波上宮にある仲地紀仁顕彰碑とベッテルハイム居住地跡の碑
仲地紀仁顕彰碑
ベッテルハイム居住地跡の碑
名護にある 「 なかちクリニック 」 の診察券
28日の宜湾朝保の逸話に続いて、同じ琉球の逸話である。
仲地紀仁 ( なかちきじん ・ 1789~1859 ) は、
那覇の泊村の医者の家に生まれ、若い頃から父について医術を学んでいた。
そして26歳のとき、中国に渡って4年間中国医学を勉強した。
その中国からの帰りに紀仁の乗った船が台風にあって薩摩まで流され、
紀仁は帰りの船を待つ間の1年間を薩摩の医者から内科と外科を学んだ。
こうして新しい医学を学んだ紀仁は琉球王府の医者として迎えられたが、
そのころ琉球では天然痘という伝染病が流行っていたが、
当時の琉球は、まだユタやノロの祈祷や拝みに頼る琉球王府だった。
そんな時、アメリカ人医師のパーカーが那覇に立ち寄り、
パーカーの天然痘の本を借り、紀仁はこの本を一日で書き写した。
パーカーは3日で立ち去ったので牛痘法をマスターする事ができなかった。
その後、1964年にイギリス人宣教師のベッテルハイムが那覇に来ていた。
彼は医者でもあった。
しかし当時はキリスト教が禁止されていたので、
ベッテルハイムの周囲には見張りがついていた。
紀仁は罰されるのを覚悟で密かに洞窟の中のベッテルハイムに会い、
牛痘法を学んだ。
ベッテルハイムは、 「 牛痘法のワクチンなら牝牛の乳房に出来た膿から取れる 」 と教えた。
紀仁は琉球じゅうを駆けずり回るが、なかなか見つからなかったが、
国頭村の宇久で、やっとみつけた。
こうして1850年に紀仁は琉球で初めて牛痘法を成功させた。
そんな仲地紀仁の子孫である、仲地先生にグスク巡りをしているときに
名護で治療を受けたことがある。