「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

広島県廿日市市  ・  安芸の宮島 「 厳島神社 」

2012-11-30 00:06:27 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



安芸の宮島 「 厳島神社 」

































社殿入り口








入った左側にある 「 鏡の池 」









「 鏡の池 」


厳島八景の一
絶えず清水が湧いていて、ご創建時一夜にしてこの池ができたのは、
「 この造営がご神慮にかなったためである。 」 と、人々がたいそう喜んだといわれています。 
社殿東廻廊の海中にあります。(その他2カ所)潮が引くと丸い池が現れます。







廻廊







まっすぐに伸びた廻廊




東側廻廊は47間[ま](柱と柱の間で、1間は約2.4m)、入口は切妻造りで、
屋根は檜皮葺[ひわだぶき]で、棟には棟瓦が載せてあります。
西廻廊は、61間あり、西の端(出口)は、唐破風造り[からはふづくり]になっています。
昔は、西側が入口であったことがうかがえます。
東西併せて108間約262mあり、1間・1間に釣灯籠が下げられています

床板は、1間に8枚敷いてあり、釘は使っていません。
板と板の間は少し開いており、
潮が高い時や台風時に波のエネルギ-を減免・消波する構造になっていて
建物を守る工夫が行われています。(スリット構造)
この床板には釘が使われていません。
また、床は二枚重になっていて、本来の床板は下にあるほうで、
上に敷いてあるのは養生板(ようじょういた)といい、
参拝者が土足で歩いても良いようになっています。
これは近年になって施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していました。
廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製[ちゅうてつせい]のものを寄進したのが始まりといわれています。
現在のものは、大正時代に奉納されたもので青銅製です。
















「 反 橋 」


別称:勅使橋[ちょくしばし]・たいこばし
長さ21m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り鎌倉期に既にあったが、
現在のものは弘治3年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたものです。

別名、勅使橋ともいい天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることができました。
中央に階段を設けて渡ったものと思われます。













能舞台







能舞台

永禄11年(1568)毛利氏は、観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に設けさせ、能を奉納しました。
現在の建物は、延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により造営されたもので、
天神社と同じく、建造時期が下がりますので、丹塗りはしていません。

特徴は、日本で唯一海中に建てられている。切り妻造りであり、笛柱が独立している。
海中にあるため、通常床下に共鳴のために置かれている甕が無いことです。
代わりに、床下の根太が三角形で、その上に床板を張り、大きく響くように工夫されています。
毎年4月16日から3日間桃花祭神能が行われ、
初日と2日目には、初めに翁が舞われ、3日間とも五番立で、間に狂言が入り、
江戸時代からの本式な演能を観ることができます。
平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材をできるだけ使用し、平成6年に再建されました。











本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、
奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。
主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、
8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。
また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、
箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。













































笠木の下に月がある


























厳島神社の造りは、寝殿造桧皮葺[しんでんづくりひわだぶき] で、
御祭神は、 天照大神[あまてらすのおおかみ]の娘である宗像[むなかた]三女神
市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]、田心姫命[たごりひめのみこと]、
湍津姫命[たきつひめのみこと] を御祭りしている。


推古天皇元年(593)、佐伯鞍職[さえきくらもと]によりご創建と伝えられています。
説は、色々ありますが、「いつき島にまつれる神」という意味から、
「伊都伎島[いつきしま]大明神」、「厳嶋神社」等呼称され、
現在は、「嚴島神社」となっています。
原始宗教のなごりで、島全体が神の島として崇められていましたので、
陸地では畏れ多いと海中に社が建てられました。

平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の氏神として尊崇し、
平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇する度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました。
都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇、建礼門院を始めとする皇族や貴族が訪れたので、
都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたものです。

社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、
清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。

国宝・重要文化財の建造物は20基・美術工芸54点等261点。
東廻廊45間、西廻廊62間。本社の他に客神社・朝座屋・祓殿・高舞台・平舞台・左右門客神社、
火焼前・大国神社・天神社・能舞台・反橋・長橋・揚水橋・内侍橋の建物構造群からなっています。 
東廻廊入口は切り妻造り、西廻廊入口は唐破風[からはふ]造りで、
廻廊幅は約4m・長さ262m(108間)・柱間約2.4m(8尺)・一間に8枚の床板が敷かれています。
床板の隙間は、高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、
また廻廊に上がった海水を流す役目をします。
床板は、現在養生板が敷いてあり、
本来国宝の一部である床板の上に敷いてあるところから土足で歩くことができます。




栗毛列伝 ⑥  ダイナシュート

2012-11-30 00:04:19 | 競馬・ボート






「 七夕賞 」  ダイナシュート



鮮烈なデビューから
あっという間の三連勝
ビロードのようにテカテカと
栗色に輝いた馬体から
スラリと伸びた長い脚
燃えるような真紅のメンコが
なんとも似合う
いいとこ育ちのお嬢さん
そんな彼女の
約三年ぶりの栄光は
彦星に逢うような
願いを叶えた七夕賞




ダイナシュート
父 ノーザンテースト
母 シャダイマイン



沖縄県那覇市  ・  那覇の夜 「 国際通り 」

2012-11-30 00:02:42 | 沖縄



那覇の夜「 国際通り 」






























































そろそろウチナータイマーが切れるころである。
三線が流れる居酒屋でシマー ( 泡盛 ) を飲みたいものであるわけさ~



宮崎県高千穂町  ・  高千穂峡 『 真名井の滝 』

2012-11-29 00:06:01 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



高千穂峡 「 真名井の滝 」





























真名井 ( まない ) の滝は、テレビや雑誌などでよく紹介される “ あの場所 ” である。
高千穂峡といえば、 「 真名井の滝 」 を思い浮かべる方も多いだろう。
名前を知らなくても、あの割れた岩場から流れ出す滝と渓谷を見ると、
「 高千穂やろ? 」 って言うくらい有名である。

真名井は天照大神 ( あまてらすおおみかみ ) が
須佐之男命 ( すさのおのみこと ) の悪い心のない証拠をあかすため、
お互いの付けている十拳 ( とつか ) の剣 ( つるぎ ) や
八尺 ( やさか ) の曲玉 ( まがたま ) の飾りなどを
真名井の清水 ( 井戸 ) で洗ってかみ砕き、
その霧を吹き出すと神様が次々と生まれたと伝わる伝説の井戸 ( 清水 ) である。




琉球泡盛・甕貯蔵5年古酒 「 おもろ 」

2012-11-29 00:03:43 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒














首里崎山町にある瑞泉酒造の 「 おもろ 」。
これはアルコール度数41度の5年熟成古酒である。
口に含むといかにも “ 泡盛 ” っていうコクが広がる。
720mmで3000円だが、その価値がある泡盛である。
今度は21年物を飲んでみたいと思っている。





日向夏 「 半生キャラメル 」

2012-11-29 00:01:58 | パン ・ ケーキ ・ お菓子







以前、熊本県玉名市にある横島イチゴを使った
イチゴの生キャラメルを買ったことがあるが、
それの “ 日向夏 ” 版である。
口に含むとトロ~リと溶けて、
その後、日向夏の風味が口いっぱいに広がる。

「 さわやかロマン、中津競馬 」 じゃないけれど、
ちょっぴり甘くて爽やかである。








北九州市門司区  「 和布刈 ( めかり ) から関門海峡を望む 」

2012-11-28 00:07:53 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



和布刈から関門海峡を望む









対岸の山口県下関市 ( 海峡ゆめタワー ) などを望む









眼下に見える門司港レトロ地区








関門橋を走る













関門海峡に来る度に何故か?伊集院 静の小説 「 海峡 」 を思い浮かべる。


関門海峡を挟んで、北九州市の門司側を和布刈 ( めかり ) といい、
対岸の下関側を壇ノ浦 ( だんのうら ) という。
この写真や動画は北九州市の和布刈側から撮ったものである。

関門海峡(かんもんかいきょう)は、
本州の下関市(山口県)と九州の北九州市(福岡県)を隔てる海峡。
名称は両岸の地名である、馬関(現 下関市)の「関=カン」と、
門司(現 北九州市門司区)の「門=もん」を取ったものであるが、
難関という意味の関門ではない。
旧名は馬関海峡(ばかんかいきょう)で、最深部は水深47m。

本州と九州を隔てる水路を大瀬戸(おおせと)といい、
彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸(こせと)または小門海峡(おど)という。
大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦と和布刈の間は早鞆の瀬戸(はやとものせと)という。

一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。
なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で
門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に抜けるルートが
関門航路=関門海峡との認識である。




佐賀県神埼市  「 仁比山神社 ( にいやま じんじゃ ) 」

2012-11-28 00:04:07 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



仁比山神社
















鴨居には山王の使いの猿が飾られている






















大クスの横にある鳥居







仁比山神社の横にある酒の神さま 「 松尾宮 」















神水のそばにある猿












































栂の木の横にある 「 月夜見命 」


『日本書紀』神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、
天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、
続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊を生み、
右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊を生んでいる。

支配領域については、天照大神と並んで天を治めよと指示された話が幾つかある一方で、
「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もあり、
複数の三神生誕の話が並列している。

『書紀』第五段第十一の一書では、天照大神と月夜見尊がともに天を治めるよう命じられたが、
のちに天上で天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って
保食神のもとに赴く。
そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、
保食神を剣で撃ち殺してしまったという神話がある。
保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。
天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、
それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。
これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。

しかし、『古事記』では同じようにして食物の神(大気都比売神・おほげつひめ)を殺すのは
須佐之男命の役目である(日本神話における食物起源神話も参照のこと)。
この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、
もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。

ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代
(神代から人代に移行した後)にもまた現れる。
『書紀』巻十五の顕宗紀には、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑いて、
「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、
その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、
壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。
これが山背国の月読神社の由来であり、宣託された壱岐にも月読神社が存在し、
山背国の月読神社の元宮と言われている。


















仁比山神社は、天平元年(729)に、
僧行基が京都松尾明神の分霊を安置したことに始まるといわれ、
山の神・農業の神として祭られている。
現在では「山王さん」の名で親しまれ、仁王門には仁王像がある。
12年に一度の申年に「御田舞」(県重要無形民俗文化財)が奉納されている。


仁比山神社および九年庵へのアクセス
国道34号線の神埼市役所前から左折して三瀬への県道21号線へ入る。
長崎自動車道の下をくぐって、しばらく行くと仁王門の前に着く。
高速道の東脊振ICからは、「飯町」交差点まで戻って入るが、
九年庵の公開の時期は渋滞するので、その時期を避けるか、
その時期を希望するのであれば、午前7時半までに駐車場に入れば
スムーズに行けると思います。( あくまでも予測です。 )




栗毛列伝 ⑤  アリーナオー

2012-11-28 00:01:57 | 競馬・ボート













「 傷だらけのお遍路 」  アリーナオー



かつて京都記念を勝った勢いもなく
弾けるような影もない
今は優駿不毛の地の四国で
ノンビリとその余生を送っている
讃岐富士の裾野の乗馬クラブで
傷ついた左前脚をかばいながら
好きな時に好きなように散歩する
菜の花やレンゲ草が季節を報せる

アリーナオーよ
もう どこにも行くこともあるまい
お前は十分すぎるくらい走ったのだから





アリーナオー
父 プルバン
母 ゼットスター




宮崎県高千穂町  ・  高千穂峡 「 おのころ池 」

2012-11-28 00:00:31 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣






















おのころ島は、イザナキとイザナミが持つ 「 天の沼矛 」 の先から
したたり落ちたしずくが固まってできたと伝えられる島で、
二神が結婚式を挙げたところとも言われています。

昔この 「 おのころ池 」 には神社があり、
鵜の鳥はこの神社に仕える神聖な鳥であったと伝えられています。
高千穂神社の春祭では御神幸のおみこしがこの池を三度回って禊ぎをされます。
又この池は真名井の滝に注いでいる。




広島県廿日市市宮島  「 宮島へ渡る。 」

2012-11-27 00:12:15 | 離島めぐり





























日曜日に宮島と岩国の錦帯橋に行って来た。

錦帯橋はともかく、毎度の事ながら島へ渡るとワクワクする。
電車や車で行けないからこそ、島の魅力を感じるのである。
その島が小さい大きいに関わらず、
「 そこに島があるけん行ってみたか! 」 。
ただ、それだけのことである。





大分県山国町  ・  献体解剖を申し出た 「 山本登久 」 の墓

2012-11-27 00:10:49 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )














大分県の山国町から福岡県の添田町の英彦山に通じる国道496号線沿いに
献体解剖に申し出た山本登久の看板がある。


山本登久の墓

ここより少し下りた所に山本家の墓地があり、
その一番奥が山本登久の墓である。
登久は小屋川村の山本佐平の妻であり、47歳で死去。
上腹部の腫瘍におかされ、生きるのぞみもないことから
「 私が死んだら私の体を解剖して医術の進歩に役立ててほしい 」 と、
熊谷静雄医師に申し出たため、明治19年5月12日県庁の許可を得て、
熊谷静雄、山永得二、両医師が死後翌日に解剖した。
記録は峰 貢、三好玄次、清田保弘が担当し、
解剖には9時間を要したと墓に記されている。

中津で初の献体解剖が明治22年であることから、
九州では最も早い時期の献体解剖であっただろうといわれている。
山あいの地、山国にあって献体を申し出た登久の志は素晴らしいものであり、
現在に伝える話として私たちの胸を打つばかりである。

               山国町教育委員会



こんな山奥で暮らしながら、医学の発展のために献体した女性が居ること自体が驚きであった。
尽くした亡骸も魂も故郷山国の地で静かに眠っている。
僕ら後世に残る者は、登久の気持ちを埋もれさせてはならないと思っている。



「 宗 政 」 飲みくらべ

2012-11-27 00:05:55 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒
































有田で買って帰った「のみくらべ」を牡蠣を肴に飲んだ。
どれも一合瓶 ( 180mm ) なので、あっという間に無くなってしまった。
最初は、ひと口ひと口味わって、まろやかさや軽さなどを感じながら飲んでいたが、
2本目、3本目になると、どれがどうだったか解らなくなってしまった。
というよりも、いちいち覚えるのが面倒臭くなって
「 どげんでんよか! 」 って気持ちになった。
日本酒は嫌いじゃないけれど、やっぱ基本は泡盛 ( 焼酎 ) やね。




我が家の 「 モミジの小路 」

2012-11-27 00:03:42 | 日記 ・ イベント







夕べからの雨で我が家のモミジが散っていた。
その名残りが通路に敷き詰められた。

足の裏の感覚が、それを感じた。
かつて筵が敷かれた後を歩くような
足の裏だけが知っている感覚に・・・





バッタの変身、へんし~ん。

2012-11-27 00:02:10 | 花・鳥・虫・魚・猫





















今日、庭でムサシと遊んでいると、
バッタが玄関の柱に止まっていた。
面から出ていたので気付いたが、
これが凹凸のある木などだったら、
おそらく気付かなかっただろう。

「 上手く同化したぞ! 」 と、
季節外れのバッタは思っているかも?知れないな。

変身は、ともかく、
これからの寒さに耐えれるかどうか、
ボクはそれが心配だった。
一日でも長く生きて欲しいが、
一日でも長く苦しい思いをさせるのはつらい。

生きるも地獄、死ぬのも地獄なのか?
死んだら次の世界で生まれ変わるのだったら、
地獄ではないかも知れないな。
だとしたら、バッタも怖くないかも?