合いの話であるが、高樋町にヤナギの木を田に奉るという。

高樋町と云えば隣町の虚空蔵町に高野山真言宗弘仁寺がある。

ここでオコナイがあるのだろうか。

退夜や49日のときには数珠繰りもあるというからなにがしかの村の行事。

いつかは尋ねてみたい。

(H24.11. 2 EOS40D撮影)