「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

ユネスコ無形文化遺産決定 ・ 沖縄県宮古島  「 パーントゥ 」

2018-11-30 20:18:51 | 世界遺産























宮古島の北西部に位置する島尻地区。
ここへは大神島へ渡る連絡船に乗る時に訪れた事がある。

沖縄県宮古島市の 「 パーントゥ 」 を含む
8県10件の伝統行事で構成する 「 来訪神 仮面・仮装の神々 」 の
ユネスコ無形文化遺産登録が決定したことを受け、
宮古島市では「 島の誇りだ 」 「 地域の活性化につながってほしい 」 などと、
喜びや期待の声が上がった。

一方で、登録を受けた今後の行事運営や継承について、
懸念を口にする地域の人もあった。 
29日午後、宮古島市役所城辺庁舎に集まった島尻自治会の住民や
市教育委員会の関係者はネット中継でユネスコの審査を見守った。
登録が決まり、庁内は大きな拍手と歓声に包まれた。

泥を身にまとった来訪神が、人や物に泥を塗って厄払いする
 「 パーントゥプナハ 」 が行われている島尻の宮良保自治会長は 「 非常にうれしい。
昨年は見送られたので、喜びもひとしおだ。
今後は行政の協力も得て、継承のため地域に若者が戻ってくるような施策を講じたい 」 と語った。


「 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 」 世界文化遺産決定

2018-07-01 10:19:36 | 世界遺産



野崎島にある鉄川与助が手がけた野首教会









かつての集落跡から野首教会を望む








今は無人島になった野崎島で佇む野首教会







「 ここから天国は、そう遠くない 」 と舟の中でつぶやいた殉教者が向かった中江ノ島







新上五島町にある鉄川与助が手がけた石造の頭ヶ島教会








キリシタン弾圧から逃れ住んだ黒島にあるマルマン神父が手がけた黒島天主堂








ド・ロ神父が明治26年に手がけた大野教会堂








ド・ロ神父が明治15年に手がけた出津天主堂








フェーレ神父とプチジャン神父が手がけた大浦天主堂








奈留島港ターミナルに掲げられた 「 世界遺産 」 の横断幕








鉄川与助が手がけた湿気を防ぐために床を嵩上げした白とブルーが爽やかな江上天主堂








五輪真弓さんのルーツとなる久賀島の五輪教会








明治14年に建てられた旧五輪教会内部







熊本県内で唯一選ばれた天草にある崎津天主堂






昨日、バーレーンのマナマで開催中の
国連教育科学文化機関 ( ユネスコ ) の世界遺産委員会は、
約250年続いたキリスト教禁制と独自の信仰の歴史を示す
 「 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 」 ( 長崎県、熊本県 ) を
世界文化遺産に登録することが決まった。
島原の原城や平戸の安満岳などは掲載していないが、
それ以外は、ほぼ世界遺産に登録された場所の建造物である。



野首教会   長崎県小値賀町野崎島  明治41年 ( 設計者 / 鉄川与助 )
頭ヶ島教会  長崎県新上五島町    大正8年  ( 設計者 / 鉄川与助 )
黒島天主堂  長崎県佐世保市黒島   明治35年 ( 設計者 / マルマン神父 )
大野教会堂  長崎市西出津町     明治26年 ( 設計者 / ド・ロ神父 )
出津天主堂  長崎市西出津町     明治15年 ( 設計者 / ド・ロ神父 )
大浦天主堂  長崎市南山手町     明治1年  ( フェーレ神父 プチジャン神父 )
江上天主堂  長崎県五島市奈留島   大正7年  ( 設計者 / 鉄川与助 )
旧五輪教会  長崎県五島市久賀島   明治14年 ( 設計者 / 不詳 )
崎津天主堂  熊本県天草市崎津    昭和9年  ( 設計者 / ハルブ神父 )





福江島にある間伏カトリック集落








久賀島にある牢屋の窄で迫害を受けた殉教者の名前を刻んだ信仰の碑








天草市有明町にある南蛮寺キリシタン墓碑





間伏カトリック集落  /   長崎県五島市戸岐町
牢屋の窄 殉教者信仰の碑 /   長崎県五島市久賀島
南蛮寺キリシタン墓碑  /   熊本県天草市有明町上津浦

佐賀県佐賀市 ・ 世界遺産 「 三重津海軍所跡 」

2015-11-20 03:00:41 | 世界遺産













  日本初の実用蒸気船を建造し、海軍教育でも名高い施設


佐賀藩の長崎警備に伴う海防強化は、
神ノ島、伊王島などの砲台建設や築地反射炉での鉄製大砲の鋳造によってなされましたが、
それと並ぶもう一方の柱は蒸気船を主力とする洋式海軍の創設と整備にありました。

1853(嘉永6)年のペリー艦隊の浦賀来航をきっかけに、
幕府は大船製造の禁令を解除しました。
佐賀藩は、オランダに蒸気軍艦を発注するとともに、独自に蒸気船製造を計画。
また、1855(安政2)年には、幕府が設置した「長崎海軍伝習所」へ
多数の佐賀藩士を海軍伝習生として参加させ、
操船技術に加え、造船や機械工学、火薬製造を学ばせました。

1858(安政5)年、佐賀藩は三重津船屋を拡張し、
独自の海軍教育施設である「御船手稽古所」を設立しました。
これが三重津海軍所の前身です。
翌年には三重津船屋の西一角を海軍稽古場として拡張し、訓練場などを設置しました。
その後、佐賀藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のために乾船渠(ドライドック)、
船の部品やボイラーを組み立てるための施設等を建設し、
1865(慶応元)年には、日本初の実用蒸気船である「凌風丸」を建造しました。

なお、三重津海軍所や佐賀藩海軍所などの名称は、後の時代に付けられたもので、
当時は一般に「三重津」と呼ばれていました。

三重津海軍所跡は、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区の三つのエリアから構成されています。
現況で視覚的に確認できる遺構は、船入場と堤防の一部だけですが、
海軍所全体の範囲は平成13年度から15年度に実施した埋蔵文化財確認調査でほぼ判明しています。

また、修覆場地区については、平成21年度から調査を実施しており、
金属加工関連遺構や乾船渠跡を発見し、
三重津海軍所跡の「真実性の証明」を補強する資料となっています。

この乾船渠は、複雑な木組みの技術で骨格を造り、土で覆い階段状にした特異な構造をもち、
その施工には日本在来の土木技術が随所に応用されています。
このような乾船渠は国内に類例がなく、現存日本最古のものであることがわかりました。

三重津海軍所は明治初期に閉鎖されたと思われますが、その頃の状況はよくわかっていません。
その後、海軍所跡地は、1902(明治35)年から1933(昭和8)年まで商船学校として利用されました。
現在は、佐野歴史公園として整備されています。

なお、2013(平成25)年に国の史跡に指定されています。

2014(平成26)年には、隣接する佐野常民記念館3階に、
三重津海軍所跡の内容や価値を知ることができるインフォメーションコーナーがオープンしました。


所在地 / 佐賀県佐賀市川副町大字早津江津

山口県萩市 ・ 世界遺産 「 松下村塾 」

2015-11-07 02:41:50 | 世界遺産













松下村塾は、日本が近代化、産業化を成し遂げていく過程で、
重要な役割を担う人材を教育した機関です。

 塾を主宰したのは、萩(長州)藩校明倫館の兵学師範であった吉田松陰です。
松陰は数え年で21歳の時から国内各地を訪ね歩き、知識と見聞を広めます。
しかし、25歳の1854(安政元)年3月、直接自分の目で西洋の実情を確かめたいとの思いから、
伊豆下田沖に停泊していたペリーの黒船に弟子の金子重輔(かねこしげのすけ)とともに乗り組み、
アメリカへの密航を志しますが、失敗して萩の野山獄に閉じ込められました。

 その後実家の杉家で謹慎生活を命じられた松陰は、
1856(安政3)年3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者たちに、
実家の幽囚室で講義をはじめます。
家族は人数が増え続けることを心配し、
1857(安政4)年11月、小屋を修理して松陰に塾舎として使わせます。
この8畳1室の塾舎が松下村塾です。
塾舎を得た松陰は、幽囚室から移って塾生と共同生活を開始します。
1858(安政5)年3月には、塾生が増えたため、
10畳半の部屋を増築、塾舎は18畳余に拡充されました。

 萩(長州)藩は1858(安政5)年7月、松下村塾を公認しますが、
同年12月、幕府政治を批判する松陰を再び野山獄に投じ、
松陰主宰の松下村塾は閉鎖となりました。
松陰の2つの建物での講義は、2年10ヶ月でしたが、この間に約90名の塾生を指導しました。

 松下村塾は、1922(大正11)年10月に、
隣接する吉田松陰幽囚ノ旧宅(杉家旧宅)とともに国の史跡に指定されました。
2つの史跡は、1907(明治40)年に創建された松陰神社の敷地内にあります。


日本の近代化・産業化に貢献した主な松下村塾生

高杉 晋作(たかすぎ しんさく) 奇兵隊創設、長州(四境)戦争の指揮
久坂 玄瑞(くさか げんずい) 光明寺(こうみょうじ)党(奇兵隊の母体)結成
伊藤 博文(いとう ひろぶみ) 初代首相(4度組閣)、明治憲法制定
山県 有朋(やまがた ありとも) 3代首相(2度組閣)、陸軍制度創設
山田 顕義(やまだ あきよし) 初代司法大臣、日本大学創設
野村 靖(のむら やすし) 内務大臣、逓信(ていしん)大臣
品川 弥二郎(しながわ やじろう) 内務大臣、信用組合・産業組合の普及
前原 一誠(まえばら いっせい) 明治政府参議、兵部大輔(ひょうぶたいふ)
正木 退蔵(まさき たいぞう) 東京職工学校(東京工業大学)初代校長
渡辺 蒿蔵(わたなべ こうぞう) 初代長崎造船局長
飯田 俊徳(いいだ としのり) 鉄道技師、逢坂山(おうさかやま)トンネル工事指揮
木梨 信一(きなし しんいち) 第百十国立銀行(山口銀行)3代頭取


所在地 /  山口県萩市大字椿東1537-1

山口県萩市 ・ 世界遺産 「 萩反射炉 」

2015-10-25 02:51:41 | 世界遺産


















































1853(嘉永6)年のペリー来航前後の日本では、
欧米列強に対する危機感が高揚、これに対抗するため、
西南雄藩が中心となって海防強化に努め、
旧来の青銅製大砲に代わる強力な鉄製大砲の自力生産が模索されはじめます。

 このような時代のなか、萩(長州)藩では1855(安政2)年に、
西洋の兵学や文化などを広く研究するため西洋学所という教育機関を設け、
1856(安政3)年には恵美須ヶ鼻造船所を設立して、
最初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」を建造するなど、
兵制の改革、軍備の拡充に努めました。
こうした軍事力強化の一環として、
鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉である反射炉の導入を試みた。

 萩(長州)藩は、1855(安政2)年7月、
すでに1851(嘉永4)年に反射炉の操業に成功していた佐賀藩へ、
藩士の山田宇右衛門(やまだうえもん)らを派遣します。
目的は、鉄製大砲の鋳造法習得でしたが、
製砲掛が長崎に行って不在であることなどを理由に伝授を謝絶されます。
そこで萩(長州)藩は翌8月、佐賀藩が欲していた萩(長州)藩発明の
「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」(大砲の台)の模型を大工棟梁で、
藩士の小沢忠右衛門(おざわちゅうえもん)に持たせ、
佐賀藩へ派遣しました。

 小沢は反射炉の見学を許され、スケッチをとり、帰ると藩にこれを提出します。
萩(長州)藩では直ちに設計を開始し、
11月に藩士の村岡伊右衛門(むらおかいえもん)を御用掛に命じて、
翌1856(安政3)年から鉄製大砲の鋳造に取り組みます。

 現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分で、
高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)です。
上方で二股に分かれているように見えますが、
実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっています。
佐賀や韮山(静岡県)の反射炉が、オランダ人ヒュゲーニンの原書どおり、
約16メートルの高さがあったのに比べ、萩反射炉は7割程度の規模しかありません。
砲身に穴を空けるために必要な平錐台(ひらぎりだい)(ドリルのようなもの)を
稼働させるために必要な動力水車用の川又は水路の形跡も見られません。
また、これまで萩反射炉は1858(安政5)年の築造であるとされてきましたが、
現在、記録で確認できるのは、
1856(安政3)年の一時期に反射炉が操業されたということだけです。

これらのことから、近年では萩(長州)藩には実用炉の存在は認められず、
現存する反射炉は試作的に築造されたものであるという見方が有力視されています。

 萩反射炉は、1924(大正13)年12月に国の史跡に指定されました。
国内に現存している反射炉は、静岡県の韮山と萩の2基だけであり、
試験炉ではありますが、自力による近代化初期の資産として重要なものであります。


所在地  / 山口県萩市大字椿東4897-7

山口県萩市 ・ 世界遺産 「 恵美須ケ鼻造船所跡 」

2015-10-22 02:12:41 | 世界遺産














































1853(嘉永6)年、幕府はペリー来航の衝撃から、
各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、
翌年には萩(長州)藩に対して大船の建造を要請します。
次いで1855(安政2)年、幕府は伊豆戸田村(へだむら)において、
ロシア人の指導のもと西洋式帆船の君沢型(きみさわがた)(スクーナー)を製造しました。

それを受けて1856(安政3)年1月、
萩(長州)藩は藩士の桂小五郎(後の木戸孝允(きどたかよし))の軍艦製造の意見書に応じ、
洋式造船技術と運転技術を学ばせるため、
船大工棟梁の尾崎小右衛門(おざきこえもん)を伊豆と江戸に派遣しました。
4月、尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった船大工棟梁の高崎伝蔵らとともに萩に帰り、
近海を視察、小畑浦(おばたうら)の恵美須ヶ鼻(えびすがはな)に
軍艦製造所を建設することを決定しました。
1856(安政3)年12月には
萩(長州)藩最初の洋式軍艦(スクーナー型)「丙辰丸(へいしんまる)」が進水しました。
丙辰丸は全長25メートルの木造帆船で、尾崎を通じてロシアの造船術が用いられました。

1857(安政4)年8月には造船所は閉鎖されますが、
翌年、萩(長州)藩は安政の軍政改革を開始、
その総責任者に山田亦介(やまだまたすけ)を登用するとともに2隻目の洋式船の建造を企画します。
山田は閉鎖されていた恵美須ヶ鼻造船所の引き渡しを受け、現場を整備します。
また萩(長州)藩は13名の技術者を長崎海軍伝習所に派遣して、オランダの造船術を学ばせます。
オランダの造船術を習得した技術者により
1860(万延元)年4月に、2隻目の洋式軍艦(バーク型)「庚申丸(こうしんまる)」が完成しました。
このように、恵美須ヶ鼻造船所跡では2隻の洋式軍艦が建造されましたが、
1隻目はロシア、2隻目はオランダの造船術が用いられており、
異なる外国の技術が共存する他に類例のない造船所の遺跡であると言えます。

なお、丙辰丸建造に際しては、萩市紫福の大板山たたら(国指定史跡)の鉄が使用されました。
現在、造船所跡には地下遺構と、当時の規模の大きな防波堤が遺っています。
2013(平成25)年10月に国の史跡に指定されています。


所在地 / 山口県萩市大字椿東5159-14

山口県萩市 ・ 世界遺産 「 大板山たたら製鉄遺跡 」

2015-10-17 02:56:41 | 世界遺産



大板山たたら製鉄遺跡一帯









不純物を取り除いた 「 砂鉄洗い場 」







砂鉄を乾かした 「 砂鉄焙焼炉 」







鉄を溶かすために火を起こしていた 「 鞴 ( ふいご ) 」







溶けた鉄を流し入れた 「 鉄池 ( かないけ ) 」











   「 たたら 」 の伝統技術によって支えられた、自力による近代化



大板山たたら製鉄遺跡は、江戸時代の中・後期に操業された鉄の生産現場です。
ここで生産された鉄は、幕末、萩(長州)藩の洋式軍艦建造に役立てられました。
この遺跡は、在来の製鉄技術により洋式造船を支援したという、
自力でのユニークな近代化を証明するものです。

「たたら」は、日本で独特の発展をとげた伝統的な製鉄技術です。
とくに中国地方は、良質な砂鉄を産出することから、
江戸時代には製鉄の中心地となっていました。
大板山たたら製鉄遺跡には、製鉄用の炉跡、天秤ふいご跡など
関連施設の遺構が良好に残っています。
これらの遺構は1991(平成3)年~1992(平成4)年に行われた発掘調査により確認されました。
 大板山で「たたら」が操業された時期は、次の3回が確認されています。

 (1) 宝暦期
 (2) 文化・文政期
 (3) 幕末期

 最後の時期は、石見国渡津村(いわみのくにわたづむら)(島根県江津市)の原屋家により
経営されていました。
原料の砂鉄は、石見国井野村(いわみのくにいのむら)(浜田市)から船で
奈古(なご)(山口県阿武郡阿武町)まで運ばれ、
大板山まで「鉄の道」と称される道を使って馬で運んだとされています。
また、大板山が「たたら」を営む拠点に選ばれたのは、
木炭を大量に消費するため、豊富な森林資源を必要としたからです。
古来「砂鉄七里に炭三里」という言葉が伝わっています。
「たたら」を営むには、原料の砂鉄よりも、燃料の木炭の入手を重視したことがわかります。

 これまで、大板山の「たたら」で生産された鉄が使用されたのは、
萩(長州)藩が1860(万延元)年に建造した洋式軍艦「庚申丸(こうしんまる)」とされてきました。
しかし最近、山口県文書館にて保管されている古文書を精査したところ、
1856(安政3)年建造の「丙辰丸(へいしんまる)」に使用されたことが判明しました。
いずれにせよ、萩(長州)藩は恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所において、
洋式軍艦の建造に一応は成功しましたが、
そこで使われた技術は、製鉄をはじめ伝統的な在来技術が中心でした。
このように、大板山たたら製鉄遺跡は、恵美須ヶ鼻造船所跡と関連をもつ資産であり、
自力による近代化を証明するものであります。

製鉄炉等の遺構がよく保存され、規模は県内最大級で、
2012(平成24)年9月に国の史跡に指定されました。


所在地 / 〒758-0501 山口県萩市大字紫福257-5(山地番)
TEL / 0838-25-3139(萩市観光課)
入館料 / 無料
開館時間 / 常時公開
休館日 / 年中無休

アクセス
・松陰神社横の県道11号・10号を北上し、
山の口ダム方面に向かう道路(大型車通行不可)の突き当たり
・JR東萩駅から車30分
・萩/石見空港から車60分

駐車場 / 有(乗用車5台)


長崎市 ・ 世界遺産 「 旧グラバー住宅 」

2015-10-12 03:32:41 | 世界遺産











  日本に西洋技術を伝えた拠点、旧グラバー住宅 


スコットランド出身の起業家トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)は、
1859(安政6)年、開港と同時に上海から長崎に来て
グラバー商会を設立し貿易に従事しました。

 幕末から明治にかけて、薩摩藩や佐賀藩と協力して
小菅修船場や高島炭坑の建設や事業化に協力し、
後に三菱の経営にもアドバイスを与え、
石炭・造船・鉄道などの分野で外国の機械技術を導入し、
日本の近代文明の進展に尽力しました。

 また、幕末の激動の時代の中、
坂本龍馬を始めとする志士達を陰で支え伊藤博文らの支援など、
若い人々への多大な援助を惜しまず、明治維新を推進した陰の立役者でもありました。

 グラバーは、当初居住地がいくつか変わり、
その後、南山手3番地の広大な敷地(1619坪)に庭園と木造洋風の住宅を建てました。
この南山手の高台からは、
長崎の港と対岸に現在の三菱重工業(株) 長崎造船所が一望できます。

 建設年代は主屋より発見された墨書により1863(文久3)年であることが確認され、
木造洋風建築としては現存する日本最古の遺構になります。
 棟梁は大浦天主堂等を請負った天草の小山秀(こやまひいで)であったと思われます。

 旧グラバー住宅の主屋は、建築当初の平面は逆L字型をしており、
その後の増築で、逆L字型からT字型へと変化し、さらに四つ葉のクローバーのように広がりました。

 旧グラバー住宅は、英国コロニアル様式と日本の伝統的な建築技術の融合を示しています。
日本瓦や土壁を用い、半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、
柱間には吊束を持つアーチ型欄間、化粧軒、木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴です。

 当時の写真の一つに、グラバー住宅下の日本庭園に商品を並べ、
グラバーと数人の西洋人、ビジネス相手らしき武士を写したものがあります。

 グラバーは、居住や文化交流だけでなく、
ビジネスの場としてもこの場所を活用していたことがうかがえます。

 1908(明治41)年、日本の近代化に大きく貢献したグラバーの功績が認められ、
日本政府は勲二等旭日重光賞という、栄誉ある勲章を与えました。
当時、外国人に対して勲章を授与することは異例なことでした。

 その功績があり、1961(昭和36)年、主屋と附属屋が国の重要文化財に指定されました。
1974(昭和49)年には、外国人居留地であったこの地に
元々あった国指定重要文化財の旧リンガー住宅・旧オルト住宅や
市内の移築復元した6つの明治期の洋館とともに、
「グラバー園」の中心となる施設として開園し、今日に至っています。



山口県萩市 ・ 世界遺産 「 萩城下町 」

2015-10-11 02:52:41 | 世界遺産



















   ” 長州の誇りと伝統が息づく町並み ”


萩城下町は、徳川幕府との対立を経て天皇を中心とする
近代的統一国家の形成を主導した西南雄藩のひとつである
萩(長州)藩の政治的・経済的・文化的・軍事的な拠点でした。
1600(慶長5)年、西軍の総大将として関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、
それまでの領地中国地方8カ国112万石から、防長2カ国36万石に削封され、
1604(慶長9)年に萩の指月山に新たに居城を築くとともに、
並行して城下町の建設を進めました。
三角州上に形成された城下町は、
阿武川支流の橋本川と松本川に囲まれた総構をなしており、
都市的機能の整備は18世紀中ごろまで続きました。

 萩城の城郭は、指月山頂に要害を配置し、
山麓部には天守閣のある本丸を中心に二の丸、三の丸を設け、
その間はそれぞれ内堀、中堀、外堀により区画されており、
現在もよくその旧態をとどめています。
外堀の内側の三の丸は上級武家地で、
外堀の外側には中・下級の武家屋敷や町屋、
寺院などがエリアに分かれて整然と配置されています。
当時の町割りが今も変わることなくよく残っており、
近世の封建社会がわかる典型的な町として現在に受け継がれています。

 封建社会の様相を特によく残しているところは、
指月山と本丸、二の丸を含む 「 萩城跡 」 や武家屋敷や
豪商などの町屋が軒を連ねていた 「 萩城城下町 」 ( いずれも国指定史跡 )、
また、藩の重臣たちの邸宅が建ち並ぶ上級武家地(三の丸)「 堀内(ほりうち)地区 」
( 国選定重要伝統的建造物群保存地区 ) などです。



長崎市高島 ・ 世界遺産 高島炭鉱 「 北渓井坑跡 ( ほっけいこうあと ) 」

2015-09-30 03:37:41 | 世界遺産



北渓井抗跡














高島炭坑の北渓井抗




江戸時代の高島は佐賀(鍋島)藩の領地だった。
そこで佐賀藩は英国人貿易商トーマス・ブレイク・グラバーと
高島探鉱を共同経営した。
グラバーは英国人技師を雇い、日本で初めての洋式採炭法を取り入れる。
この時、約48メートルの深さに垂直に掘り下げられ開いた堅杭を北渓井抗といい、
蒸気を動力とした巻揚機械、風車による坑内換気装置など当時としては、
英国から輸入された最先端の設備を備えていた。
炭坑は明治14年(1881)に三菱の所有となった。




長崎市 ・ 三菱重工長崎造船所 「 旧木型場 」

2015-09-22 02:56:41 | 世界遺産



現在、資料館として使われている 「 旧木型場 」








三菱の創業者 「 岩崎弥太郎 」 の像







天井のレールは当時のまま







トラス式の小屋組




















































旧木型場は、1898(明治31)年に、
鋳物工場に併設する「木型場」として建設されたもので、
長崎造船所に現存する最も古い建物です。

この建物は、屋根を支える小屋組みのトラスが特徴的な二階建煉瓦造りで、
明治30年代に建造された現存する木型場としては国内で最大規模です。
木造のクイーンポストトラスの小屋組み、屋根は切妻造桟瓦葺で、
一階中央部は木製の柱で支えられています。
また、1915(大正4)年の増築部分の小屋組みは、鉄骨造りのフィンクトラスです。

長崎県長崎市 三菱長崎造船所関連施設
この建物は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、
1985(昭和60)年に史料館として改装されました。
1945(昭和20)年8月の空襲に於ける至近弾や原子爆弾の爆風にも耐えて、
風雪に磨かれた赤煉瓦は、日本の近代工業の黎明期に於ける
長崎造船所の華やかな門出を偲ばせます。
館内には、1857年(安政4)年に長崎造船所の前身の
長崎鎔鉄所建設が着手されたときから現在までの
長崎造船所の歴史を物語る約900点の史料を展示しています。




長崎市 ・ 三菱重工長崎造船所 「 ジャイアント・カンチレバークレーン」

2015-09-08 03:37:41 | 世界遺産





















明治日本の産業革命遺産で世界遺産となった
ジャイアント・カンチレバークレーンは、
同型としては日本に初めて設置された最新式電動クレーンで、
英国アップルビー社で製造されました。

クレーンは150トンの吊上能力を持ち、大型重機の荷重に耐え、
電動モーターで駆動するもので、
英国マザーウエル社が仮組、解体の上輸送し、
1909(明治42)年に長崎造船所飽の浦岸壁に再組立てし竣工しました。
英国人技師ガードナー・ロジャーがマザーウエル社から派遣され、
クレーン設置工事の監督及び技術指導を行いました。
 
このクレーンを設置した頃には、長崎造船所は東洋最大の民間造船所となっており、
1908(明治41)年には世界最高クラスの豪華客船「天洋丸」が完成しました。
 
機械部門では、1904(明治37)年に英国のパーソンズ社と
陸上及び舶用蒸気タービンの製造ライセンス契約を締結し、
1908(明治41)年には国産第一号の陸用及び舶用タービンが完成しました。
 
ジャイアント・カンチレバークレーンは、
舶用主機等の大型機械の船舶への搭載或いは陸揚げのため、
飽の浦事務所の前面に設置しました。
設置場所では機械・仕上げ工場の海側係船岸壁を強化し、
既設の100トンクレーン岸壁の東に岩盤の浅い位置を選定し基礎を建設しました。
基礎工事は1908(明治41)年9月に竣工、
そして、クレーンは1909年12月に竣工ました。
1961(昭和36)年には、機械工場拡張でクレーン周辺が埋め立てられたため
水の浦岸壁に移設、現在も機械工場で製造した蒸気タービンや
大型船舶用プロペラの船積み用に使用しています。( 非公開施設 )



長崎市 ・ 三菱重工長崎造船所 「 占勝閣 ( せんしょうかく ) 」

2015-08-06 00:11:41 | 世界遺産















占勝閣は、三菱長崎造船所第三ドックの北の丘の上に建つ木造洋館である。
三菱造船所 ( 現三菱重工業 ( 株 ) 長崎造船所 ) の
迎賓館として使用されている建物で、明治37年 ( 1904 ) に落成した。
翌年、軍艦千代田艦長の東伏見宮仁親王が宿泊した際に
「 風光景勝を占める 」 という意味で占勝閣と命名したものである。

建物は123帖の2階建てで、1階が食堂、応接室、書斎などがある。
2階には寝室、ホールなどがあり、ほかに厨房のある地下室が設けられている。
調度類は当時の最高級英国製品を輸入し揃えたという。

この建物の玄関には、中国建国の父といわれる孫文が
大正2年 ( 1913 ) 来崎の折に書いたとされる
「 占勝閣 」 の額が飾られているが、現在非公開となっている。




北九州市八幡東区 「 官営八幡製鐵所 ・ 旧本事務所 」

2015-07-30 01:11:41 | 世界遺産
































































今年世界遺産になった官営八幡製鐵所の旧本事務所は、
1899(明治32)年、八幡製鐵所の創業2年前に建設された建物で、
長官室、顧問技師室、技監室、主計室などがあり、
製鐵所の中枢の事務所である。

赤煉瓦組積造の2階建で、延床面積1,023m²、桁行(建物の長さ)33m、
スパン(建物の短手方向長さ)15m、軒高10.38mとなっている。
中央にドームを持つ左右対称の意匠で、和瓦葺、洋小屋組(クイーンポストトラス)、
イギリス式のレンガ積となっている。

設計建設は製鐵所が行っており、
1922(大正11)年まで本事務所として使用されていたが、
新しい本事務所の完成以後は、
研究所 ( 世界でも極めて早い時期に設立された鉄鋼の研究所 ) であった。

現在この建物は稼働中の製鐵所の敷地内にあることや
老朽化により立ち入りが制限されているため、
見学は特別に設置された展望スペースからの遠望となる。