荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『大阪ハムレット』 光石富士朗

2009-01-24 02:04:00 | 映画
 先週末から公開されている『大阪ハムレット』という映画は、なかなかにしみじみとした味わいのある小品であった。すでに忘れ去られて久しい大阪の市井を扱ったローカル・コメディが、何の前触れもなく復活している。

 大阪を舞台にしたものというと、漫談的な哄笑か、暴力団や悪徳金融、ヤンキーの抗争、そうでなければ、逆に『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)のような極度のスノビズムなど、どぎつくステレオタイプ化された印象が強く、どうも辟易とさせられてしまうと同時に、いくらなんでもそんな認識では大阪の人に失礼だ、太閤殿下の時代からあれほど厚みある文化空間を現出させた大都市なのだから、そんな浅薄な認識はポスト戦後的戯画の反映に過ぎず、「本当の大阪」はもっと他の、私の知らぬ所にあるのだと言い聞かせていたのだった。
 しかし『大阪ハムレット』が、西成区の岸里玉出という(変な名前の)街にうごめくベタついた人情を描いた群像劇であるにもかかわらず、どこか超然として涼しげであるのは、監督の光石富士朗自身が東京の人間であり、外部からの醒めた視線を通しているゆえであろうか。

 私個人の以前からの謎として、なぜ大阪にはかつてあれほど非常に雰囲気のいい人情噺──たとえば五所平之助の『大阪の宿』(1954)を筆頭に、豊田四郎『夫婦善哉』(1955)や川島雄三『わが町』(1956)など、あとは『ぼんち』(1960)や『王将』(1948)、『浪華悲歌』(1936)あたりまで加えてもいいが、そういう、デタラメな感じの中にしっとり、しみじみと心が思わず豊かになっていくような空間を現出させた大阪映画の数々──が幾つもあったのに、今ではすっかり影も形もなく、かくもどぎついこけおどしに占拠されてしまったのか、という謎があるのだ。
 あとは、現代の大阪を使って『トウキョウソナタ』を撮ることはできないのか、せいぜい『ホームレス中学生』しかできないのか、という謎もある。
 それともこれらは大阪の謎などというものではなく、上記作品を並べた私自身がただ単に、八住利雄や織田作之助の世界が好きである、ということだけなのであろうか。
 ともかく『大阪ハムレット』には、そういう情感の残り香がたしかにあったのだ。


1月17日(土)より、シネスイッチ銀座など全国で順次公開
http://www.osaka-hamlet.jp/