「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県名護市部瀬名  「 ブセナ海中公園 」

2015-06-30 00:03:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々



また、青い海に癒されたい・・・











































海の中が見ることが出来る 「 海中展望塔 」












    青い空と

    青い海

    境界線なんて

    要らない

    すべてが

    青の世界に抱かれる・・・


      O KI NA WA





大分県耶馬溪町 ・ ふたたびの 「 豆岳珈琲 」

2015-06-30 00:02:41 | グルメ

























ゆったり・のんびり、愛犬 「 餅 ( もち ) 」






豆岳珈琲に通じる山道







買って帰った 「 うりぼうブレンド 」





今月、ここを訪れるのは二度目である。
前回ここに来た時に飲んだコーヒーが忘れられずに
また、やって来た。

そんな美味しいコーヒーを東京の友人に飲んでもらおうと、
送りに来たわけである。

その豆岳珈琲で、思わぬ出来事というか、
思わぬ人に出会ったのである。

そう、競輪選手時代の後輩に、
この豆岳珈琲でバッタリ出会ったのである。

店に入ってきた瞬間、 「 あれ? 」 って思って、
「 モリトモ? 」 って声をかけたら、一瞬驚いた顔をして
「 〇〇◯さんですか? 」 って返って来た。
そう、彼は61期の森 友明である。

「 へ~ぇ、こんなところで会うと思わんやったね 」 って言うと、
「 ここに来るまで道がわからんで大変やったんですよ。
なのに、こんなところで会うとは思わんやったですね。 」って、返って来た。

お互い引退して何年もなるのに、こんなこともあるもんだと思った。
彼が小倉競輪を優勝した時、ちょうど広島競輪に参加していたボクが
朝の新聞でそのことを知った時に、 「 モリトモが優勝しとるぞ! 」 って言うと、
それまでシーンと寝静まっていた同じ部屋の由川丈ちゃんが
いきなりカーテンをシャーッと開けて、
「 ウソやろ! 」 って、驚いて起きたエピソードを話すと、
彼もそのことをよく覚えていて、「 後で聞きました。 」 って笑って答えた。

そういえば、先日もメタセの杜で後輩の長崎晴二にバッタリ会った。
西鉄バスの運転手の研修で来ていたもので、
「 おい!長崎! 」 って言うと、
やはり彼も驚いたように 「 〇〇◯さんやないですか! 」 って言った。
研修中の彼は、忙しそうだったので、立ち話で別れたが、
お互い話す時は選手の顔になり、
それは、もう一度、多くのファンの前でバンクを疾走したい・・・
そう思う瞬間でもあった。

あまりの緊張でゲロが出そうになり、そのプレッシャーから逃げ出したくなる。
それなのにその緊張感が無性に恋しくなる時がある。



山形の 「サクランボ ( 佐藤錦 ) が届いた」

2015-06-30 00:01:41 | 日記 ・ イベント






































我が家で採れたてサクランボ







ちょっと取っただけでバケツ一杯







たわわに実ったサクランボ





毎年、この時季になると山形からサクランボが送られて来る。
送り主は、先日も蒟蒻で紹介した東京のこんにゃく屋さんである。
なんでもサクランボの木のオーナーで、
お付き合いのある方に送っているという。

送られて来たサクランボは、さっそく仏壇と神棚にお供えした後に頂いたが、
いつもながら気にかけて頂いて嬉しいものである。





大分県日出町大神 ・ 人間魚雷 「 回 天 」

2015-06-29 00:02:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣





























































































大分県日出町大神は、かつて特攻兵器の訓練基地があった場所である。
その場所に人間魚雷 「 回 天 」 のレプリカが展示されている。

人間魚雷「回天」は太平洋戦争末期日本の敗戦が濃くなる中、
海軍によって考案され、昭和19年 ( 1944 ) に
山口県の大津島に最初に回天基地が設けられた。
戦局の悪化とともに回天は決戦兵器としての役割が期待され、
乗員の確保が急務となった。
そのような状況下で、昭和20年 ( 1945 ) に大神訓練基地が造られ、
4月25日に「大神突撃隊」が開隊しました。

大神基地で訓練された搭乗員や整備員は、
8月3日に愛媛県西海町に第21突撃隊第11回天隊として配備されが、
出撃することなく8月15日に終戦を迎え解隊した。


「 回天 」 という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が、
幕末期の軍艦 「 回天丸 」 から取って命名したものである。
開発に携わった黒木博司中尉は 「 天を回らし戦局を逆転させる 」 という意味で
「 回天 」 という言葉を使っていたとも言われている。

また、秘密保持のため付けられた〇六 ( マルロク ) 、的 ( てき ) との別称もある。

1944年7月に2機の試作機が完成し、同年8月1日に正式採用され、
11月8日に初めて実戦に投入された。
終戦までに420機が生産された。

回天は超大型魚雷 「 九三式三型魚雷 ( 酸素魚雷 ) 」 を転用し、特攻兵器としたものである。
九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、
時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。

回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、
魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク ( 酸素 ) の間に一人乗りのスペースを設け、
簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。
炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は時速55km/hで23キロメートルの航続力があった。
ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、
一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。

よって、決して生きて帰って来ることのない 「 三途の川渡し 」 であった。



沖縄県今帰仁村  「 津屋口墓 ・ 通称 ( アカン墓 ) 」

2015-06-29 00:01:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県今帰仁村 「 津屋口墓 」













沖縄では一般に亀甲墓は女性の性器を表したとされ、
死して生まれた場所に戻る。

いわゆる生を受けた場所に戻ることを意味し、形どったと言われている。
そんな入り口である膣に蓋がされている墓は今まであまり見たことがない。

今帰仁村今泊集落に 「 アカン ( 開かん ) 墓 」 と呼ばれる墓がある。
その墓には入り口がなく、塗り込められているので、別名でこう呼ばれている。
正確には 「 津屋口墓 」 、ウチナーグチで 「 ちぇーぐち墓 」 とも言う。

おそらく流行病か、悪霊を防ぐために入り口を塗り固めたと思われるが、
この事についてはあくまでも私感なので、参考にしないでいただきたい。

アカン ( 開かん ) 墓に葬られているのは、
今帰仁監守三世の 「 和賢 」 ( わけん ) である。
墓庭には1678年に建立された 「 墳墓記 」 と記された墓碑がある。

今帰仁監守とは、首里王府から派遣された今帰仁城の管理人で、
一世は首里の玉陵 ( たまうどぅん ) に、
二世と四世から七世までは以前、ブログでも紹介した
運天港近くの大北墓 ( うーにしばか ) に葬られている。

なぜ、三世だけが今泊の津屋口墓に葬られているのだろうか?
しかも墓口は閉じられており、
一人だけ村はずれに葬られたとは、悲しいものである。



大分県中津市耶馬溪町 「 耶馬溪へ・・・ 」

2015-06-29 00:00:41 | 探訪 ・ ドライブ




















ホントは 「 土曜日に 」 と思ったが、
土曜は雨が心配されたので、
昨日、天気が良かったので耶馬溪に行った。

どうしても行きたい場所もあったので・・・

それで昨日は、いろんな場所に行った。
そのへんは随時アップして行きたいと思っているのでお楽しみに・・・





沖縄県北谷町美浜 「 サンセットビーチの夕陽 」

2015-06-28 02:03:41 | 沖縄



東シナ海に沈む夕陽







美浜・サンセットビーチ





東シナ海に

沈む夕陽をみて

人はなにを思う・・・







沖縄県本部町 「 瀬底大橋の下を通る 」

2015-06-28 01:00:41 | 沖縄の橋










































「 瀬底大橋 」 は沖縄本島中部の本部町にある橋である。
この橋は沖縄本島と、かつて離島だった瀬底島を結ぶ橋で、
開通したのは1985年、橋の長さは762mの橋である。

渡った先にある瀬底島には沖縄本島では随一と言われる
美しさで有名な 「 瀬底ビーチ 」 があり、
ここを目指す人ならば当然この橋を渡らなければならない。

しかし、那覇方面から 「 沖縄美ら海水族館 」 を目指す人にとっては
瀬底大橋をかすめて走っているはずです。
普通ならカーナビが案内するルート上にこの瀬底大橋があるのだが、
お手軽に絶景が見られるのに、何も知らずに通過してしまっている人も多いかと思います。
ここはちょっと寄り道してみましょう!


この橋の上から見る海が本当に綺麗なのです。
初めての沖縄旅行の方ならきっと感動すること間違いなし!!
車を停めるのならば、瀬底島へ渡ったすぐ左手に無料の駐車場があります。
その駐車場も十分眺めのいいポイントですが、
せっかくなので瀬底大橋の上から青い海を眺めてみましょう!
眼下に広がる沖縄ブルーの海。
この爽快感、たまらないですよ!

橋の長さは特筆すべきものではないのですが、
海面からの高さが25mもある橋なのです。
ビルにしたら7~8階建てくらいの高さがあるでしょうか?
当然高い所に登れば景色が良くなるということは間違いなしである。



沖縄慰霊の日 ・ 平和の詩 「 みるく世がやゆら ( 平和でしょうか ) 」

2015-06-27 03:00:41 | 沖縄



我が物顔でオスプレイが駐機する普天間基地





「 みるく世 ( ゆ ) がやゆら 」    知念 捷



みるく世がやゆら

平和を願った 古(いにしえ)の琉球人が詠んだ琉歌(りゅうか)が 私へ訴える

「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世ややがて 嘆(なじ)くなよ臣下(しんか) 命(ぬち)ど宝」


七〇年前のあの日と同じように

今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終りを告げる

七〇年目の慰霊の日

大地の恵みを受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を

夏至南風(かーちーべー)の 湿った潮風が吹き抜ける

せみの声は微かに 風の中へと消えてゆく

クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます

みるく世がやゆら

「今は平和でしょうか」と 私は風に問う

花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉

戦後七〇年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた 祖父の姉

九十才を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥する

一九四五年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った

一人 妻と乳飲み子を残し 二十二才の若い死

南部の戦跡へと 礎(いしじ)へと

夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探しまわった

彼女のもとには 戦死を報せる紙一枚

亀甲墓に納められた骨壺には 彼女が拾った小さな石

戦後七〇年を前にして 彼女は認知症を患った

愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を

すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして 彼女は歌う

愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように

あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと

軍人節の歌に込め 何十回 何百回と

次第に途切れ途切れになる 彼女の歌声

無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消してゆく

七〇年の時を経て 彼女の哀しみが 刻まれた頬を涙がつたう

蒼天に飛び立つ鳩を 平和の象徴というのなら

彼女が戦争の惨めさと 戦争の風化の現状を 私へ物語る

みるく世がやゆら

彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が

刻まれた礎に 私は問う

みるく世がやゆら

頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい

六月二十三日の世界に 私は問う

みるく世がやゆら

戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う

気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい

しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを

伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを

みるく世がやゆら

せみよ 大きく鳴け 思うがままに

クワディーサーよ 大きく育て 燦燦(さんさん)と注ぐ光を浴びて

古のあの琉歌(うた)よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ

今が平和で これからも平和であり続けるために

みるく世がやゆら

潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心に留める

みるく世の素晴らしさを 未来へと繋ぐ



以上が、平和の詩 「 みるく世がやゆら 」 の全文である。


沖縄全戦没者追悼式での沖縄県立与勝高校3年の知念 捷くんの朗読で、
読み始めの琉歌でいきなり心を鷲掴みにされた。
一語一句、聞き逃さないように聞いているうちに
その情景が浮かび上がり涙が出た。

その根源になったのは、朗読に向かう彼の姿と、
とつとつと語る 「 沖縄言葉 」 である。
クワディーサーの言葉に何故か?吉屋チルーの琉歌が浮かんだ。
そんな知念くんの朗読だった。


※ 「 クワディーサー 」 は沖縄の方言名で、
標準和名はモモタマナ 別名 コバテイシともいう。
 シクンシ科
学名:Terminalia catappa L.

 西表では“ クバディサー ” って書いてあったような気がする。
 地域によって呼び方は変わると思います。

 沖縄ではよく目にする木で、
 大きな木陰ができるから?
人の集まる場所にはよく植えてある。



沖縄県那覇市首里崎山町 ・ 琉球泡盛 「 おもろ 」

2015-06-27 02:11:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







首里崎山町の瑞泉酒造が造る 「 おもろ 」 。

その「 おもろ 」 とは…古の琉球 ( 沖縄 ) に伝わる歌謡のことで、
思い、願い、憧れなどを神秘的な言葉で表現した詩である。
それをまとめたのが、 「 おもろさうし ( 冊子 ) 」 と呼ばれている。
12~17世紀初めに謡われたといわれている。


写真の泡盛は、本格カメ貯蔵の10年古酒 ( クース ) であるが、
その深いコクと香り、
口の中に広がるまろやかな味わいは絶品である。

43度の古酒 ( クース ) は嗜んで飲みたい泡盛である。

この 「 おもろ 」 を飲んで


第一尚氏の琉球を想い
アメリカの統治下の琉球を憂い
これからの琉球を愛す






沖縄県那覇市首里赤平町 「 蔡温旧宅跡 」

2015-06-26 00:02:41 | 沖縄



























写真は、琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡である。
 
蔡温は1682年に久米村 ( クニンダ ) ( 現那覇市久米 ) で生まれた。
沖縄名は具志頭親方文若 ( ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく ) といい、
蔡温は中国名であり、 「 澹園 ( たんえん ) 」 と号した。
蔡温の祖は、1392年に琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。
 
蔡温は1708年に通事 ( つうじ ) として中国に渡り、そこで儒学などを学んだ。
帰国後の1713年に、13歳で即位した尚敬王の 「 国師 」 ( 学問師匠 ) となったことから、
首里赤平村 ( しゅりあかひらむら ) に屋敷を賜った。
1728年に三司官(さんしかん)に就任し、1753年に辞任するまで25年間務めた。
この間、羽地大川の改修 ( 1735年 ) や地方の山林視察など、
自らが治水・治山を実践して、 「 山林真秘 ( さんりんしんぴ ) 」 などの実学書を残した。

また、蔡温は、儒教の教えをまとめた 『 御教条 ( ごきょうじょう ) 』 や
王国の政治経済についての提言書 『 独物語 ( ひとりものがたり ) 』 など
多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家であった。
1761年に享年80歳で死去した。

1792年に、尚敬王の王妃が、蔡温の長男の翼 ( よく ) に嫁ぐことになり、
改めて邸宅 ( 現在地 ) を賜った。
敷地は600坪余あり、屋敷には門が二つあったという。
沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出された。
戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、
蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣はわずかに残されている。


所在地 : 沖縄県那覇市首里赤平町1-45



沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 / 蔡温が手がけた 「 改決羽地碑記 」

2015-06-26 00:01:41 | 沖縄の文化財







改決羽地川碑記
The Moument of Kaiketsu Haneji River

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 44 ( 1969 ) 年8月26日 
Designaed Date : August 26,1969
所在地 : 沖縄県名護市字田井等
Location : Taira,Nago-shi,Okinawa-ken



この石碑は1735年に行われた羽地大川の改修を記念して建てられたものである。
改修工事は当時の三司官 ( 大臣 ) の具志頭親方蔡温の指導で行われ、
工事は周辺の村々から延べ10万人を動員して3ヶ月間かかったといわれている。
この改修によって羽地大川は田井等や振慶名の南を流れて呉我の海に注ぐようになった。
現在、羽地大川は1917年 ( 大正6 ) ~1938年 ( 昭和13 ) の改修によって
仲尾次の海へ注ぐようになっている。
最初は石碑が壊れてしまったので、1830年 ( 道光 ) に建て直したと記されていたが、
表面がすり減って文字はほとんど読める状態ではなくなっている。



This stone monument was dedicated to the repair of Haneji Okawa in 1735.
The repair was guided by the then minister,Gushicyan Oyakata Sai-On.
It is said that the repair took three months with 100 thousand residents
from surrounding villages.
On the monument, it was written that it was rebuilt due to the damage
on the original one, but the letters are unreadable.



沖縄県那覇市首里大名町 「 蔡温の墓 」

2015-06-26 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



第二尚氏・三司官 「 蔡温の墓 」











ゆいレールの市立病院前で降りて、正面の末吉公園を抜けて末吉宮へ向かって行き、
末吉宮が南向きの斜面だとすると、その裏側に蔡温の墓がある。
蔡温 ( 1682年~1762年 ) の墓は沢岻の広陵向け、浦添城向けに造られており、
蔡温は1716年に末吉の地頭、1719年に末吉親方となっているから、
末吉近在に墓があってもおかしくないとはいえる。

蔡温は、琉球王国の政治家であり、具志頭親方文若。
蔡氏具志頭殿内の小祖(蔡氏志多伯家十一世)。久米三十六姓の出身である。
第二尚氏13代王・尚 敬王に40年間にわたって仕え、第二黄金時代を築いた。
三司官に任ぜられ、羽地大川の河川工事や山林の保護に尽心竭力し、
琉球の農業の発展に貢献した。
「 御教条 」 など多くの本を書き残した。
平敷屋友寄事件で、平敷屋朝敏、友寄安乗を安謝の海岸で処刑したのも蔡温である。

蔡温の墓は浦添に向かう宿道からみれば、
南の坂 ( フェーヌフィラ ) から左手 ( 西 ) 方向となる。
平良、大名、末吉、石嶺は現在那覇市首里の町名となっているが、
近世では西原間切の村である。

今ではあまり訪れる人もいないのか?
地元の人でも、その墓所を知らず、
木立の間をひっそりと佇んでいるようであった。
ただ、墓は近年造り替えられたようで、思ったよりも新しく、
琉球王朝時代を偲ばせるものは感じなかった。



山口県下関市 「 長門伊瀬灯台 」

2015-06-25 11:41:41 | 山口の灯台























灯台表番号 / 714
ふりがな / ながといせとうだい
標識名称 / 長門伊瀬灯台
所在地 / 山口県下関市 ( 伊瀬 )
北緯 / 34-21-43.2
東経 / 130-53-30.4
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度560カンデラ
光達距離 / 8.0
地上~頂部の高さ / 13.69m
平均水面上~灯火の高さ / 18.17m 
地上~灯火の高さ / 13m
業務開始年月日 / 昭和45年3月26日
現用灯器 / LD管制器 Ⅱ型



馬の詩より ・ 「 コトバのなかで・・・ 」

2015-06-25 08:41:41 | 馬の詩 ・ それぞれ...

「 コトバのなかで・・・ 」



どんなに優しいコトバを並べても
馬の眼の優しさには程遠い

どんなに強いコトバを並べても
馬の強さについて行けない

どんなに美しいコトバでも
馬の美しさに圧倒され

どんなに素敵なコトバでも
馬の素晴らしさを表せない

どれだけのコトバを並べたら
君を表現できるのか

たとえ速さというコトバを用いても