荻野洋一 映画等覚書ブログ

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やぶにらみの巨匠グエルチーノ、よみがえる

2015-05-22 10:27:18 | アート
 10年前に邦訳が出たレヴィ=ストロース著『みる きく よむ』(みすず書房)の第1章「プッサンを見ながら」を読んだ瞬間から、グエルチーノ(1591-1666)をいつか見ることができたら、という思いを静かに堆積させてきたが、その思いがまさか日本にいながらにして実現してしまったのは、グエルチーノの故郷におとずれた悲劇のせいであることは、ただただ沈痛な事実である。
 イタリア・エミリア地方の小都市チェント(グエルチーノのほか、スポーツカーの名門を創設したランボルギーニ氏の出身地としても知られる)を2012年に襲った地震によって、チェント市立絵画館は閉館を余儀なくされ、復旧のめどが立っていない。イタリアの国宝と言っていい作品群がヒョイと来日してしまったのには、このような背景があったのである。

 グエルチーノとはイタリア語で「やぶにらみ」という意味だそうで、斜視だった彼のニックネームである。イタリア・バロック期の巨匠グエルチーノは、同国の画家ボッティチェッリから150年後、ラファエロとティツィアーノから100年後の人だ。同世代がすごく豪華で、スペインならベラスケスがいて、オランダならレンブラント、ルーベンス、ヴァン・ダイク、フランスならニコラ・プッサンがいる。ヨーロッパ絵画シーンのゴールデンエイジだろう。グエルチーノは生前「イタリア最高の画家のひとり」と評価され、財をきずいた。しかし死後は徐々に否定されるようになり、19世紀にはほぼ顧みられなくなった。20世紀後半以降は逆に再評価の機運が高まっている。そうした機運の脈絡で開催される今回の東京展である。
 「アカデミズム」と言った時に、学問の世界はともかく、ことに芸術の分野においてこの単語は、多分にネガティヴな色彩を帯びて発せられる。気どって、小難しく、よろこびを出し惜しみするような作品のありようが想定されるのだ。時にその想定のしくみは、作品を理解しようとしない意固地な私たち現代人たちが、自己弁護の言い訳として機能させている。
 しかし、いま国立西洋美術館(東京・上野公園)で開催されている《グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家》を見ることで、アカデミズム本来のすごみ、壮大さ、奥深さ、そして興奮をかきたてる面白さを、私たちは再認識できるだろう。グエルチーノがこうして来てしまった以上、「アカデミズム」という単語をみだりに否定的、揶揄的な意味で用いることは、恥ずかしい行為となったことを知っておかねばならない。
 前述の『みる きく よむ』の中でレヴィ=ストロースが、ルーヴル美術館にあるプッサンの最も有名な作品「アルカディアの牧夫たち」(1638-39)の発想源となった、と論じているグエルチーノの「アルカディアに、我もまた」(1618-22 上の写真)は残念ながら来ていないが、「マルシュアスの皮をはぐアポロ」「放蕩息子の帰還」、そしてゲーテが「イタリア紀行」のなかで絶讃した「聖母のもとに現れる復活したキリスト」など、西洋絵画史を代表する名作が、嘘のようなあっけなさで数多く来日している。


《グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家》は国立西洋美術館(東京・上野公園)で5/31(日)まで
http://www.nmwa.go.jp/
P.S. 館内で同時開催されている《世紀末の幻想》という題のフランス版画展も、じつは必見です。