マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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矢田村の民俗を巡る

2013年01月26日 06時51分22秒 | 民俗を観る
この年の3月にも巡った矢田の地。

住民の案内で矢田の民俗を探訪する。

東村に通じる里道は大和民俗公園内。

ここがそうだと村に住む人でなければ判らない道を行く。



そこにあった穴が開いた石造物。

カラウスの石だそうだが、なぜにそこにある。

そこからほど遠くない地に墓地がある。

東村のサンマイ墓である。



「免許埋葬墓地」は生駒郡矢田村大字矢田小字大谷とある。

「三界萬霊六親法界」を記した石柱は天明八年(1788)八月日の刻印がある。

寄進したのは「禅門講中」である。

傍に並んでいるのは六地蔵。



右から3番目の地蔵石仏には「正徳元年(1711)拾月十八日」の刻印がある。

左から2番目は「正徳三年(1713)」の記銘年がある。

他の地蔵石仏には年代等を示すものはなかった。

年末やお盆の前には清掃する村の墓地。

そこには棺桶を乗せる棺台がある。

文様から思考すれば蓮華台である。

大正拾年に寄付された棺台には「奉供養 西国三十三ケ処」とあることから巡礼結願のおりに寄進されたのであろう。

昔はドマンジュウ(土饅頭)。

棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せる。

土を掛ければ見えなくなる。

獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケという。

墓を掘るのは「アナホリ」と呼ぶ。

一升びんの酒を持ってきたそうだ。

酒を飲まずにおられなかったアナホリ。

当時は座棺。

頭は三角巾に白装束姿で掘っていたと話す。



墓地の北側が農業用水の池である大谷池。

水底には地蔵さんがあるという。

子どものときには池で泳いでいたそうだ。

東に向かえば城村の西城(にしんじょ)に辿りつくが今は行くことができない薮地。

池の北側も道はあったが歩くことは困難である。

江戸時代中期に造られた人造池はそれまで集落もあったと伝わる。

その西城地区は狩山村(かりやまむら)と呼ばれていたそうだ。



のどかな景観を保つ大谷池周辺には多くの野鳥がやってくる。

枝に留まった鳥はカワラヒラであろうか。



近くまで寄っているがすべての鳥が身動きしない。

じっと佇んでいる。



傍らには綿花が咲いていた。

咲いていたという表現はおかしいがそう見えるのである。

この場でアクシデントが発生した。

難なく飛び降りることができると思って土手から跳んだ。

ズコっ。

溝に足がぼこっとはいってしまって前のめり。

身体はなんともないが撮影していたカメラのストロボがぶっ飛んだ。

草むらに隠れていた溝にはまったのである。



それはともかく林のなかにあったミツバチの巣箱。

ずらりと並べられている。

平成12年ころまであったとされる水車小屋の南側は段々畑の平らな面。

屋敷跡だという話しに納得がいく。

そこから向った先はコグリと呼ぶ地。

大阪からの敵がやってくるのを見張っていた高台である。

北村のアリバカの六地蔵はいろんな処から寄せられた石仏がある。

背光型の五輪塔だそうだ。



そこからは村人しか知らない山間の里道を抜けて美しい紅葉がある東明寺へ辿りつく。

近道だというが結構な高低差である。

東明寺の古い旧墓地には人知れずの区域がある。

案内されたN家の墓石もここにあったという。

事情があってアリバカ墓に移した。



それはともかくここには大きな碑文石やとてつもない巨大な五輪塔(宝印塔)がある。

碑文石には年代記があった。

延宝四年(1676)五月十日だ。

中央上段に「嗚呼本源日(自?)性居士之墓」とある。

碑文石と五輪塔の間にはさまざまな形の五輪塔が6体。

中央の3体はチンマキの墓と呼んでいるそうだ。

その形は寸胴型の五輪塔。

珍しい形と思われる。

右から元禄二年(1689)正月一日の「圓光院即心空如大師」。

その左は貞享三年(1686)の「覚眞成性居士」だ。

どうやら夫妻であるようだ。

左端は天和三年(1683)四月二十五日の「源法林・・・」である。

6年間中における五輪塔が3体も並んでいるのだ。

ちなみに巨大な五輪塔は「空、風、火、水、地」の文字がある。

慶安三年(1650)に奉られたようだ。

中央にある特殊な形の五輪塔よりも若干古い年代だ。

その左横にある石板には「為成實子 六代俗名 都筑総(惣)左衛門宣成」とある。

都筑総(惣)左衛門は郡山藩家老。

右の五輪塔とはどのような関係にあるのだろうか。

側面を見れば元禄六年(1693)・・・の文字がある。

この石版は元々あった石を割って新たに作ったのではと思われる転用石ではないだろうか。

それとも本多家の跡目を巡る争いであった九・六騒動・・・。



帰り道に発見した竹ヤリ。

ではなくてカキの実を採る道具の「ハサンボリ」。

テープを巻いて割れないようにしている。

これを十津川村では「ハサンバリ」と呼んでいるそうだ。

探訪時間も時が過ぎて夕暮れ。



田んぼの枯れ葉が美しく文様を描いている。

いつもの自然観察会でも通る畑の道。

畦から撮らせていただいた。



道路の傍らにある石造物。

これも観察会とときには見てはいても通り過ぎてしまう造物である。

気にはなっていたが何なのか判らなかった。

案内人が云うには村を流れる川を跨ぐ石橋だった。

車の通行の妨げになるからでしょうか、土手側にずらしている。

かつての石橋は三の矢塚近くにもある。



それぞれが直角になっている車道。

そこに石橋が架かっていたのである。

そうこうしているうちに権現さんに着いた。

東村の権現堂だ。

この年の7月24日に行事を取材させていただいた。

キョウモンザカと呼ばれている地にある。

「談山権現」の文字があると思われていた燈籠は愛宕山であった。

東□(□は北と推定)村とあった薄らとした刻印。

4年前まであった愛宕講の存在が燈籠にある。

愛宕さんへ参ってお札を貰ってくる。

愛宕講の代参だ。

シキビを買って奉ったようだ。

そのシキビを味噌樽に載せれば美味くなると云われた味噌作りをしていたようだ。

この日に歩いた歩数は7000歩。

距離的にはそれほどもないように思えた。

(H24.11.18 EOS40D撮影)