荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ザ・トライブ』 ミロスラヴ・スラヴォシュピツキー

2015-05-04 12:24:25 | 映画
 これまで短編中心の活動を続けてきたウクライナの映画作家ミロスラヴ・スラヴォシュピツキーの長編デビュー作『ザ・トライブ』は、素人の聾唖者をあつめて作り上げた作品で、彼らの演技の迫真ぶりには舌を巻く。監督の演技指導がいいのか、彼らがみな生まれつき演技の才能の持ち主だったのか、それはわからない。誰かが写っているというだけで、映画的な煙が立ちのぼっているのだ。キエフ市内の全寮制聾唖学校の生徒たちが犯罪集団を組織し、盗み、売春、麻薬売買などで稼ぎまくるという荒涼としてノワールな内容である。
 本作には全編にわたりオーラルな会話がなく、字幕も吹き替えもないことが話題となった。手話のディテールはともかく、彼らのボディ・ランゲージの明確さゆえにストーリー理解にまったく問題がない。しかし同時に、ウクライナ映画なのにその言語の音楽的な豊かさをまったく味わうことのできないのは、正直なところ残念ではある。無い物ねだりではあるが。
 いささか安易な連想と思いつつも、私は北野武の『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)を思い出した。「聾唖は聾唖である」という一歩まちがえれば差別主義に陥るトートロジーを、「車は走る」「女は裏切る」といったゴダール的な同語反復の苦いユーモアと、過剰なセンチメンタリズムでラッピングした傑作だった。一見すると感傷を排した犯罪映画であるこの『ザ・トライブ』にも、「聾唖は聾唖である」という北野的トートロジーの水脈が流れていると思えたのである。音のない世界に生きる人々が、生きていく上で、誰よりも大きな音を出している。彼らはドアの開閉音に気を使うことはしない。音のない世界の「爆音」が執拗に響きわたる。この冷厳な逆説とともにスラヴォシュピツキーは彼の作家人生を開始したのだ。

P.S.
「ミロスラヴ・スラヴォシュピツキー」という配給側の表記に疑義をはさみたい。ウクライナ語なら「ミロスラヴ」ではなく「ミロスラウ」となるはずだ。


ユーロスペース(東京・渋谷円山町)他で上映中
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