荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ビリギャル』 土井裕泰

2015-05-12 05:00:44 | 映画
 『セッション』をめぐる毀誉褒貶の数々を一瞥しつつ、一本の映画がこうやって論争を掻き立ててやまぬという事態に、ただただ安堵を覚えずにいられない。斜陽が叫ばれて半世紀もたつ映画は、まだケンカの理由になるだけの力を残していたのである。ただ、主人公の音大生を演じたマイルズ・テラーの悲壮な顔を見ていると、とても音楽の映画とは思えなくなる。もしジャズという音楽がこの作品で描かれているような稚拙なエゴの張り合いだとしたら、これほど素晴らしい歴史を築いてはいまい。
 師弟関係の相克劇という点では、『セッション』よりも土井裕泰の『ビリギャル』の方がずっといい。成績学年最下位のおちこぼれ女子高生(有村架純)が一念発起して、慶應義塾大学に合格するまでの物語。無力な若者が一念発起してがんばるというストーリー構造は、ここ四半世紀の日本映画にとって最大のジャンルを形成していて、大学相撲部、高校書道部、剣道部、演劇部、高専ロボット部など手を変え品を変え、毎年何本も新作が増えている。本来は、情熱の燃焼、人間性の形成という青春映画の構造的主軸にとって、勉強漬けであること、受験戦争に挑むことは、妥協または暗転として描かれることが多かった。今回、正攻法で受験勉強を青春映画の主軸に据えるという逆説的方法は、それなりに功を奏していると思う。
 気のせいかもしれないが、『ビリギャル』を見ながら思い出した映画が一本ある。稲垣浩監督の全盛期の一本、1948年の『手をつなぐ子等』だ。『ビリギャル』の有村架純、塾講師(伊藤淳史)、母親(吉田羊)、塾長(あがた森魚)の4者の温かい関係性を見ていて、『手をつなぐ子等』における知的障害の少年(初山たかし)、担任(笠智衆)、母親(杉村春子)、校長先生(徳川夢声)の4者の関係性を思い出したのである。師は愛と厳しさをもって全力で教育に当たり、生徒も必死に学ぼうとする。そして、ある目的が達成されたとき、生徒は感傷を残さずに去っていく。ある一定期間の師弟関係。その一本気と後ろを振り返らない覚悟が、『ビリギャル』と『手をつなぐ子等』に通底しているように思えた。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで上映中
http://birigal-movie.jp/