「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県久米島の「 ウティダ石 」と、時の記念日の時計たち

2021-06-10 06:13:13 | 沖縄の文化財

久米島にある「ウティダ石」

 

 

 

 

 

ウティダ石の説明版

 

 

 

 

 

 

ウティダ石

Utida Stone

( 県指定史跡 )

Prefectural Historical Monument



指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年1月17日 

Designaed Date : January 17,1974

所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町仲里村字比屋定下村渠、東原

Location : Nakazato-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken


 ウティダ石は、比屋定集落の東方の松林の中にあり、今から約500年ほど前に

久米島仲里間切りの堂之比屋という人が日の出を観測した場所であると伝えられている。

別名、太陽石と書いてウティダウガミイシとも呼ばれている。

石の表面には数本の線が刻まれており、太陽の動きを観測する時の目印となっている。

農業用の暦のない当時、日の出の位置の移動を調べることによって季節の変化を知ったという。

それを元に農民は種をまく時期、収穫する時期などを決めることが出来たといわれている。

古い時代における日の出観測のやり方を知る上で貴重な遺跡である。


 Udida Stone is in a pine woods which is st the east of Hiyajyo village.

It is said to have been a place where a person called

Donohiya of Kume island observed sunrise 500 years ago.

There are several lines on the stone that helped farmers to know the moves of the sun.

It is said that the farmers could have seasonal infomation and decide

when to seed, harvest, and furthermore, when to set sail.

 

 

 

 

 

若戸大橋の下の戸畑側にある日時計

その影は方向を変えながら

長くなったり短くなったりして時を報せる

 

 

 

人は空を見上げ 時間や季節を知る

太陽や月や星を頼りに・・・

 

 

 

サラサラと落ちる砂で時を計る砂時計

そういえば

その昔、KBCで「るり色の砂時計」という番組があった

 

 

 

 

骨董屋で買った我が家の掛け時計

 

 

 

 

時はすべてのものに対して平等に与えられた贈り物だと思う

 


沖縄県中城村 ・ 沖縄の文化財 「 中村家住宅 」 

2018-06-10 12:15:29 | 沖縄の文化財


















































































































中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物で、
沖縄本島内でこのように屋敷構えがそっくり残っている例はきわめて珍しく、
当時の上層農家の生活を知る上にも、貴重な遺構であるということで、
昭和31年に琉球政府から、
昭和47年に日本政府によって国の重要文化財に指定されたものである。







世界遺産の中城グスク







ペリーが絶賛した中城グスクの 「 ティダが門 」








中城グスクの城主で沖縄で一番古いとされる護佐丸の亀甲墓








世界遺産の勝連グスク








勝連グスクの主郭







読谷村古堅にある勝連城主 「 阿麻和利の墓 」






中村家概要

今から約500年前中村家の先祖賀氏  ( がうじ ) は、
忠信かつ琉球王国きっての築城家としても
その名をとどめていた護佐丸 ( 中城城主 ) が
読谷の座喜味グスクより城を中城に移したとき、
共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられている。
その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利に滅ぼされてしまうと、
中村家の先祖も離散の憂目にあった。

1720年頃、ようやくその家運を盛り返し、
この地方の地頭職 ( 本土の庄屋にあたる役職 ) に任ぜられた。



沖縄県浦添市 ・ 沖縄の文化財 「 当山の石畳道 」

2017-07-08 13:05:12 | 沖縄の文化財












































「 浦添城址 」 や 「 浦添ようどれ 」 のほど近くにある
浦添市前田から北へと続く当山の石畳道は、
首里と本島中部をつなぐ 「 普天間街道 」 の一部であった。
琉球王国時代、国王はこの道を通って
首里城から普天間宮へと参詣したといわれている。

現在修復保存されている部分は全長約200m
幅3mほどであるが、 「 ンマードゥケーラシ ( 馬転ばし )」 と呼ばれ、
馬が転ぶ程の急坂が続き交通の難所として知られた場所である。



沖縄県北中城村  「 大城のイリヌカー ( 西井泉 ) 」

2017-07-03 12:12:46 | 沖縄の文化財






















雨の多い沖縄では、この日も雨だった。

イリヌカーは県道146号線沿いの、
荻道との境界から約30mほど大城に入った所にあり、
県道より一段下がった位置にある。
名称は大城集落の西側 ( イリ ) に位置することに由来する。
コンクリートの覆い屋根が作られているが、
樋から流れてくる水を溜める池や石敷き、
周囲の土留め石積みもよく残っている。
また、北側には、琉球石灰岩を掘った地下水路も残っている。



沖縄県伊良部島  「 サバウツガー 」

2017-06-02 16:16:16 | 沖縄の文化財



























岸壁の横の階段を降りて行った所にサバウツガーがある









階段を降りた場所
















井戸の中は空っぽになっていた








サバウツガーの前の海







サバウツガーの手前にある展望台












サバウツガーは240年以上もの間、
周辺の佐良浜地域の生活用水として人々の生活を支えてきた井戸である。
直径1.5メートル、深さ4.5メートルの石積の井戸で、
その周辺地域、そして井戸へ降りていく階段も含めて
宮古島市指定史跡となっている。
近くにある石盤には
「 池間島から見た地形がサメの口の形に似ていることから
「 サバウツ 」 と名付けられたと考えられている 」 と書かれている。


【住所】
 沖縄県宮古島市伊良部字前里添 553-1
【交通】
 佐良浜港から車で県道90号線を5分北上
【駐車場】
あり



沖縄県伊是名島 ・ 国指定重要文化財 「 伊是名玉御殿 ( いぜなたまうどぅん ) 」

2017-05-22 15:43:30 | 沖縄の文化財



伊是名グスクのふもとにある 「 伊是名玉御殿 」








ピラミッド型している伊是名グスク












  伊是名玉御殿
  

Izena-Tamaudun


指定年月日 : 昭和 33 ( 1958 ) 年1月17日 
Designaed Date : January17,1958
所在地 : 沖縄県島尻郡伊是名村字伊是名
Location : Izena,Izena-son,Simajiri-gun,Okinawa-ken



 
19日に国の重要文化財に指定された伊是名玉御殿は、
伊是名城跡の北面中腹に位置する第二尚氏王統にかかわる墓陵である。
伝承によると尚 真王のころに
首里の玉陵造営 ( 1501年 ) 直後に造られたと言われている。
墓は間口7.5m、奥行き4.9m、
正面軒高2.4m、横の高さが3.5mとなっている。
屋根は梁石棟木として架け、平たい石を両流れに葺いた破風型で、
外面は全面漆喰塗りになっている。
墓域の総面積は約200㎡で、門前には12段の階段が設置され、
門は石造アーチ門に両開きの木製格子扉があり、
内部には2段の階段があって墓室に至る。
墓室は二つあって右側が尚 円王の父と、その夫人、姉および宗祖を、
そして左側には代々の伊平屋のあむがなしを葬っている。


 Izena-Tamaudun is a mausoleum which concerns the second Sho dynasty.
It is located at the halfway down the north side of the ruins of Izena
castle.
According to the folklore, Izena-Tamaudun was built just after Shuri-Tamaudun
( 1501 )
in King Sho-Shin period. The mausoleum is 7.5m. wide,4.9m. deep,2.4m.
high st the front,and 3.5m. high to the ridge.




沖縄県宮古島市 ・ 沖縄の文化財 「 下地町の池田矼 ( いけだばし ) 」

2017-04-14 14:14:14 | 沖縄の文化財



4年前に訪れた時の池田矼









きれいに草が取り除かれた石橋








輪石も壁石も琉球石灰岩で組まれている






















































宮古近海の多良間島、伊良部島、大神島以外に
3度訪れた宮古で毎回のように池田矼に足を運んだが、
今までは灌木や雑草に覆われて石橋を確認するだけで、
こうしてその全貌がハッキリと見えたのは今回が初めてである。

宮古島の下地の製糖工場の横に石橋の池田矼 ( いけだばし ) がある。
池田矼は、沖縄県宮古島市の崎田川に架かるアーチ橋で、
1977年7月1日に沖縄県の史跡に指定されており、
日本百名橋の番外の1つでもある。

言い伝えによると、明朝の生徳年間 ( 1506年 - 1521年 ) に、
平良から洲鎌、上地、与那覇に通じる道の一部である
下地矼道 ( しもじばすうんつ ) とともに石橋も造ったが、
大雨で流されたとされる。
これが今日の池田矼の前身ならば、約500年の歴史があることになる。

『 雍正日記 』 には 「 池田矼、南北長20間、
横3間、高サ9尺5寸村北ノ潟陸原ニアリ 」 と池田矼の記述があることから、
遅くとも1727年 ( 雍正5年 ) には存在していた。
また、『宮古島在番記』には、1817年 ( 嘉慶22年 ) に
下地矼道とともに修復したという記述がある。




沖縄県竹富島 / 那覇市 ・ 西塘の竹富島帰郷 「 蔵元跡と園比屋武御嶽石門 」

2016-12-31 15:10:19 | 沖縄の文化財



竹富島にある 「 蔵元跡 」










































蔵元跡の近くにある 「 星の砂 」 で有名な皆治浜








皆治浜 ( カイジ浜 ) の説明板








西塘が手掛けた首里城内にある 「 園比屋武御嶽 ( スヌヒャンウタキ ) 石門 」






星砂で有名なカイジ浜に入る道の手前の森に
石組みの残った平場があり、そこに 「 蔵元跡 」 の説明版が建ている。
ここは竹富島出身で琉球王府に仕えていた西塘 ( にしとう ) が、
八重山諸島を統治していた時に使っていた蔵元の跡である。

蔵元というのは年貢を収納する倉を意味するが、
それが役所を意味するようになり、
八重山、宮古、久米島では役所の事を蔵元と呼んでいた。

西塘はここで約20年間政治を行っていたが、その後石垣島に移した。
その時に唄ったとされるシキタ盆という歌は、現在でも伝えられている。


竹富ヌ仲嵩ヌ島ヤ
島ヤリヤドゥ フンヤリヤドゥ クユサル
大石垣大本ヌ真正面ニ シキタ盆
マウキ島デ イヤリル・・・


当時はこの遺構の隣にあるカイジ浜や西桟橋は、
他の島々とをつなぐ玄関口であった。


ここ蔵元で政治を行っていた西塘のことを説明しておきたい。
伝承によると、1500年に琉球王府と
宮古の連合軍が八重山のオヤケアカハチを征伐したとき、
総大将であった大里親方によって、西塘の才能が見出され、王都の首里に上り、
西塘は沖縄本島の首里の地で言葉を学び、文字を学び、
さまざまな学問を修めて当時の著名な土木建築家になった。

世界遺産に登録された園比屋武御嶽 ( スヌヒャンウタキ ) の石門は、
西塘が建築したものである。
また、首里城の城壁修復も行なったと伝えられている。
このようにして、王都の建築技術者の地位に上った西塘であるが、
彼には積年の思いがあった。
それは郷里竹富島に帰ることであった。
西塘は、石門建築の際に 「 帰郷が叶うならば、
園比屋武御嶽の神様を竹富島に勧請することを誓った 」 と伝えている。

夢叶って、西塘は八重山を統治する頭 ( カシラ ) として帰郷した。
そして、竹富島のカイジ浜近くに蔵元 ( 役所 ) を建て、そこで政治を執った。
また、竹富島に国仲御嶽を創建して遥拝所とし、園比屋武御嶽での誓いを果たした。
おかげで国仲御嶽は、八重山で唯一の首里王府に直結した御嶽となり、
誇り高き竹富人気質を涵養する精神的な拠り所になった。



沖縄県大宜味村 「 旧大宜味村役場 」

2016-01-26 03:39:41 | 沖縄の文化財










現在は村史編纂(さん)室になっている。






八角形のデザインが台風の暴風をいなす。
一般にも開放されていた屋上では、住民が漁の様子を見たりしていた。







工事の途中で付け加えられた2階の村長室。










明治30年代中頃、沖縄本島北部の大宜味(おおぎみ)村で一つの騒動が起きた。
事の発端は、村の工事の入札で地元大工が古都、首里の大工を負かしたことだった。
納得できない首里の大工は「9坪大工に200坪余が建てられるものか」と言って村に居座った。
しかし村の大工は見事に工事をやり遂げ、その鼻を明かした。

大宜味村史に紹介されているこの出来事は、
「大宜味大工(イギミゼーク)」の名を世に知らしめた。
夜明けとともに現れ、道具が見えなくなるまで働いたといわれる大宜味大工は、
早くて精巧な仕事ぶりで、都会の大工を脅かすほどの人気を集めた。

沖縄県内に残る最古の鉄筋コンクリート建築といわれる旧大宜味村役場庁舎を、
わずか半年で完成させたのもイギミゼークだった。
その時、棟梁として敏腕の大工集団を率いたのは弱冠22歳の金城賢勇だった。
金城は、晩年に記した自伝の中で 「 八角形というこれまでにない型枠工事は難しく、
かなりの技術を要求されました 」 と工事を振り返っている。

「 これまでにない斬新な庁舎 」 を設計したのは、国頭郡の建築技手、清村勉だった。
「 沖縄のコンクリート建築の父 」 と呼ばれる清村は熊本に生まれ、
26歳の時に沖縄に渡って来た。
鹿児島の高校で教員をしながら日本に導入されて間もない
「 鉄筋混凝土 ( コンクリート ) 」 を独自に研究していたことが伝わり、
郡役所に招かれたのだ。

着任早々清村は、南北約70キロに広がる郡内を自転車でくまなく見て回った。
そして、島の木造建築が台風や白蟻(あり)の被害に悩まされる様を見て、
耐久性に優れた鉄筋コンクリートこそ沖縄に適していると確信した。

しかし清村の考えはなかなか島民に浸透しなかった。
美里工業高校教諭の木下義宣さんは、生前の清村からこんな話を聞いた。

「 『 生きている人間が何でイシヤー(石屋)に入らないといけないのか 』 と、
強い反発があったそうです。
沖縄では石の建物イコールお墓のイメージでしたからね 」 と振り返る。

それでも清村はあきらめなかった。
実際に小さな建物を造ってみせるなどして台風や火事に強い最新工法をアピールした。
その努力が実り1925年、旧大宜味村役場庁舎が誕生した。

洋館風の外観デザインは、洋行する知人に送ってもらった絵葉書を参考にした。
茅葺き屋根が並ぶ村に瀟洒(しょうしゃ)な近代建築が立ち現れた時、
村民はさぞかし驚いたことだろう。
材料の海砂を自分の舌でなめて塩分濃度を確かめたというエピソードなど、
数々の設計秘話を残した清村も感無量だったに違いない。

「 鉄筋を曲げる道具さえなく全てが未体験という中で、
研究を重ねてそれを技術者に伝え、完成させた。その熱意に感動します」

誰も成し得なかった最初の鉄筋コンクリートの建造物。
清村のパイオニア精神と、
彼の先駆的ビジョンを受けとめた大宜味大工の職人魂。
米寿を過ぎて卒寿に達した白亜の建物には、
両者の運命的な出逢いが厚く塗り込められている。

晩年になっても当時の設計をミリ単位まで記憶していたという清村は、
沖縄に約20年滞在した後、熊本に戻った。
その間に手がけた建築のほとんどは姿を消したが、
戦時中も銃弾一つ受けなかった旧庁舎が清村と大宜味大工の功績を語り続ける

旧大宜味村役場 
所在地  / 大宜味村字大兼久157-2 
電話  / 0980−44−3009 
平日9時〜12時、13時〜17時(土・日・祝日休み)


沖縄県南城市玉城 「 垣花樋川 ( カチヌハナヒージャー ) 」

2015-08-17 01:41:41 | 沖縄の文化財











































連日の30度超えで暑さにウンザリである。
画像だけでも涼しい気持ちになりたいものである。


沖縄にはガーと呼ばれる井泉が多く存在する。
その中でも規模が大きく、有名なのがこの垣花樋川 ( かちぬはなひーじゃー ) である。

垣花樋川は、沖縄県南城市玉城字垣花にある湧水で、
環境省により1985年 ( 昭和60年 ) 名水百選のひとつに選定された。

湧き水は垣花集落の崖の中腹に湧出する水を
コンクリートの二箇所の水路に引いて流している。
右側から出る水を 「 男川 ・ ( いきががー ) 」 、
上流の左側からに位置する水路を 「 女川・( いなぐがー ) 」。

「 女川 」 は下流から見えないように位置が工夫されていて
沐浴のをするための場所であったと伝わっており、
下流の浅い泉は 「 馬浴・ ( ウマアミシー ) 」 で、
馬に水を飲ませたり、体を洗ったりしていた。

二つの水路から流れた水は斜面を下り。
その中傾斜の石畳道があり石畳の途中には
女達が一息入れた中休み ( ナカユクイ ) 石、
上休み ( イーユクイ ) 平石が残っている。
水路には琉球石灰水のため、石灰質の析出物が体積している。



沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 / 蔡温が手がけた 「 改決羽地碑記 」

2015-06-26 00:01:41 | 沖縄の文化財







改決羽地川碑記
The Moument of Kaiketsu Haneji River

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 44 ( 1969 ) 年8月26日 
Designaed Date : August 26,1969
所在地 : 沖縄県名護市字田井等
Location : Taira,Nago-shi,Okinawa-ken



この石碑は1735年に行われた羽地大川の改修を記念して建てられたものである。
改修工事は当時の三司官 ( 大臣 ) の具志頭親方蔡温の指導で行われ、
工事は周辺の村々から延べ10万人を動員して3ヶ月間かかったといわれている。
この改修によって羽地大川は田井等や振慶名の南を流れて呉我の海に注ぐようになった。
現在、羽地大川は1917年 ( 大正6 ) ~1938年 ( 昭和13 ) の改修によって
仲尾次の海へ注ぐようになっている。
最初は石碑が壊れてしまったので、1830年 ( 道光 ) に建て直したと記されていたが、
表面がすり減って文字はほとんど読める状態ではなくなっている。



This stone monument was dedicated to the repair of Haneji Okawa in 1735.
The repair was guided by the then minister,Gushicyan Oyakata Sai-On.
It is said that the repair took three months with 100 thousand residents
from surrounding villages.
On the monument, it was written that it was rebuilt due to the damage
on the original one, but the letters are unreadable.



沖縄県糸満市 ・ 沖縄の文化財 「 米須貝塚 」

2015-06-18 01:24:41 | 沖縄の文化財



米須海岸近くの砂丘地にある貝塚





米須貝塚
Komesu Shell Mound

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年10月19日 
Designaed Date : October 19,1956
所在地 : 沖縄県糸満市米須
Location : Komesu,Itoman-shi,Okinawa-ken


 米須貝塚は、米須集落の南約800mの砂丘地にある
沖縄貝塚時代後期( 約2000年前~12世紀 ) の貝塚である。

貝塚の広さはおよそ3000㎡で、付近の海岸には湧水もあり、
前面の海にはサンゴ礁が広がっている。

この遺跡で見つかった遺物には、
甕 ( かめ ) 形 ・ 底の深い鉢形 ・ 壷形の各土器、弥生土器、
貝製の札、文様のある土器、貝製の錘 ( おもり ) 、貝製のさじ、
石斧 ( せきふ ) 、石の皿などの他に比較的多量の海産貝がある。


 This shell mound is of the late Okinawan Shell Mound Age
( approx. 2000 yrs. ago~ the 12th century ) , and is on a sandhill which
is about 800 m.
to the south of Komesu village. The area is about 3000 square meters,
and there is a coral reef in the sea in front of it.
There is a spring at the seashore.
The relics are pottery shaped like pots, deep bowls and jars,
Yayoi pottery, shell tags, weigts and spoons, pottery with patterns,
and stone axes and plates.



沖縄県那覇市泉崎 ・ ふたたびの 「 仲島の大石 」

2015-06-07 00:01:41 | 沖縄の文化財







仲島の大石
Nakasima-No-Oishi
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 33 ( 1958 ) 年3月14日 
Designaed Date : March 14,1958
所在地 : 沖縄県那覇市泉崎
Location : Izumisaki,Naha-shi,Okinawa-ken



仲島の大石は、那覇市街地のバスターミナル構内にある高さ約6m、周囲約25mの琉球石灰岩で、
俗に 「 仲島の大石 」 と呼ばれている。下部には海水の働きによってくぼんだ跡があり、
かつてこの周辺が海であったことをうかがわせる貴重な資料となっている。
昔、久米村の人たちは、この岩を文筆峰と呼び、縁起の良いところとして大事にしたといわれている。
また、この付近には明治41年まで仲島遊郭があって有名な女流歌人吉屋チルーもここで短い生涯を終えた。


 This Ryukyuan limestone is 6m high and 25m around, and is in the out-of-town bus terminal yard.
It is commonly called “Nakashima-no-Oishi”.
It is a precious material bscause it infers that the area was formerly the sea.
Kume-son residents uaed to call the stone Bunpitsuho, and treasured it as an auspicious spot.
There used be Nakshima red-light district untilthe 41st year of Meiji (1908),
and the famous woman poet Yoshiya-Ontsuru is believed to have short life here.



沖縄県糸満市 三山鼎立の切っ掛けとなった 「 嘉手志川 」

2015-05-30 04:48:41 | 沖縄の文化財

































































こんこんと湧き出る嘉手志川の水源













大里馬場跡の下にある 「 嘉手志川 ( カデシガー ) 」 。
これは馬場跡もだが、南山グスクや
尚 巴志の琉球王国の三山鼎立の足がかりとなった井泉 ( 水源地 ) である。


嘉手志川 ( カデシガー ) は、糸満市大里にある湧水源です。
三山時代、南山発展の基礎となった泉である。
南山最後の王、他魯海 ( たるみぃ ) は、
中山王・尚 巴志 ( しょうはし ) が持っていた金屏風を欲しがり、
屏風とこの泉を交換しました。

そのため、南山の人々は水を勝手に使えなくなり、
次々と中山の尚 巴志に味方するようになりました。
結果、他魯海 ( たるみぃ ) は南山の人々の支持を失うこととなり、
それに乗じて尚 巴志が大軍を率いて攻め込み
1429年に南山は滅びることとなりました。
こういった南山滅亡にまつわる言い伝えを残す水源地である。


沖縄県糸満市 ・ 沖縄の文化財 「 報得橋 ( むくえばし ) 」

2015-05-17 00:12:41 | 沖縄の文化財

































































所在地 : 糸満市照屋

橋幅 : ?m
径間 : 3.1m
拱矢 : 0.6m
環厚 : 33㎝
架設 : 1732年

報得 ( むくえ ) 橋 :  糸満市指定有形文化財


「 報得橋は、もとは木橋であったので、大風や大雨のたびに傾いたり、
流されたりして、たいへん不便なときがあった。
尚氏王統12代の尚敬王は、毛鴻基や童能秀らの役人に命じて、橋を改修させた。
1732年8月21日から11月1日までの約70日間の工期に、
石細工4,687名と人夫11,668名を動員して行なわれた。
 
完成した橋の形は、まるで虹が架かったようであり、
また竜が誇っているようでもあると、当時の人々はその雄姿を讃えている。

報得橋は、小さな木橋から大きくて広い頑丈な石橋に改築されたが、
大正4年には自動車を通すためのコンクリートの二重のアーチ橋になった。
しかし、この橋も沖縄戦で破壊され架け替えられて今日に至っている。

戦争で破壊されたと思われていた報得橋の一部が、
平成3年8の改築工事の際に発見され、今回の移築復元となった。
復元された報得橋は琉球王府時代を偲ばせる貴重な建造物であり、
多くの方が郷土文化の体験学習に活用されることを望む。 」


糸満市教育委員会