荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『お國と五平』 成瀬巳喜男

2008-09-18 10:28:00 | 映画
 CSにて成瀬巳喜男監督の『お國と五平』(1952)を。戦争末期に撮られた『三十三間堂通し矢物語』(1945)を未見であるため、私にとって初めて見る成瀬の時代劇。『めし』『おかあさん』と『稲妻』(いずれも1952)の間に作られ、これはまさに成瀬の絶頂期にあたるが、現代劇専門だった成瀬としては、異色作であることは間違いない。
 ところが、フィルムアート社から出ている『映畫読本 成瀬巳喜男 透きとおるメロドラマの波光よ』(1995)というムック本を参照すると、「主役三人の愛欲心理の葛藤の表現に至らず情緒に流れた失敗作として、彼のフィルモグラフィーでは黙殺された形。」と、酷たらしい書かれようである。同時代の批評ではたしかにそう言われたのを、客観的に記録し直しただけかもしれないが、どうも納得しかねる。

 騙し討ちに遭った亡き夫のために、あだ討ちの旅に出た奥方様・お國(木暮実千代)と奉公人・五平(大谷友右衛門 のちの4代目中村雀右衛門)が、仇になかなか遭遇できないまま、幾歳月を宿場から宿場へと渡るうちに、身分違いの心の通じ合いに苦悩し始めるという、ふたを開けてみると、ストレートなまでに成瀬的な主題である。
 不自由もないが愛もない結婚生活が、夫の不慮の死によって中断を余儀なくされた奥方様にとって、あだ討ちの旅路を支えるモチベーションはいつの間にか、「貞女の誉れ」を証明することではなく、忠義を尽くしてくれる奉公人と共に二人で歩き、同じ宿で荷を下ろす心のときめきに変わってしまっている。女は、「このまま仇が見つからず、こうしてこの奉公人と永遠に旅を続けられたら、どれほど幸せであろう」とまで考えるようになる。しかしあの成瀬が、そうした穏便な運命を、主人公たちに与えるわけがないのである。

 旅の先々で聞こえてくる、虚無僧の奏でる尺八のうら寂しい音色は、夫の仇(山村總)が出奔前によく吹いていた尺八の音色を連想させ、愛し合い始めた二人の背後に、べったりと幽霊のように張り付いて離れない。