遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 247 新宿物語(4) ナイフ 他 時間

2019-06-16 13:46:08 | 日記

          時間(2019.6.3日作)

 

   待つ時間は長い

   保ちたい時間は短い

   歳と共に時間は速く過ぎて逝く

   その感覚

   大きくなったら

   あれもしたい これもしたい

   大人になるのを待つ時間

   子供の時間は過ぎる速度が

   遅い

   見晴らしの良い峠を脳裡に

   苦難の道を歩くのにも似た時間

   だが

   峠を登り切り

   人生全般を視界に収め得た時

   待つもの 期待するものは無くなり

   終わりの時間だけが見えて来る

   峠を下るのにも似た時間

   峠を下り切る時間を回避し

   "今"を保ちたい一日一日の時間は

   瞬く間に過ぎて逝く

 

 

          ----------

 (2) ナイフ

 

          2

 

 

 良次が少年院送りの処分を受けた直接の原因は、義父を刺した事にあった。母と義父と暮らすようになってから一年と少しののちだった。良次が十四歳の時だった。

 良次は今でも思い出す事が出来た。母より一つ年下で、当時、三十五歳だった義父は、明らかに良次を嫌っていた。

 母が義父と再婚したのは、三年前だった。その時、良次は養護施設にいた。良次の中学進学を迎えて母は、良次を引き取る決心をした。

 義父は郵便局に勤める、小心で神経質な男だった。池袋のキャバレーで働いていた母と知り合い、一緒に暮らすようになった。結婚の遅れた義父は、内縁関係とはいいながら、母との生活を大切にした。

 母にとっても、良次が八歳の時に離婚して以来の家庭生活を大事にしたいという思いが強かった。年齢的にもこれが最後かも知れないという気持ちが母を卑屈にした。良次はこれ程までに自分を嫌う義父が、なぜ母の申し出に賛成したのか、不思議に思った。

 良次は母の最初の離婚と共に、母方の祖父母の家に預けられ、以来、心の奥でいつも母の愛情を求め、飢えていた。

 祖父母の家は沼津にあった。離婚した母は東京の夜の世界で働き、十日に一度の割合で良次のいる祖父母の家へ戻って来た。

 良次は母が東京へ出て行く度に、別れが哀しくて幼い心を荒ませた。

 良次は次第に、年老いた祖父母の手には負えなくなっていた。母が東京へ行ったあと、二日も三日も黙ったまま、口を開こうともしなかった。祖父母が勧める食事にも手を付けないで、盗み食いをしたり、よその家のものに手を出したりしていた。                    

 九歳の時に空腹から、近所の店のアンパンを盗んで見つかった。その夜、祖父に厳しく咎められると良次は刃向かい、取り押さえようとした祖父の手に噛み付き、怪我をさせて家を飛び出した。

 二日目の夕方、空腹を抱えたまま、沼津駅のベンチにいる所を補導された。

 祖父母は良次の引取りを拒んだ。

 東京にいる母が呼び寄せられ、事情が伝えられた。

 母にはだが、東京での、馴れない夜の仕事をしながら、良次を養育してゆくだけの自信が持てなかった。自分が生きて行くだけで精一杯だった。

 良次は養護施設に入る事になった。

「ごめんね。お母ちゃん、きっと、近いうちに迎えに行くからね。それまで我慢していてね」

 母は良次を抱き締め、頬ずりしながら言った。

 良次はなぜか、母が憎めなかった。幼い心にも母が可哀想に思えて、そんな風に思う自分がまた、悲しくもあった。

 良次は養護施設でも心を閉ざしたまま、口を開かなかった。他人のものに手を付ける事だけはしなかったが、誰とも打ち解けなかった。ひたすら母の言葉を信じ、母が迎えに来る日を待っていた。

 良次を迎えに来た母から新しい父の事を聞かされた時には、よく事情が飲み込めなかった。

 その夜、初めて夕食の席で義父と向き合ってようやく理解した。

 母との新しい暮らしを前に、良次の心は冷えていた。自分のものとばかり思っていた母との間に障害物が入って来ていた。

 良次はその時も口を噤んだまま、一言も発しなかった。うつむき加減に頑なに黙っていた。

「良ちゃんの新しいお父さんだよ。ほら、挨拶して」

 母は懸命に取り成した。

 良次はだが、母に言われれば言われるほど、頑なに悲しみを募らせるかりだった。

 義父は気まずそうに、不機嫌な顔で良次を見つめた。

 

 

 良次は義父を憎んだ。義父は良次と母の間に割り込んで来た邪魔者だった。

「あんなひねくれ者じゃあ、こっちが参っちゃうよ」

 義父が事あるごとに母に不満をぶちまけるのを良次は知っていた。

 良次はそれでも義父に心を開く事はなかった。義父が良次を嫌えば嫌う程に義父を憎んだ。

「そんな事言わないでよ。そのうちにきっと、打ち解けるからさ。まだ、馴れないだけなのよ」

 母は義父の居丈高な言葉の前でいつもおろおろしていた。何かに付けて母が義父に気を使っている事が幼い良次にもはっきり分かった。

「良次はお義父さんにもっと素直にならなければ駄目よ。これからずっと、一緒に暮らしてゆくんだから」

 母は義父のいないところで良次を諭して言った。

 良次はそれでも、母を憎む事は出来なかった。母と自分に要らぬ苦しみをもたらして来る義父だけを憎んだ。

 母はキャバレー勤めを止めなかった。自分が働き、稼ぐ事で、良次を抱えた負い目を少しでも償おうとしているかのようだった。

 

 

 良次が義父を刺した時、母は良次の発熱で看病に明け暮れ、三日、キャバレーを休んだ。

 その夜、義父は酔って帰ると、

「今夜もまた、お休みか。おまえの一人息子だ、せいぜい大事にしてやれよ」

 と、厭味を言った。

 母は黙っていた。

「くそ面白くもない。何もかもが滅茶苦茶だ。俺もえらい荷物を背負い込んだもんだ」

 義父は畳の上に転がると言った。

「そんな意地の悪い事を言わないでよ。この子が病気なんだもの、仕方がないでしょう」

 母は半分泣きながら抗議した。

「俺には関係ないよ。おまえの息子なんだから、おまえ一人で面倒みろよ」

 義父はそう言うと、寝返りを打って背中を向けた。

 酔った義父はそのまま鼾をかいて寝入った。

 母は暫くは放心したように座り込んでいたが、気を取り直すと、

「あんた、あんた。こんな所に寝ていたら風邪を引くわよ」

 義父をゆり起こした。

「うるさいな。大きなお世話じゃねえか。風邪ならとっくに坊主に移されているよ」

 義父は乱暴に母を突き飛ばした。

 母はそれ以上、言わなかった。ただ、泣いていた。

 布団の中で薄目を開けて一部始終を見ていた良次は、その夜、母と義父が寝静まった頃合を見計らうと、台所へ行った。

 薄刃包丁を手にすると、寝静まっている義父に馬乗りになって、顔から喉元にかけて滅多切りにしていた。

 

 義父の傷は生命に係わるものではなかった。

 だが、七箇所に及ぶ切り傷は家庭裁判所に於ける良次の印象を一際、悪いものにしていた。義父の狡知にたけた申し立てで、良次は手に負えない家庭内暴力少年として少年院へ送られた。

 母が亡くなったのは、良次が少年院に入って十一ヶ月目の事であった。義父との不和によるアル中で、マンションの二階から転落死したのだった。

 葬儀の日、良次は少年院の係官の監視の下、母の遺骸を見送った。

 良次は泣きながら母を呼び続け、棺の傍を離れなかった。棺の中には母の生前の姿が鮮やかに、母への様々な記憶と共に息づいていた。

 

 

 

 

 

 

   

   


遺す言葉 246 新宿物語(4) ナイフ 他 雑感六題

2019-06-09 13:42:36 | 日記

          雑感六題(2019.5.16日作)

 

  1  知に囚われるな

     知に囚われれば 物事は

     ゆがんで見える

     無の心 無で見る眼には

     真実が宿る 実相が映る

  

  2  人は一人である

     人は一人であるが 人は

     一人では生きられない

     やがて 行き詰まる

 

  3  世界は わたしを離れて

     存在しない

     わたしが在って 世界がある

     世界が在って 

     わたしが在るのではない

     わたしの心に映るもの

     それが世界だ

 

  4  人間は皆 愚かで

     砕けた言い方をすれば

     バカだ 完璧な人間など

     誰もいない

     しかし 人間は誰もが

     あいつは バカだ と思っても

     自分は完璧ではないにしても

     バカな 人間だとは思わない

     あいつとは違う と思っている

 

  5  本能と理性の調和 

     バランスの取れた人間が

     最高の人格 人間だ

     本能のみの人間は卑しく

     理性のみの人間は

     鼻持ちならない 

     知性は本能と理性の上に生まれる

 

  6  人間が持つ

     美しい時間は ほんの一瞬だ

     あとは 

     その為の準備期間であり

     残務期間だ

     人間が持つ時間は

     労多くして 楽は少ない

 

 

          ----------

 

 

          新宿物語(4)

 

        ナイフ

 

         Ⅰ

 

「保護観察期間中に行いが悪ければ、また、少年院送りという事もありうるんだ。真面目にしっかりやらなければ駄目だぞ」

 良次は保護監察官の言葉を自分ではない、他人に向けられた言葉のように聞いた。心に響いて来るものが何もなかった。世の中のあらゆる事柄が良次には、自分には関係のない遠い何処かで、勝手に動いているという感覚があった。少年院に来た時にも良次は、自分が自分ではない、他人の人生を生きているような気がしていてならなかった。間もなく十八歳になろうという今日までの自分の人生が、奇妙な夢の中の出来事のように取り留めのないものに思えていた。今、自分はここに居る。だが、何故ここに居るのか、なんとはないどさくさ紛れのうちに、気が付いたらここに居たという感じだった。

「これが君を担当してくれる保護司の住所だ。ここを訪ねてゆけば住まいも仕事も紹介してくれるはずだ」

 まだ三十歳を過ぎて間もないと思われるような保護監察官は言った。

 

 保護司、藤木幸三の家は、中野の静かな住宅街にあった。

 大谷石の塀に、蔦が絡まる庭木が二階建ての家屋を隠すように広がった大きな屋敷だった。

 良次は保護監察官が書いてくれた地図を頼りにその家の前まで来たが、門前で足を止めた。暫くためらっていて、そのまま家の前を通り過ぎた。なんとなく、門の横に取り付けられたインターホーンを押す気になれなかった。

 暫くはそのまま歩き続けた。

 広い団地の前へ来ると足を止めた。

 振り返ると、ゆるやかな曲線を描いた道の遠くに藤木幸三の屋敷の塀が見えた。立ち止まったまま、その家を見続けていた。思い切って藤木幸三を訪ねる決心が付きかねた。

 " 保護司を訪ねる不良少年 "

 団地の中の広場で子供たちを遊ばせている主婦たちの眼が気になった。

 辺りに人影のないのを幸いに良次は暫くはそこで、主婦たちの動きを見続けていた。

 どれ程かの時間が過ぎていた。団地の広場から主婦と子供たちの姿が消えた。

 今だ ! と良次は思った。

 長い時間、何もせずに立っていた苦痛が良次を動かしていた。

 

 藤木幸三は五十七、八歳かと思われる大柄な、一見、町会議員か会社の役員でもあるかのような風貌を持っていた。

 立派な屋敷に住んでいる人物らしく、物腰にいかにも鷹揚な感じがあった。畏縮した心の良次にも " 別に気にする事はないよ " と語りかけているようなにこやかさで、自信に満ちていた。その態度に比例するようにまた、雄弁でもあった。良次の事は監察官から詳しく聞いている事、間もなく保護司になって二年の任期が切れるが、過去に五人の少年の更生に手を貸した事、更に保護司を続けるつもりでいる事などを得々として語った。

「明日、早速、君を雇ってくれる鉄工所を訪ねてみよう。そこもわたしの地所で、経営者の気心もよく知っているので、心配はいらないよ」

 藤木幸三はそう言ってから、

「過去はどうであれ、現在を真面目に生きてゆきさえすれば、世間の人は認めてくれる。君もそのつもりでしっかりやった方がいい。困った事があったら、なんでもわたしの所へ相談に来るんだ。遠慮はいらない」

 と穏やかに続けた。 

 良次が新しく住む事になった、藤木幸三が所有するアパートの一室は同じ中野区内にあった。

「一応ここには最低一ヶ月、君が生活してゆけるだけのものが揃っている。あとは真面目に働いて、君自身で日々の生計をたててゆくんだ。君を甘やかさない意味で、家賃もちゃんと貰う。分かったね」

 運転手付きのベンツで良次を案内した藤木幸三は諭すように言うと帰って行った。

 良次は藤木幸三が帰って行くのを見送ったあと、新しく住む事になった部屋の前まで来ると、力任せに入り口のドアを足蹴にした。

 これでは自分がまるで猿回しの猿だ、と思った。

 自分が世間の晒し者にされた気がした。なんで、運転手付きのベンツなんかで、こんなアパートに乗り込まなければならないんだ ! 俺がベンツなどの座席に座れるような人間てない事ぐらいは、誰が見ても分かるだろう ! ここの家主が保護司だって事も、ここに住む人間ならみんな知っているはずだ。だとすれば、俺が少年院帰りの不良少年だっていう事を世間に公表しているようなもんじゃないか !

 藤木幸三は翌日、再び、ベンツで現れた。

 その日、良次が藤木幸三に伴われて訪ねたのは、四谷の小さな町工場だった。

 社長と呼ばれる人物は痩せ型の五十歳前後の男で、薄茶の作業服に同色のNのマークの入った帽子を被っていた。

 社長は明らかに良次の受け入れに気の進まない様子だった。嫌々ながらに藤木幸三に付き合っているという雰囲気が見えた。

 三十分程、工場に隣接する事務所で過ごしたあと、良次は作業場を見学させられた。

 八人の中年行員が各々の持ち場で酸素溶接をしたり、グラインダーを使ったりしていた。

 狭い工場内の見学は十分とかからなかった。その間良次は、作業を見て廻る自分に向けられる厳しい行員たちの眼差しを感じ取っていた。

「早速、明日からでも厄介になりなさい」

 藤木幸三は見学の後、社長の前で良次に言った。

 藤木幸三は何も分かっていなかった !

 良次は思った。

 翌日、良次は 工場へは行かなかった。小奇麗に整ったアパートの部屋で、馴れない環境に苛々しながら、どうしたら此処から抜け出られるのかと考えていた。

 

                                     続く

 

 

          

 

 

          

 

        

     


遺す言葉 245小説 夢の中の青い女(完) 他 流れのままに

2019-06-02 15:34:41 | 日記

          流れのままに(2019.5.28日作)

 

   流れる川

   川は流れる

   流れる川 そのままに 人は

   流れ 流され 生きてゆく

   それでいい

   流れに逆らい 抗えば

   苦労が多い 角が立つ

   流れる川 流れのままに身を任せ

   流れのままに生きてゆく

   結果は楽だ 苦労がない

   苦労はないが 心はある

   心はそれぞれ 人が持つ

   人それぞれ各々が

   それぞれ独自に持つ心

   心を失くせば 自分はない

   自分は心 心は自分

   心が創る人間模様

   心が創る 人の型 自分の形

   自分の形は 心の証し

   流れる川に身を任せ

   それでも心は失くさない

   堅固に保つ自身の心

   流れる川も 荒海も

   自分の心底(しんてい) 奥底に

   心があれば乗り切れる

   流れる川の流れのままに

   流れ 流され 生きてゆく

   それでも心は失くさない

   心が創る人間模様 人の型

   自分の形

   根のない浮き草 流れ藻は

   心のないまま 流れてゆく

 

 

          ----------

 

 

          (10)

 

 大木は長い間、このバーに通っていたが、こんな所にドアがあるなどととは今まで知りもしなかった。

「こんな所にドアがあったの ?」

 驚いて聞いた。

「はい」

 女は微笑みを浮かべて答えた。

「あなたはここに住み込みなの ?」

 大木はよく理解出来なくて聞いた。

「いいえ、この奥にわたしの住まいがあるんです」

 女は相変わらず謎のような微笑みを浮かべたまま言った。

 女は開いたドアを支えて大木を先に通すと、自分も続いて部屋を出た。

 ドアを閉め、大木の先に立つと、そのままひどく暗い中を歩き出した。

 大木の眼には暗くて何も見えなかった。

 女はさすがに勝手知った場所らしく、迷いもせずに歩いて行った。

 間もなくすると女が立ち止まって、見えない所で鍵音をさせているのが聞こえた。それから、

「どうぞ」

 と言って、大木を振り返る様子が察しられた。

 大木は初めて会った見知らぬ女の部屋へ入ると、期待とも不安とも付かない心の昂ぶりに胸苦しさを覚えた。それでも、ここまで来てしまった以上、もう、後戻りも出来ないと思うと靴を脱いで座敷に上がった。

 大木の通されたのは居間らしかった。八畳程の広さの部屋に、灰色の落ち着いたソファーが置かれてあった。

 窓際にはいかにも若い女性の部屋らしく、テーブルの上一杯に羽根を広げた孔雀さながら、華やかにカスミ草の花が飾られていた。

 女はドアを閉め、鍵を掛けた。その音が何故か、大木の心に奇妙に不安な響きを残した。

「どうぞ、ソファーにお掛け下さい。馴れない霧の夜の中を歩いてお疲れになったでしょう」

 女は依然として、柔らかい謎に満ちたような微笑みを浮かべたまま言った。

 それからすぐに、

「ちょっと、失礼します」

 と言うと、部屋を出て次の間に入っていった。

 大木は見知らぬ女の馴染みのない部屋の中で落ち着かない心のままに、ソファーに腰を下ろした。

 女が来るまでのしばらくの間、大木は所在のないままに明るい電燈の下で初めて、霧に濡れた自分の服に眼を落とした。                                                

 上着の細い繊維の先に霧のしずくが小さな水玉を作って光っていた。

 爪の先で払うと指先が冷たく濡れた。

 ドアの横に大きな鏡が嵌め込まれてあるのに気付いて近付き、顔を映してみて大木はギョッとした。思わず、自分の背後に誰かいるのか、と振り返った。

 誰もいるはずがなかた。

 改めて大木は眼を凝らし、鏡の中に映った男の顔に眼をやった。

 紛れもなく、自分の顔が映っていた。まるで溺れた人のように、髪が額に張り付き、落ち窪んだ眼が異様に光っていた。

 顔色が血の気の失せたように蒼いのは、霧の中を彷徨い歩いた疲労の為だろうか ? あるいは、霧の中に混じっているという硫酸を吸い込んだせいなのだろうか ?

 大木は一度に湧き出るような疲労感を覚えるのと共に、捉えどころのない不安感を抱いたまま鏡の前を離れた。

 ソファーに戻ると体を投げ出すようにして腰を下ろした。たちまちうとうとして来るのを自覚した。甘く強烈に匂うのはカスミ草が放つ芳香なのだろうか ? 夢心地に誘われる思いだった。

 大木はハッとして我に返った。

 いけない、いけない、眠ってはいけない !

 なぜか知れず覚える警戒心にも似た気持ちと共に、懸命に自分に言い聞かせた。見知らぬ女の部屋だという意識のせいばかりではなかった。奇妙に緊迫した感覚が心の片隅にあって、それが無意識裡に大木の警戒心を誘っていた。

 睡魔はだが、そんな大木の警戒心にも係わらず、なおも強烈に分厚い重みとなって大木の上に覆い被さって来た。大木は次第に朧になる意識の中で、冬山での登山者の死を思った。

 遭難者は多分、こんな感覚で意識が薄れてゆくのに違いない。

 大木は今、自分が全くその時と同じ状況にいるような気がした。遭難者は眠ってしまえば、それが最後になるという。

 " 眠ってしまえば、もう、終わりだ "

 自分に言い聞かせながら大木は懸命に手足を動かし、ソファーから立ち上がろうとした。だが、体は意識とは裏腹に、力が抜けたように動かなかった。同時に睡魔は、手足の先から次第に体の中心部に向かって移行して来るのようで大木は、ああ、俺の体が手足の先から死んでゆく、と思ったその時、

「ベッドの用意が出来ました。どうぞ、こちらでお休み下さい」

 と言う、女の声がした。

 眼を開くと女の姿が見えた。一瞬大木は、その女が亡霊かと思って息を呑んだ。女の姿が遠く霞んで見え、ひどく存在感の薄いもの思えたのだ。

 だが、無論、女は亡霊などではなかった。透き通るように白い裸体に、青く透明なネグリジェを着て次の間の、眼を圧倒する程に強烈な深紅の照明の中に溶け込むようにして立っていた。

 女は大木の傍へ来ると、

「どうぞ、ベッドの上でお休み下さい」

 と囁くように言った。

「アッ、どうも」

 大木は混乱と共に言った。

 睡魔はまだ去っていなかった。すぐには立ち上がれなかった。

「手をお貸ししましょう」

 女は言って両手を差し延べた。

「疲れと酔いが一遍に出てしまったようです」

 大木は言い訳がましく言った。

「霧の中をお歩きになって、その疲れが出たのですよ」

 女は立ち上がる大木を抱え込むようにして抱きとめた。

 大木は女の両腕を背中に感じた。

 大木がその女に導かれるようにして入った部屋の中は総てが深紅であり、深紅が織り成す強烈な深紅の世界だった。大木は圧倒され、ただ黙って見詰めているばかりだった。

 女は大木のそんな深紅の世界から受けた衝撃にすぐに気付いたようで、

「これがわたしの部屋なのです」

 と、相変わらずの謎めいた微笑と共に言った。女の身に着けた青いネグリジェもこの世界では深紅に染まってしまうかのようだった。窓際の分厚いビロードのカーテンも、部屋の中央にあるベッドを覆うサテンのカバーも、床一面に敷き詰められたカーペットも、それぞれがそれぞれ独自の深紅を保ち、深紅の深さを競い合い、共鳴し合って、底知れない深紅の深い世界を演出しているかのようだった。

 女は大木を抱きかかえたままベッドの傍へゆくと、

「どうぞ」

 と言って、大木を座らせた。

 大木は自分が今、女との抜き差しならない関係の中に踏み込んでゆくのを予感した。しかし、だから言って、今更、そこから抜け出す事も出来ない気がした。こんな前代未聞の深い霧の夜の中で女と二人、孤立してしまった以上、その女性と愛を交わし、心を通じ合わせる事以外に、この孤独感から逃れ得る術はない気がした。

「霧の深い夜には、愛し合い、抱(いだ)き合って眠るのが最適なんですって、さっき、ラジオで言ってましたわ」

 女は自身も向こうへ廻ると、ベッドの上に身を横たえながら、大木を見詰めて言った。

 大木はしかし、その時、ベッドに横臥した女の肉体の上に奇妙な現象を見て身震いした。女の身にまとったネグリジェを通して影を落とす深紅の光りが、女の白い裸体の上に深紅と青の入り混じった濃淡の不思議な縞模様を描いていた。それが大木には、生と死の混在した奇妙な世界に見えたのだった。大木は恐怖の心に一瞬、たじろいだ。しかし、女の若さを秘めたしなやかな肉体は、そんな大木の恐怖感をも呑み込むかのように強烈に大木の欲望を誘っていた。大木は自虐的とも思える心を抱いたまま、奇妙な縞模様を描く女の肉体に眼を据えたまま、女の誘う眼差しに促されるかのように自ら上着を脱ぎ、ネクタイを外していた。

 女は大木がベッドの上に身を横たえると、待ち兼ねたように身を寄せて来た。そのまま大木のベルトに手をかけると一気に引き抜いた。その女の行為は、大木がもはや再び引き返す事を許さないない厳しい掟のような拘束力で迫って来た。

 大木はその時、何故か覚える絶望的とも言えるような哀しみの中で、女の青いネグリジェの中に手を差し込むと、その白い肉体を力を込めて抱きしめた。すると女が大木の唇を求め、二つの唇が重なった。そして更に、二つの肉体と肉体が重ね合わされ、その肉体が共に深紅の世界に包み込まれた時、大木は、みるみる間に自分の肉体が青く変色し、女の肉体の中に埋没してゆくのを感じて大木は思わず、

「ああ・・・・・」

 と叫んでいた。そしてそれは、大木が発した最後の声だった。それ以後、大木はもはや存在しなかった。

 

 

 大木が眼を覚ました時、寝室には枕もとのスタンドの小さな明かりが点っていた。

 寝室には普段と変わったものは何もなかった。

 傍には妻の治子が眠っていた。

 大木は眠っている治子の顔を見詰めた。

 ナイトキャップを着けているせいで、やや額が広く見えたが、普段の治子の顔となんら変わる事のない寝顔だった。

 " 俺は夢を見ていたのか、それも奇妙な夢を "

 大木は思わず口の中で呟いた。

 全身が冷たい汗に濡れていた。

" なんだって、あんな厭な夢をみたんだろう ? "

 夢が二重にも三重にもなっていた。夢の中で夢を見ていた自分はなんであったんだろう 、と奇妙な思いに捉われた。

 何処までが現実の自分で、何処までが夢の中の自分であったんだろう。そして今、ここにこうして目覚めている自分は、いったい、なんなんだろう。夢の中のどの自分なのだろう。治子は今ここにいて、眠っている。だが、これは本当の治子なんだろうか。間違いなく現実の治子なんだろうか。

 大木は治子が、揺り動かせばふっと消えてしまいそうな気がして、思わず、

「おい、おい」

 とだけ声を掛けていた。

 治子はいかにも深い眠りから覚まされたように、ぼんやり眼を開いた。

 覗き込むように見詰めている大木に気付くと、

「どうしたの ?」

 と、訝しげに聞いた。

「いや、なんでもない」

 大木はその治子を見ても、なお、混乱の収まらないままに、口の中で呟くように言った。

「夢でも見たの ?」

 治子は言った。

「いや」

 大木は言った。

 治子は何も知らないようだった。

 布団の中で体を動かさず、顔だけ向けて大木を見ていた。

 治子は本当に何も知らないのだろうか。何か隠して、何も知らない振りをしているだけではないのか。

 大木は治子への疑念に取り付かれた。その瞬間、大木はふと、何も知らない顔をしている治子への幽かな憎しみを覚えた。 

 

                        完

 

 

 

  

 

 

 

 

    

   

   


遺す言葉 244小説 夢の中の青い女 他 今を生きる

2019-05-26 14:03:18 | 日記

          今を生きる(2019.5.15日作)

 

   今を生きる

   今を生きている事の

   幸せを噛みしめ

   一瞬一瞬の今を生きる

   時は過ぎて逝く

   人生は短い

   若き日の宴の時は

   束の間の幻 

   夏の日の蜃気楼

   訪れの秋は速く

   人の世の悲哀を運んで来る

   今を生きる

   今を生きている事の

   一瞬一瞬の幸せを噛みしめて生きる

   人生の終わり 冬の日は

   すぐ隣り ほら そこにある

 

 

          ----------

 

 

          (9)

 

 前方に幽かな明るさがあるのはなんだろう ?

 大木にはすぐにそれが、街を覆う霧が街灯の明かりに照らし出されて浮かび上がる白さだと分かった。その霧が光りの中で、煙りのように移動してゆくのが見えた。大木は自分がまた、元の街に戻って来ている事を知った。

 大木はトンネルを抜け出すように、暗い廊下を小走りに走り抜けた。すると眼の前に一本の街灯が立っていた。霧はその明かりを中心に渦巻くように流れていた。

 大木はまた、霧に濡れながら街の中を歩き始めた。

 霧は先程より一層の濃度を加えて来ていた。建物の影を見る事も出来ない程になっていた。濃い霧の体積だけが大木を包んでいた。多分、この霧の濃さでは硫酸も一層に濃度を増しているに違いない。呼吸の困難さと共に、胸苦しさを覚える気がした。                    

 不安な気持ちと共に大木は、俺はこの霧の中で、霧に巻かれて死んでしまうのだろうか、と考えた。

 そんな不安に呼応するように眼の前の霧の中にぼんやりと浮かび上がって、青い光りが見えて来た。大木にはそれが人魂だという事は、先程の体験からすぐに理解出来た。しかもそれは先程来の経緯(いきさつ)からすれば、大木自身の魂に違いないのだ。それがどんどん大きくなって近付いて来る。大木は思わず恐怖に息を呑んだ。ーーだが、その瞬間、大木の眼にはっきりと見えて来たのは、「BAR 青い女」という、ネオンサインの青い文字だった。

 大木は思わず安堵に胸を撫で下ろした。なんだ、俺はまた、「青い女」に戻って来ていたんだ。

 その安心感と共に大木は、この霧の深い夜の中で俺は混乱して、どうにかしてしまっているんだ、と思った。

 大木は取り敢えずの安心感と共に、とにかく、もう一度、「青い女」に戻って、後の事はそれからどうにかしようと考えた。霧の中をむやみに歩き廻ったおかげですっかり疲れ切っていた。

 それにしても「青い女」では、あれ程みんなが大騒ぎをして帰りを急いでいたのに、まだ、誰か残っているんだろうか ?

 或いは、チーフが居るのかも知れない。

 大木はそう考えると馴れた足取りで地下への階段を降りて行った。

 彫刻のある木製の重い扉は大木が押すと、いつものように訳もなく開いた。

 中には平常通りに仄暗い照明があって、カウンターの向こうに背中を見せたホステスが一人、洗い物をしていた。

「ああ、ひどい霧だ。道が分からなくなってしまって、また、舞い戻って来たよ」

 大木は馴れた店の気安さから、ホステスが誰かも分からないままに声を掛けた。

 カウンターの中で背中を見せていたホステスが振り返った。

「いらっしゃいませ」

 ホステスは大木を見ると微笑を浮かべて言った。

 大木の知らないホステスだった。

「あれ、みんな帰ってしまったの。あなたは ?」

 大木はびっくりして聞いた。

「みなさん、お帰りになりました。わたしはこんな夜なので、誰か道に迷った方がいらっしゃるのではないかと思って、お待ちしていたのです」

 見知らぬホステスは言った。

「でも、いつからここで働くようになったの ? 初めてだけど」

 大木は理解出来ないままに聞いた。

「はい、今夜は特別ですので」

「そうか、それにしても居てくれて良かった。新宿駅は分からないし、終電車も、もう出てしまっただろうから、途方に暮れるところだった」

「霧はますます深くなって来ますわ。ラジオではしきりに死者の状況を放送しています。街角という街角には死体が山積していて、都の衛生局では特務班を編成して死体の処理に当っているという事です」

「そうですか、それは知らなかった」

 大木は驚いて言ったが、自分が今、見て来た光景は、妄想とか幻想の類いではなくて、あるいは死者の魂が呼び起こした現実ではなかったのか、とぞっとしながら考えた。

「今夜はこんな夜ですので、もう、お帰りになるのは無理ですわ」

 ホステスは言った。

「そうだなあ。これじゃあ、とても帰れそうにない。今夜はここで一晩中飲み明かしといこうか」

 大木は言った。

「そうですわ。でも、もう午前一時を過ぎていますから、営業は出来ませんので、わたしの部屋へ御案内致します。もう、洗い物も終わりますから」

「住まいは近いんですか」

「はい、すぐです。この霧の中でも御心配はいりませんわ」

 この女は何歳ぐらいになるのだろう ? 大木は思った。 三十歳になっているのだろうか ?

 淡い照明の中でも、どこか透き通るように白く見える女だった。

 大木は取り敢えず入り口に近いスツールに腰を下ろして、女性の片付け物が済むのを待つ気になった。

 ポケットから煙草を取り出し、ライターを擦った。

 ライターは霧に濡れてしまったのか、重い音を立てるばかりで火が点かなかった。

「ちょっと、マッチを貸してくれない。霧の中を歩いて来て濡れてしまったのか、ライターが点かないんだ」

「あっ、御免なさい」

 女は言って、手を拭きながら振り返るとマッチを手にして自分で擦った。

 そのマッチも湿気っているのか、折れるばかりで火が付かなかった。

「こんな夜だから、みんな湿ってしまったんだ」

 大木はくわえた煙草をしまうと言った。

「御免なさい」

 女は言った。

「悪いけど、ちっょと電話を貸してくれないかな。心配するといけないから、家に電話をしておこう」

 大木はスツールを下りると、入り口横の電話へ向かい受話器を取った。

 ダイヤルを廻し、受話器を耳に当てるとしかし、そこからはなんの音も聞こえて来なかった。

「プラグは抜いてないよね」

 大木は受話器を見詰めながら言った。

「はい、繋がっています」

「おかしいな、番号を間違えたのかなあ」

 大木はもう一度、数字を確かめながらダイヤルを廻した。

 やはり受話器に聞こえる音はなかった。

「電話も霧で故障をしてしまったんだろうか、何も聞こえない」

 大木は言った。

 女は洗い物も終えたのか、カウンターの中で大木を待っていた。

 大木はその女を見ると何故とはなしに、突然の孤立感に捉われた。家族は無論、外の世界と大木を繋ぐものとが完全に遮断され、この見知らぬ女と二人だけ、霧の夜の中に閉じ込められた思いがした。

 女はそんな大木の焦燥感を逸早く見抜いたのか、

「何も御心配いりませんわ。霧が晴れて明日になれば総てがまた、元通りになりますわ」

 と言った。

 " それは、そうかも知れない " 大木はそう思ったが、この夜が永遠に続いてゆくような不安な思いもまた、拭い切れなかった。

 大木が体を硬くして電話機の前を離れると、女はカウンターをくぐり抜けて来た。

「ここに居ても仕方がありませんので、わたしの部屋へ参りましょうか。そうすればベッドもありますし、体を横たえて休む事も出来ますから」

 女はそう言うと大木を導くように狭いフロアーのテーブルの間を歩いて奥へ向かった。女はそこで一つの壁を押した。

 そこには出口があって、音もなくドアが開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 


遺す言葉 243 小説 夢の中の青い女 他 芸術考

2019-05-19 23:43:50 | 日記

          芸術考(2019.5.11日作)

 

   芸術 芸術 と

   崇め 奉らない 方がいい

   芸術で 命は 維持出来ない

   命に係わる作業 日々 日常

   生活 生きる場での 行為 行動

   最も尊く 大切

   芸術は命に奉仕する 脇役

   日々 日常 生きる場 生活する場

   その場での 謙虚な 行為 行動 作業

   最大 称賛され 得べきもの

   ありふれた便器を提示した 芸術家

   現代芸術への 痛烈な皮肉

   街の中 

   公衆トイレ その壁の

   雨の染み 切り取る角度で

   芸術にも 成り得る

   それが

   現代芸術

 

 

          ----------

 

 

          (8)

 

 社員もいなくなり、 事務所も失って無一文になった大木には、もはや大木貿易を維持してゆくだけの力はなかった。

 大木は僅かばかりの在庫を処分し、債務を回収して最後に残った雑費の支払いに当てると、大木貿易を閉鎖した。

 それからの大木の生活は、正に苦闘の歳月だった。最初のスーパーを手に入れるまでの十数年間、大木は四時間以上の睡眠を取ったことがなかった。夜はバーテンダーとして、早朝五時過ぎからは、築地の卸売市場で場内配達員しての仕事をしながら身を粉にして働いた。

 治子にとってもまた、その十数年間は苦闘の歳月だった。再起を目差す大木の心を知って、新聞配達員、スーパーマーケットのパートタイマー、保険外交員、ガス会社の集金員などと、かつては贅沢三昧で、働いた事もなかった体に鞭打って働いた。

 牧子を身ごもった時、大木は働き続ける治子の身を案じて堕胎を勧めた。治子が保険外交員をしている時の事で、勝夫は四歳になったばかりだった。

 治子はだがその時、頑ななまでに大木の勧めを受け入れなかった。働きづめに働いて、何一つ潤いのない日々の生活の中で牧子を産む事は、治子に取っては唯一、自分がこの世に生きている事の確かな証しを得る事であったのだ。

「もう少し、先への見透しが付いてからでも遅くはないじゃないか」

 大木は言った。

「いやよ」

 治子はいった。

「わたし達の間に生まれて来る命まで殺して、わたしが生きている理由なんてないわ」

 牧子を産んでからの治子の頑張りは以前にも増していた。牧子を抱いてのガス会社の集金員の生活が始まった。大木にしても、牧子が生まれてみれば女児のこともあって、ひときわの愛情を覚えずにはいられなかった。大木は治子と牧子の二人へ寄せる深い愛情の思いと共に、治子の身もまた案じて、

「君がそこまでしなくてもいいよ。その分、俺がもっと働くから」

 と言った。

 治子はだが、

「平気よ。かえって働いていた方が、気持ちに張りがあっていいわ」

 と言って、受け入れる素振りも見せなかった。

 大木と治子が知り合った結婚前の月例パーティーの仲間内でも、治子はおしゃれの気取りやで通っていた。そんな治子からは考えられない変化であったが、さすがに定評のあった美貌にもやつれが見え、牧子を抱えての、日中を集金に歩く治子の姿は痛々しくさえあった。

「見て、こんなに陽に焼けて」

 風呂上りの鏡の前で振り返るその眼元にだけ、僅かに昔の美貌を留めるだけになっていた。

 最初のスーパーを手に入れたのは、そのような生活の中での思わぬ偶然からだった。築地市場で繋がりの出来た魚屋が、四谷にある魚屋と八百屋を兼ね備えた店が売りに出ていると話した事が発端になっていた。老夫婦が店員を使って営業していたが、店主が急死し、老妻は一人でその店を維持してゆくだけの気力を失くしていた。

「あの店からすれば、捨て値のようなもんだよ」

 魚屋は言った。

 十数年間、大木と治子が無我夢中で働き、蓄えて来た金は、その売値に匹敵するだけの額があった。大木はその話しに乗り気になり、治子に話した。

「あなたがそれでいいって言うんならいいわ。その為に働いて来たお金なんだから。でも、今度だけは騙されないでよ。今度騙されたらもう終わりよ」

 治子は言った。

「当たり前だ。痛みは俺自身よく知っている」

 大木は希望とも自信とも付かない感情に突き動かされて機嫌よく言った。

 その店舗を手に入れてからの歳月は、大木自身、時として恐ろしくなる程の順調さだった。これは何処かに落とし穴があるのではないか、と思うぐらいで、時として、恐怖感を覚えるような事もあった。自分が再び無一文になった夢を見て、夜中に飛び起きた事も一度や二度ではなかった。その反面、今まで治子と一緒に懸命に努力して来た事を思えば、これぐらいの僥倖があってもおかしくはない、という思いもまた、何処かにあった。

 治子の大木に対する献身には、依然、変わりはなかった。自ら進んで商品の仕入れに出向く事もしばしばだったし、売り場内の配置や、人心掌握にも心を配った。

「わたしにも倉田紡績創業者の血が流れているのかしら」

 治子は笑った。

「当り前だろう。お父さんの娘なんだから」

 大木は言った。

「それにしても、こんなに夢中になれるなんて、自分でも信じられないわ」

 店舗の数が増える度に大木は旧店舗を治子に任せ、自分は新店舗に掛かり切りになった。

 会社組織に改めた時には、治子が副社長に就いた。

 現在、大木の胸中には、店舗拡張の計画はなかった。だが大木は、近い将来の夢として、大木の住む市内の駅前の一画に小さな劇場を建て、そこを映画や音楽などの、自分の好み合った芸術や芸術活動の拠点にして係わってゆきたいという思いを持っていた。大木に取ってそれは決して突飛な夢ではなかった。苦闘の日々の中で大木が僅かに気を紛らわす事の出来たものが、時折見る低料金の名画座での映画や、喫茶店などで何気なく耳にする音楽などだったのだ。大木はそんな夢を何気なく、冗談のように治子に話した事があった。すると治子は厳し言った。

「でも、まだそんな余裕なんてないわ。それはあなたの道楽よ。そんな所からほころびが出来るのよ。気を付けてよ」

「道楽かな」

「道楽よ。ようやく仕事が軌道に乗って来たばかりじゃない」

 治子は冷ややかだった。

 ーーそうか ! とこの時大木 は、ようやく胸に思い当たるものを探り当てた気がした。

 治子はそんな俺に不満を持って、専務の三谷と手を結んだのか !

 大木はやっと霧の晴れてゆくような気持ちの晴れやかさを覚えた。

 だが、それにしてもなぜ、たったそれだけの事で、治子が俺を見捨てなければならないんだ !

 今日まで大木に寄せて来た治子の信頼からすれば、考えられる事ではなかった。

 それとも他に何か、厭になる訳でもあったのだろうか ? 俺を死んだもの扱いにしている。しかも、治子ばかりではない。勝夫と牧子の二人までもがそうだ。

 そこまで来ると大木はまた、分からなくなった。

 いったい、何があったと言うんだろう ? 今朝、俺が家を出る時には普段と何も変わらなかった。たった一日のうちに、何がどうなってしまったと言うんだ。

 もう、自分には治子も勝夫も牧子もいないと思うと、大木は不覚にも涙をこぼしそうになった。

 大木は気力も失せたまま、明かりのない廊下をとぼとぼと歩いて行った。自分がまるで、暗い海原を漂う小舟のように思えた。身も心もボロボロになっているのを感じた。

 ーー大木は思わず眼を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遺す言葉 242 小説 夢の中の青い女 他 その心は

2019-05-12 15:00:09 | 日記

          その心は(2019.5.8日作)

 

   その心は

   本当に死にたいのか ?

   単に 今が苦しく

   淋しくて 悲しくて 

   辛いだけではないのか ?

   -----

   人間 死にたい時には 一度

   死ぬがいい 一度 死んで

   自分を殺せば

   自分の "心" を 殺せば

   裸になれる 裸になれば

   見えて来るものが あるだろう

   -----

   地球は いつでも

   廻っている

   夜が明ければ

   朝が来る

   朝が明ければ

   夜が来る

   -----

   その心は 本当に

   死にたいのか ?

   今が辛くて

   苦しいだけではないのか ?

   一日待て

   一夜待て

   一週待て

   時はいつでも巡っている

   辛く 苦しい心も

   耐えて忍べば いつかは

   晴れる

   霧の晴れた 朝が来る

   永遠 永久(とわ)に 続く

   夜など ない

   永遠 永久に 続く

   悩み 霧など ない

   心の 霧も 悩みも

   いつかは 晴れる 晴れるだろう

   忘れる心 その心 を 持つ

   その心 忘れる心 その 心 の

   向こうには 彼方には

   霧の晴れた 明るい朝

   希望の朝が あるだろう

   希望の光りも 見えるだろう

   光りに満ちた 一筋の

   明るい道 希望の道も

   見えて

   来るだろう 

 

 

          ----------

 

 

          (7)

 

 勝夫が生まれてまだ、二年と経たない頃だった。当時、大木はアメリカからの輸入食品の販売に携わっていた。その事業の拡大を急ぐあまりに、思わぬ詐欺行為の手口に見事に嵌まってしまっていた。迂闊と言えば迂闊、無知と言えば無知。いずれにしても自身が経営する会社の基盤を根底から突き崩す被害を被っていたのだ。それを救ってくれたのが治子だった。

 治子の父は生前、オーナー経営者として倉田紡績の六十数パーセントに及ぶ株式を保有していた。だが、その死と共に、大部の株式が相続税対策として処分された事は、ニュースなどでも取り上げられ、話題になった事で大木も知っていた。

 大木は詐欺被害の対策に、何としても五千万程の資金が必要になった時、まず頭に浮かんだのが、その治子の実家だった。

 治子の実家に頼めば、取り敢えずの必要資金は工面出来るのではないか ?

 しかし、そんな思いはすぐに、五千万もの借財を申し込んだ自分に、実家の者たちがどのような眼差しを向けて来るだろうと考えると、たちまちのうちに萎えてしまった。

「大きな事を言っても、結局、あの男も口先だけの人間なんだよ」

 そんな実家の人たちの口ぶりが、眼に見えるようだった。

 大木にとって治子は、紛れもない良妻と言えた。かつて治子が、実家を鼻にかけ、大木に何かを強要した事は一度もなかった。治子との結婚生活は、幸福そのものの思いだけが強かった。それだけに大木も、なんの憂いもなく事業に専念出来たのだったが、それが正しく裏目に出て、みすみす甘い詐欺の手口に嵌まってしまっていたという事だった。

 大木は日に日に決済の迫って来る五千万の金の工面が出来ないままに、ただただ、東南アジアに本拠を持つというプロ詐欺集団への警察の、捗々しくない捜査の進捗状況に無力感と苛立ちを募らせた。

 結局、三十年足らずの人生もこれまでという事か・・・・・

 なんとなく投げ遣りな気持ちで呟くと大木は、ふと、今までは考えてもみなかった事であったが、その思いが胸の中で大きく膨らんで来るのを意識した。そして、その思いに引き摺られるように大木は、八方塞がりという現在只今のこの苦しい状況の中では、唯一それが自分自身が安心、安らかになれる、最善の道のような気がして来て、それからは連日連夜、胸の中で反芻していた。

 ---本当にその覚悟はあるのか ?

 もし、そうする事が出来れば、治子の実家に生き恥を晒す事もなく、治子にも、自分が仕事に賭けた情熱の本気度を分かって貰えるのではないか、という気がした。

 大木はある夜、とうとう心を決めると治子に出来事の一部始終を話して離婚を申し出た。大木がいなくなった後に、治子に迷惑の掛かる事を避ける配慮からだった。

「とにかく、俺が立ち直るまでは形式だけでもいいから、離婚に承諾の判を捺してくれ」

 大木の仕事に一切、係わる事のなかった治子には、大木が何か、慌ただしく動いているとは分かっていても、その言葉のすべてが初めて耳にする言葉だった。

「なぜ、もっと早くなんとかしなかったの !?」

治子は咎める口調で言った。

「なんとか出来れば、こんな事にはなっていなかったよ」

 大木は苛立ちを込めて言った。

 治子は黙っていた。

 治子と大木が知り合ったのは、月々、都内で開かれるあるパーティでの事て゛あった。初め大木は、治子が倉田紡績の創業者の娘だとは知らなかった。一年近い交際の後、結婚の話しが出るようになって、初めて知った。

 この時、治子の父は既に亡くなっていた。それでも大木には、倉田紡績の創業者の娘という事で、大きな気持ちの緊張感を強いられるような気がしていたのを、今でも鮮明に思い出す事が出来た。

 その夜、治子はそれ以上は言わなかった。だが、治子はその時既に、鋭く大木の心の中を見抜いていた。

「わたしが判を捺したら、自殺するつもりなんでしょう」 

 睨み付けるような眼で言った。

「そこまでは考えていない」

 大木は心の中を見抜かれた動揺を隠して平静を装い言った。

 翌朝だった。

 治子は食事の前に、

「昨夜の事だけど」

 と言って切り出した。

「わたしの名義の倉田紡の株券が、大阪の母の所にまだ少し残っているはずだから、それを処分すればいいわ」

 と言った。

 治子の話しではざっと見積もっても、時価六千万に近い数の株式だった。

 大木は息を呑んだ。無意識のうちに体が震えていた。

 思わぬ僥倖による喜びのためではなかった。恐怖とも言っていい感情に大木は怯えていた。

 それは正しく大木がこの苦境から救われるだけの金額だった。それを最も身近にいる治子が持っていたーー。 

 一度は諦め、心を決めてみたものの、希望があれば縋りたいのが人の真情に違いなかった。

 一方、そんな大金を最も身近にいる妻とはいえ、なんの保証もないままに受け取ってもいいものだろうか、という思いもまた、心を動かした。

 紛れもなく、一瞬の間に消えてなくなってしまう金だった。再び取り戻せるという当てもない。

 その上、更に複雑な思いも絡んで、治子の母や兄弟たちはなんと言うだろうという、倉田の家への思いもまた消えなかった。娘の財産を食い潰す甲斐性のない奴 !

 治子がその日まで、それ程の株式を所有していたのを黙っていた事に付いては大木は、今までそれを必要としなかった事もあって、格別の不満は抱かなかった。治子が夫の窮状を見兼ねて正直に打ち明けてくれた事に、むしろ、感謝したい気持ちの方が強かった。

 大木はその日、食事も満足に喉を通らないままに出社すると、誰もいなくなった事務所で一日中机に向かい、思い悩んでいた。

 結局、大木が治子の申し出を受け入れる気持ちになったのは、死への恐怖もあった上に、なによりも、謙虚な気持ちでもう一度、やり直してみたい、という再起への思いが強かった為だった。

 その夜、大木は、

「その株は君の一存で処分してしまってもいいのか」

 と、改めて治子に聞いた。

「生前、父がわたしの為にって、少しずつ譲渡してくれた株だわ。誰に迷惑を掛ける事もないわ」

 治子は言った。

「お母さんや、お兄さんは、なんて言うだろう」

「今更、そんな事を言っても仕方がないでしょう」

 大木はここまで来てなお、未練がましく言い訳めいた言葉を口にしている自分に嫌悪感を抱いたが、治子もまた、それを感じたらしく、不機嫌に言った。

「でも、その株は君にとってはどぶに捨てるようなものじゃないか」

「じゃあ、どうしろって言うの ? わたしと別れて死ぬって言うの ?」

 治子は泣いていた。

 ・・・・・今、この夜の中で大木はその治子の涙を限りなく懐かしく、美しいものに思うのだ。治子の愛の純粋さを思うのだ。あの時、株式を処分して大木が急場を切り抜けた時、治子は、

「これでわたしはもう、倉田紡績とはなんの関わりもない人間になったわ」

 と、気抜けした様子で言った。

 治子にとっては、現在兄が社長に就いている倉田紡績の株式を持ち続ける事は、亡くなった父との関係を持ち続ける事でもあったのだ。

 大木はその夜、治子の顔を見る事も出来なくて、黙ったまま酒を呑み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

   


遺す言葉 241 小説 夢の中の青い女 他 種を蒔く

2019-05-04 15:28:07 | 日記

          種を蒔く(2019.3.21日作)

 

   人は 今を生きるという行為の中で

   日々 何かしらの種を蒔いている

   その種には 良い 種もあり 悪い 種もある

   蒔かれた種は やがて芽を出し 実を稔らせ 世の中

   世間に 何かしらの果実を残す その果実が

   良い 果実であるか 悪い 果実であるか 当然ながら

   蒔かれた種の 良し悪しに 決定される

   それなら 人はせめて 日々

   良い 種を蒔き 良い 果実を稔らせるよう

   誠実 真摯に 一日一日を

   生きてゆこうではないか

 

 

     ----------

 

 

          (6)

 

 牧子は将来、ボランティア活動のために、アフリカの奥地へ行きたいなどと言っている。大木は勿論、反対するつもりでいた。そんな見知らぬ遠い土地へ娘を手放す不安に耐える事など出来そうにもない。大木にとっては、牧子はいつまでも自分の傍に置いておきたかった。いつまでも休日の買い物や散歩を一緒に楽しみたかった。

 大木は牧子へのそんな思いと共に、こんな夜にこそ、娘と二人で静かな時間を過ごしたいと思った。

「牧子、牧子、居るかい ?」

 大木は部屋の中へ囁きかけるようにして言った。

 明り取りの小窓を通して明かりの漏れて来る部屋からはしかし、なんの返事も返って来なかった。

 大木は軽くドアを叩き、中の物音に耳を澄ました。

 相変わらず部屋の中には物音もなく、返事もなかった。

 大木はいったんドアから離れると改めて部屋を確かめた。

 いつもの見慣れた牧子の部屋に間違いはなかった。

 大木は再びドアの傍へ行き、把手を手に廻してみた。

 把手の軽い回転と共に、ドアは訳もなく開いた。

 大木は中の様子を窺うようにしながら、そっと部屋へ入った。

 その時、部屋の右手のベッドにいた牧子が半身を起こして振り返った。

 牧子は上半身裸で、下半身は白っぽいシーツで覆っていた。

 向こう側には牧子の陰になって、男がやはり裸で横たわっているのが見えた。

 牧子は大木の顔を見ると悲鳴を上げた。

「お兄ちゃん、変な人よ」

 牧子は続いて叫んだ。

 牧子の陰にいた男が裸の体を起こした。

「誰だ !」

 男は牧子に聞いた。

「ほら ! あの人」

 牧子は大木を指差した。

 男は長男の勝夫だった。

 勝夫は厳しい表情で大木を見詰めると、

「黙って他人の部屋へ入って来るなんて、失礼じゃないか。出て行け !」

 と怒鳴った。

「おまえたちは兄妹で、いったい、なんていう事を !」

 二人の間に明らかにセックスの余韻が漂っているのを見て大木は思わず叫んだ。

「俺たちが何をしようと、俺たちの勝手じゃないか。他人のあんたなんかにつべこべ言われる筋合いはないよ」

 勝夫は腹立たしげに言った。

「他人 ? 他人とはなんだ 。お前はお父さんの顔も忘れたのか !」

 大木は激して怒鳴った。

 勝夫は一瞬、呆気に取られた顔をした。それから、いかにも可笑しげに、

「牧子、聞いたか、お父さんだってよ」 

 と言って、ゲラゲラ笑い出した。続けて

「今更、お父さんだなんて、馬鹿ばかしい」

 と、嘲るように言った。

「今更とはなんだ ! 今朝、ちゃんと顔を合わせているじゃないか !」

 大木は言い返した。

「あのね、わたし達のお父さんは死んでしまってるのよ。ちゃんとお葬式も済ませてあるわよ」

 牧子は白い豊かな胸を隠しもしないでベッドの上に座っていた。

「いったい、お前はなんていう事を言うんだ。お父さんは現に、ここにこうしているじゃないか、それをいったい、なんていう事を !」

 大木は牧子のいかにも女らしく成長したその裸体にドギマギしながら言った。

「いいから、あんたなんか出て行けよ。俺たちは今、愛し合っている最中なんだ。霧の深い夜にはセックスが最適だって、ラジオで言ってたのを聞かなかったのか」

 勝夫はいかにも若々しく勃起した性器を誇らしげにさらけ出して、ベッドから降りて来ると大木を押し出そうとした。

「勝夫 ! お前はお父さんを忘れたのか !」

 大木は勝夫の圧倒するような逞しい肉体に押され、じりじり後退しながら言った。大木はこの逞しい肉体の成長の過程を知っていた。それが今、大木の前に凶器のように立ち塞がっていた。

 大木は怒りと共に瞬間、まだ幼かった頃の勝夫を懐かしく思い出した。

 その勝夫が今こうして、大木を裏切る、などとは考えもしなかった事だった。ーーこの勝夫は本当の勝夫ではない。何処かで間違った勝夫なんだ。

 大木は必死に自分に言い聞かせながら少しずつ、脅かして来るような勝夫の前を離れ、ドアの出口に後退した。と同時にこの時、大木の心の中では奇妙に、勝夫と牧子が遠くへ行ってしまったような気がして、言い知れぬ寂しさと孤独感に捉われた。その寂しさと孤独感から逃れるように大木は、ひと思いにその部屋を飛び出すと自らドアを閉めた。そのまま、ドアに背を持たせ掛け、打ちひしがれた思いで頭を垂れた。

 勝夫と牧子がベッドの上で愛し合う姿が、真っ暗な脳裡に浮かんだ。大木はなぜかそこに、不道徳感を抱くよりも、自分が独り取り残され、置き去りにされたような淋しさを抱いて、思わず嗚咽を漏らしそうになった。

 大木はようやくベッドの上で愛し合う二人の幻影を追い払うとドアを離れた。気力の失せた足取りで暗い廊下を独り、また歩き出した。こういう時、もしも、妻の治子がいてくれたら、と思ったが、その治子もまた、専務の三谷と一緒に大木を裏切り、不倫に走っていたのだ。治子も今頃、あの男と何処かの部屋で愛し合い、抱き合って、大木が知り尽くしたあの表情で恍惚の境地を彷徨っているのに違いない。

 大木は治子への高まる憎悪と共に、最初の事業に失敗した当時の妻を、懐かしく、はるか遠い夢の中での事のように思い浮かべていた。あの時の治子は優しく、その美貌と共に心もまた、美しかった・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   


遺す言葉 240 小説 夢の中の青い女

2019-04-28 10:57:09 | 日記

         (5)

 

" 俺は現にここに居るのに、あの二人は俺が死んだなんて言っている。

 待てよ、これは役者が治子と三谷明に扮して演じている芝居ではないのか ? その証拠に、二人は明らかに舞台の上にいたではないか。 "

 大木は確かめるために墓石の陰から出ると、舞台の方へ歩いて行った。

 左手の袖にある小さな階段を登ると舞台へ上がった。

 舞台の上には照明だけが明るく、何もなかった。

 治子と三谷が消えて行った奥を窺うと、そこには部屋があって、大勢の人々が集まっていた。大木は不審に思い傍へ行ってみた。するとそこでは通夜が行われていた。部屋の正面に葬儀用の祭壇が設えられていて、いっぱいの供花に埋まるようにして黒枠の写真が飾られていた。大木は、さっき、治子と三谷が社長の葬儀は滞りなく終わりました、と話していたが、これはいったい、誰の通夜なんだろうと思いよく見てみると、写真の中には明らかな大木自身の顔が映っていた。

 大木は眼を疑い、狼狽した。

" やっぱりこれは、夢なんだ ! 紛れもない夢なんだ !"

 懸命に自分に言い聞かせた。

 しかし、大木にはそれでも納得出来なくて、焼香の順番を待つ人の傍へゆくと聞いてみた。

「いったい、これは何なんです ?」

 振り向いた男の顔を見て大木は更に驚いた。

 男は大木が経営するスーパーの四谷店店長だった。

 店長は大木の顔をチラッと見ると、全く見も知らぬ人でもあるかのように、大木を無視して正面を向いた。

「おい、松本。これはいったい、どうしたという事なんだ」

 大木は苛立ちを込めて言い放った。

「うるさい人だなあ。見れば分かるでしょう」

 松本店長は、まだ若い三十歳の顔に明らかな不満の表情を滲ませて言った。

「見れば分かるだろうって言ったって、あの写真の中の俺は現にここに居るじゃないか」

 大木は言った。

「いったい、あなたは誰なんです ? いい加減にして下さいよ」

 松本店長は語気を強めて言った。

「松本、よく見ろよ。俺だよ、俺。俺の顔をよく見てみろよ」

 大木は言った。

「知りませんよ、あんたなんか !」

 松本店長は怒ったように言った。

「知らない ? 知らないはずはないだろう。社長の大木だよ」

「バカを言っちゃあ、いけませんよ。大木社長の通夜が今、こうして行われているんですよ」

 松本店長はプイと顔を背けてしまった。

「冗談もいい加減にしろよ」

 大木は怒鳴った。

「冗談なんかじゃありませんよ。一人の人が亡くなったというのに、冗談なんか言えますか ?」

 松本店長は再び大木の方に顔を向けると、怒りを込めて言った。

 大木は苛々しながらも、松本店長との埒の明かない遣り取りに見切りを付けてその場を後にした。祭壇の前へ行き、自分が今、ここに居るという事を証明しようとした。

 それを見た松本店長が大声で叫んだ。

「変な奴がいる。頭のおかしな奴がいるぞ。そいつを撮み出せ」

 声を聞いた大勢の人たちが一斉に大木に注目した。それからすぐに、大木のそばへ来ると寄ってたかって大木を取り押さえ、僧侶の読経が続く中で突き飛ばすようにして廊下へ押し出した。その背後で、わざとらしく、大きな音を立てて扉が閉められた。

 大木は怒りで全身を震わせながら、閉ざされた扉の把手を握り、乱暴に廻した。

 扉は固く閉ざされたまま、ビクともしなかった。

 大木は悔しさのあまりに体ごと扉にぶち当てた。

 それでも扉は開かなかった。

" いったい、何がどうなってるんだ ! "

 大木は叫んだ。

 それに答える人はいなかった。

 大木は分厚い扉に隔てられたまま、しばらくはその扉に両手をついたままじっとしていた。

 たぶん、これは夢なんだーー。大木には分かっていた。

 だが、その夢の中でも大木は、夢と分かっていながら絶望していた。そして、その夢を見ている大木には、夢の中で絶望している大木をどうする事も出来なくて、ただ、手をこまぬいているより仕方がなかった。

 大木はようやく諦めると扉を離れた。落ちぶれ果てた人のように背中を丸め、人気のない廊下を歩き始めた。

 しばらく行くと今度は、右手に明かりの点いた部屋が見えて来た。それを見た時大木にはそれが、普段、見慣れている娘の牧子の部屋だという事がすぐに分かった。部屋の明かりが点いている様子から、中に牧子がいるのに違いないと判断した。

 牧子の部屋なら安心だ。大木は安堵の思い出で呟いた。

 大木と牧子は、牧子が難しい年齢にあるにも係わらず比較的、旨くいっていた。大学二年の勝男が何かと長男気取りで大人ぶるのに対して、牧子にはいつまでも子供っぽいところがあって、大木に甘えていた。大木もまた、牧子は眼に入れても痛くないといった表現そのままに、溺愛していた。二人は休日の買い物などにもよく出歩いた。

 牧子には道を歩く時、なにかと体を寄せて来る癖があって、大木の腕を取ると乳房の触れるのもかまわずに、ぶら下がるようにして歩いた。

「もっと離れて歩きなよ。お父さんが重くてかなわないよ」

 と言うと、いっ時離れてもすぐにまた、同じように体を寄せて来た。

 大木は一メートル六十を超える牧子の大人びた体にまぶしさを抱きながら、触れる乳房の柔らかい感触に親子の情愛の他に、甘酸っぱい微妙な酔い心地にも似たものを感じて戸惑った。

 どちらかと言うと牧子は母親似だった。そのきめ細かい陶器のように滑らかな肌は、若さに特有の艶めきに輝いていた。整った細面の顔立ちといい、恵まれた肢体といい、大木は娘が将来、美人になると見込んでいて、それも大木の人生の楽しみの一つだった。

 

 

 

 

 

 

 


遺す言葉 239 平成の終わりに

2019-04-25 17:21:15 | 日記

          今 佇む時に(2009.12.14日作)

             この文章は十年前 平成二十一年に書いたものですが

             平成の終わりに当り今 掲載したく思います

 

   昭和二十一年 1945年8月15日

   この国は自らが引き起こした

   あの愚かな戦争に敗れた

   この年の四月 わたしは

   国民学校の一年生になっていた

   現在 平成二十一年 2009年

   七十一歳になったわたしの眼に 心に

   見えて来るものは

   行き止まりの人生 わたし自身の

   生涯の姿 混迷を極め

   衰退の色彩を色濃く滲ませる 

   この国の姿だ

   もはや 活力に満ちたかつての

   日々の輝きは

   わたし自身にも この国の姿にも

   見る事は出来ない

   峠を下り行く道筋を見つめ

   やがて辿り着くであろう場所に

   思いを巡らし 茫然と立ち竦んでいる

   -----

   昭和二十年代 この国は

   開戦から敗戦に至る過程の中で

   荒廃し 疲弊し切っていた

   わたしは父や母 兄妹たちと住んでいた

   東京 深川の家を

   昭和二十年三月十日未明の

   東京大空襲で焼かれ

   母の故郷の九十九里の海に近い村に

   疎開していた

   物の乏しかったあの時代

   今日を生きるのにさえ困難を極めた

   あの時代

   人々は貧しさからの出口を求め

   懸命に生きていた

   いつかは きっとーーー

   荒廃した国土の中で 

   明日を夢見て生きていた

   ただ ひたすらに がむしゃらに

   今よりもっと上へ

   -----

   それでも あの頃にはまだ

   夢見る事の出来る明日があった

   希望があった

   平成二十一年 2009年現在

   あの愚かな戦争と それに続く

   敗戦により

   悲惨な日々を強いられ

   それでも逞しく戦後を生き抜いて

   この国を支えた最初の世代の人たちの

   多くは亡くなり わたしの両親も亡くなり

   そして今 この国を支えた第二の世代とも言える

   戦後に子供の時代を過ごして

   この国の復興と共に青春を生きた

   わたし等もすでに

   老いの時代を迎えている

   ーーーーー

   昭和二十年代 1950年代

   この国は敗戦後の

   困難な時代を乗り越え

   ようやく 新たな時代への手掛かりを

   掴み始めていた

   それでもなお 豊かさとは程遠い日常の中で

   人々は働き蜂と言われ

   ウサギ小屋やマッチ箱の家に住む国民と

   他国に揶揄され 嘲られながら

   ひたすら明るい未来を信じて

   明日に向かい 突き進んでいた

   -----

   やがて この国にも

   戦後の奇跡と言われた復興が訪れる

   曲折はあったにせよ

   一億総中流化と言われる時代が来た

   平成二十一年 2009年現在

   この国が羨望の眼差しで見詰める

   巨大な国土を持つ隣国の

   年率八パーセントを超える成長をも凌ぐ

   年率十パーセントを超える成長を

   何年にもわたって果たし

   更に 二度にわたる

   オイルショックと呼ばれた苦難の時代をも

   懸命な努力と 創意 工夫で乗り越え

   空前の好景気に沸くバブルの時代を迎えた

   人々は 世界第二の経済大国と呼ばれ

   次の世紀は この国の世紀だと

   遠い国の誰かが言った言葉に

   さしたる疑念も抱かずに

   豊かさに酔い痴れ 我が世の春を謳歌して

   わたし等もまた 飽食 享楽に馴れ親しんで

   もはや 欲しい物はない と豪語するまでになっていた

   ーーーーー

   しかし 時の流れの永遠に留まる事は

   いつの時代にもあり得ない

   まれに見る国家の繁栄下

   この国を支えた第二の世代も 次第に年老い

   若き日の活力と輝きを失い始めた頃

   この国にもまた 衰退の影が忍び寄っていた

   平成二年 1990年

   戦後の奇跡とも言われ

   一億総中流化と言われた時代の中で

   積み重なった幾多のひずみが一挙に露呈して

   さしもの国家の繁栄も 崩壊の過程に至っていた

   -----

   以来 十数年間

   この国は宴のあとの始末に追われ

   失われた十年とも二十年とも言われるまでの

   経済の低迷にあえぎ

   平成二十一年 2009年の今なお

   未来への明るい展望を描けずにいる

   のみならず 飽食 一億総中流化時代の中で

   豊かさを当然の事として生きた来た

   今の時代を支える世代には

   かつての世代が見せた がむしゃらに時代を生き抜く

   覇気もなく 活力もなく

   豊かな時代が僅かに残した富とも言えるのか

   かつての世代には見られなかった

   身に備わった洗練さとも言えるものを

   垣間見せる裏に

   ふと 顔をのぞかせる ひ弱さ 脆弱さが

   逞しく がむしゃらに貧しい時代を生き

   今はただ 迫り来る人生の終わりの時を目前に

   たたずむだけのわたし等の

   不安を誘う

   この国は何処へ ?

   -----

   次の世紀は この国の世紀と言われた言葉の実現は

   もはや 望むべくもなく 遠い夢のように思われ

   巨大な国土と国民を持つ隣国を始め

   かつてのこの国と同じように今はまだ

   貧しさから抜け出せずにいる国々の人たちの

   溢れる熱気の前に

   茫然とたたずむこの国

   この国はもはや それらの国々に圧倒され

   この惑星 地球上の片隅に追いやられてゆくだけの

   哀れな存在なのか

   終わりの時を目前に

   茫然とたたずむだけのわたし等と同じように

   それが この国の辿る運命なのか ?

   -----

   否 ! そんな事はない

   それ程に この国の未来に絶望し

   悲観する事はない

   この国には この国が持つ 独自の力がある

   幾世代にもわたって この国の人々が養い 育んで来た

   この国独自の文化がある

   戦後の困難を伴った あの混乱期を

   逞しく生き抜き 

   二度にわたっての厳しい経済状況にも

   見事に耐え 立ち直りを見せた人々の

   内に秘めた あの力 あの情熱がある

   身に備わった資質 

   直接 手に触れる事は出来なくても

   形として見る事は出来なくても

   体の奥に浸み込んだ この国の人たち独自の

   あの英知がある

   その泉はまだ 涸れてはいない

   その証拠に 平成二十一年 2009年現在

   この地球上 世界の各地に

   この国が持つ文化の力や その文化を生み出す

   人々の活躍する姿の浸透してゆく様子が

   見えて来ているではないか

   -----

   昔日の影を追い求める事だけが

   この国の生きる道ではない

   小さな国土 減少してゆく人の数

   巨大な国土を持ち 巨大な人口を誇る他の国々と

   量の 競い合いをする事はないのだ

   この国には この国の人たちが持つ資質を活かした

   この国独自の生き方がある

   小さくても緊密堅固な国

   ダイヤモンド国家

   石炭よりはダイヤモンド

   この国独自の力を持つこの国が目指すべきものが

   自ずと見えて来る

   新たな道が見えて来る

   -----

   もはや 失われたもの

   過去の栄光 過去の繁栄

   その影を追い求めるだけの生き方は

   愚かな生き方だ

   すべては移り逝く

   未来永劫続くものはない

   新たな道へ踏み出す勇気 その努力

   今 問われるのはその力

   -----

   かつての栄光 かつての繁栄

   そこに至るまでの道筋 努力

   すでに 終わりの時を目前に

   たたずむだけのわたし等には

   再び その道を辿り直すだけの時間も力も

   残されてはいないが 少なくとも わたし等には

   わたし等が困難な状況の中で 懸命に生き 

   そこで重ねて来た 努力と成功 失敗

   そこで得たものはなんであったのか 

   失ったものはなんであったのか

   それを語る事は出来る

   今を生きる者たちの前へさし示す事は出来る

   その経験が彼等の心につながり

   今を生きる者たちの

   新たな道へ踏み出すための

   力となり 道標となり得るならば

   人生の終わりの時を目前に

   茫然とたたずむだけのわたし等にも また

   新たな存在意義が生まれて来る

   -----

   過去から今 今から未来へ

   時を継ぐ

   過去 幾世代にもわたって受け継がれて来たもの

   この国の歴史

   この国の人 それぞれが今と向き合い

   新たな道を模索して今を生きる

   この国の人が持つ叡智 それを傾け

   それぞれの人が今を生き切る事で

   この国の新たな姿が見えて来る

   この国の新たな歴史が創られる

   今 この国が 必要としているもの

   この国の人たちが持つ叡智と 内に秘めた情熱

   新たな道へ踏み出すための勇気と努力

   さあ 今から始めるのだ

   この国の未来に向けて乾杯

   新たな国を夢見て 乾杯

   

      

  

   

   

   

   

   

   

      

   

   

   

   


遺す言葉 238 小説 夢の中の青い女 他 見えないものが

2019-04-21 10:28:20 | 日記

          見えないものが(2018.12.24日作)

 

   この世の中 世界には

   重さでは量れないものがある

   広さや 大きさ 高さ では

   量れないものがある

   -----

   この世の中には 

   人の眼には見えないものがある

   -----

   人が 人と人とで創る

   この世界

   人と人とを繋ぐもの

   心

   -----

   金子みすずはうたってる

   見えぬけれどもあるんだよ

   見えぬものでもあるんだよ

 

 

          -----

 

 

     (4)

 

 そんな中で車のヘッドライトだろうか、大木の腰の高さほどの所を次々に流れてゆく光りが見えた。それらは白い霧の中で一瞬、眼の前に浮かび上がったかと思うと、瞬く間に背後に流れて行った。大木は自分の周囲に林立するビル群の中で、日頃、見覚えのあるビルはないだろうかと探してみた。馴染みのビルを見つけ出せれば、そこから自分が今いる場所を判断する事も出来るだろう。新宿駅への方角も分かるというものだ。

 だが、次の瞬間、大木は思わず足を止めた。ビルだとばかり思っていたものが、よくよく見ると、実はビルではなくて、墓場に建つ墓石だったのだ。墓石が大木の周囲を埋め尽くし、連綿と続いているのが見えた。当然の事ながら、それらにはどれも窓はない。入り口のドアもなくて、のっぺりした石の肌の冷たさだけを見せていた。

 大木はまさか、と思ったが、そのまさかの通り、大木は何処とも知れない墓地へ迷い込んでいたのだ。大木の腰の高さをしきりに流れて行くのは、車のヘッドライトなどではなくて、紛れもない人魂だった。この、東京と言う大都会の真ん中で宙に迷った人の魂が、おそらく徘徊しているのに違いない。

 大木は幽かな人の泣き声を聞いたように思った。明らかにそれは人魂がもらす泣き声に違いないと思えた。

 大都会のしがらみの中で不本意に死んでいった人たちの怨嗟に満ちた泣き声に違いない。

 だが、またしても次の瞬間、大木は、

" ちょっと待てよ "

 と、急に湧き上がる疑念と共に、その声に耳を傾けた。

 するとその泣き声は、東京という、この大都会の宙に迷った人々の怨嗟に満ちた泣き声などではなくて、大木自身の体の内部から漏れて来る泣き声ではないのか、とふと、思えた。

 大木自身の心がしきりに泣いている・・・・・・

 でも、いったい、なんだって俺が泣いているんだ ?

 大木は狼狽し、慌てて自分の周囲を見廻した。

 当然の事ながら周囲には冷たい感触の墓石が見えるだけで、他には何もなかった。

 相変わらず白い霧は、その墓石を包み込むように流れていた。

 大木は茫然とその墓石を見つめながら、

 " 俺は少なくとも、この大都会では成功者と呼んでも差し支えのない人間の一人ではないか。年間、何億という商売をし、何十人という従業員を抱え、毎年、十パーセントに近い成長を維持している。その上、家族にも恵まれ、家庭は安泰だ。俺が泣かなければならない理由なんて、いったい、何処にあるんだ。ーーひょっとすると、これは何かのトリックだ。誰かが、俺を陥れようとして何かを企んでいるんだ "

 大木は改めてゆっくりと自分の周囲を見廻した。

 周囲の状況に依然、変わりはなかった。

 ただ、何処かで、大勢の人たちが大木の狼狽ぶりを嘲るかのように、クスクス笑っているような声が聞こえる気がして、大木は思わず聞き耳を立てた。

 改めて聞き耳を立てると笑い声は、どれか一つの墓石の陰から漏れて来るようだった。

 大木はしばらく様子を伺っていた。

 それからようやく、それらしい墓石を探り当てると近付いていった。

 黒御影石の大きな、深い霧の中でも明らかに際立って見える墓石だった。

 その陰から、何人もの人たちが体を寄せ合い、クスクス笑っているのではないかと思えるような気配が伝わって来た。

 大木は正体を突き止めた、という思いと共に、急に込み上げて来る激しい怒りに捉われて、一気に墓石の裏側に廻った。

 だが、大木がそこに見たものは、大木が予期した、身を寄せ合った大勢の人たちなどではなくて、想像だにしなかった奇妙な光景だった。

 煌々と照明に照らし出された舞台があって、その上に一人の人物が立っていた。

 大木は思わず声を上げそうになった。舞台の上に立っていたのは妻の治子だった。

 治子が胸元も露な、裾を引き摺るように長い白のドレスに身を包んで、まばゆいばかりに輝くダイヤモンドのイヤリングとネックレスを着け、誰かを待っているらしいし様子が見て取れた。

" いったい、なんだって治子が ? "

 大木は思わず、不可解な疑念に捉われながら呟いた。

 しかも大木は、その治子が誰かを待つらしい様子の中に、明らかな不倫の匂いを感じ取っていた。大木は体中の血が逆流する思いの中で熱くなりながら、しかし、なぜか奇妙に、自分を失う事はなかった。何かの力が働いて、冷静に自分をそこに押し止め、真相を突き止めよう、という思いの中にいた。

 舞台の上にいる治子はだが、そんな大木に気付いてはいなかった。しきりに舞台の奥を窺がっていた。そのうち急に、治子の表情が生き生きと輝いて「三谷さん、三谷さん」と叫びながら、舞台の袖の方へ走り寄っていった。

「ああ、ここにいたんですか ?」

 姿を現したのは、大木が経営する大木商事専務の三谷明だった。

 三谷は大木といる時いつも、社長の大木と間違えられるような恰幅のよい体躯をした五十一歳の体に、見慣れたグレイのスーツを着込んで治子に歩み寄っていった。

「お待ちになったのですか ?」

 三谷は言った。

「いいえ、わたしも今、来たばかりなんです」 

 治子は言った。

「社長の葬儀もこれで滞りなく終わりました。あとは大木商事をどのように運営してゆくのか、その点だけが問題です」

 三谷は言った。

「それは当然、あなたにお任せしますわ。わたしは会社経営には素人なので、何も分かりませんから」

「社長がいない方がむしろ、旨くゆきますよ。なんだかんだって、夢みたいな事ばかり言っていた人ですから。現実をしっかり見なければ会社経営なんて出来っこありませんよ」

「わたしは始めからあなたを信用していましたから、大丈夫ですわ」

「ところで、お子さん達は ?」

「奥の部屋にいると思います。こんな霧の深い夜ですから」

「さっき、ラジオで言っていましたよ。霧の夜にはセックスが最適なんです、なんてね」

「わたしたちもそろそろ行きましょうか」

「そうですね。今夜はこの霧の中で、ゆっくり二人だけの愛を楽しみましょう」

" これは現実なんだろうか ? "

 大木は怒りも忘れていた。

 

 


遺す言葉 237 小説 夢の中の青い女 他 骸骨のうた

2019-04-14 12:31:00 | 日記

          骸骨のうた(2019.4.2日作)

 

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

   歩くたんびに 骨が鳴る

   ギイコタン ギイコタン

   だけど昔は この俺も

   人間様と おんなじた゛ 

   丸いお眼々に 可愛いお口

   エクボがちょっぴり いかしてた

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

   ーーーーー

   ギイコタン ギイコタン 

   おいらは骸骨 肉がない

   骨の間を 風が吹く

   ギイコタン ギイコタン

   だれがおいらを こう変えた

   心忘れた 人の世の

   巷に未練が あるのじゃないが

   夜更けに墓場を 抜けて来た

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

 

 

         -----

         (3)

 

 硫酸がこのすえたような、ハンカチを当てていてもその上から鼻を突いて来る、強烈な匂いを発散しているのだろうか ?

 それとも、早くも街の中には死体の山が築かれているのだろうか ?

 霧の夜には死人が多く出ると言う。

 その死体が臭気を発散しているのだろうか ?

 霧の夜に死人が多く出ると言うのは、霧が人々の口を塞いでしまうためばかりではないのではないか。現に自分がそうではないか。この知り尽くした新宿の街の中で、奇妙に不安になっている。不安になる理由など何もないのに・・・・・。

 この霧が晴れればまた、いつもの日常が戻って来る事は充分に理解している。霧の中で駅がなくなってしまう訳ではない。駅へ行って電車に乗れば、一時間足らずで自宅へ帰る事が出来るのだ。

 それでいて、この、深い穴の中へ落ち込んでゆくような奇妙に不安なな感覚は、いったい何なんだ ろう ? 霧の中で人々との交流が断たれてしまっているせいだろうか ?

 そう言えばさっき、ラジオで言っていた。

「こんな霧の深い夜には、厳重に戸締りをして、愛し合う者同士、抱き合って眠るように気象庁では呼び掛けています」

 ある識者はこうも言っていた。

「霧の深い夜にはセックスが最適なんです」

 セックスは体と体で相手を確かめ合う事が出来る。たとえ、視界をふさがれていても、言葉を遮断されていても、他者との交流を持つ事が出来る。そして、その肉体で確かめ合う喜びは、このような孤独感に満たされた夜にこそ、一層、大きくなるに違いないのだ。 恋人たちは今、誰もみんなが、公園のベンチで、路上の片隅で、熱い思いのセックスにふけっているのだろうか ? たぶん、それがこんな寂しい夜には最良の方法なのだという事を彼等は本能的に知っているに違いないのだ。

 大木は一人、この深い霧の夜の中を歩きながら、俺はだが、孤独ではない、と思う。

 自分には愛し合い、信じ合う事の出来る家族がいる。新宿駅で国電に乗り、四十分程すれば、その家族が住む街に着く事が出来る。

 帰る場所もあれば、信じ合える人間もいる、その思いが、霧の中を歩きながら、奇妙な不安感に満たされて来る大木の心を支えてくれる。

 大木はなお、一寸の先も見えない霧の中を歩いて行く。ビルの影が突然、ヌウッと眼の前に現れてはすぐに消えて行く。色彩を識別する事も、形を判断する事も出来ない。総てか乳白色の霧の中に溶けてしまい、そのものの持つ存在感を掴む事も出来ない。

 大木は、「青い女」を出てから左の方角へ行き、最初の信号を右に折れ、その突き当りの信号を今度はまた左へ折れて行く、というように、たとえ、周囲の状況が見えなくても駅への道は熟知しているつもりでいた。そして、確かに最初の信号を右に曲がった。その道を真っ直ぐ歩いて行けばまた、信号に突き当たるはずだった。ところがこの時、大木の感覚の中では奇妙な現象が起こっていた。自分がまるで反対の方角へ歩いて行くような不思議な錯覚に捉われていた。自分が次第に駅から遠ざかっているような気がしてならなかった。しかも霧はますます濃度を増していた。粘り付く感触があからさまにぬめぬめと感じられた。大木はだが、奇妙な感覚の中でこの感覚に従えば、自分はますます駅から遠ざかってしまう、と言う気がして、自分を納得させながら歩いて行った。

 霧の臭気はさらに強くなっていた。その臭気で思わず咳き込んだ。

 眼が染みるように痛かった。

 硫酸のせいに違いない・・・・・。

 突然、眼の前、霧の中に月の暈のように溶けた明かりが見えて来た。

 大木は信号かと思い、進んで行った。するとそれはまた、同じ距離に遠退いた。

 硫酸に傷め付けられた眼の錯覚だったのだろうか ?

 大木は不安と共に呟いた。

 信号灯はいったい、どうしてしまったんだろう ?

 ことによるとあるいは、自分が錯覚だと思っていたあの感覚が、実は正しい感覚だったのてはなかったのか ?

 霧のために正常な判断力さえもが狂わされてしまったのだろうか?

 それとも、酔いのため ・・・・・?

 大木はしばし、霧の中に立ち止まっていた。

 新宿駅は霧の中に溶けてしまったのだろうか ?

 それからまた、トボトボと歩き出した。自分はいったい、何処へ行くのだろう ?

 この時大木には、自分の家が、家族との距離が、何故か無限に遠くに感じられて、自分が闇の中に落ちて行くような感覚に捉われた。孤独感が更に増して、深まった。

 この深い霧の中、今、自分の周囲には誰もいない。自分は霧の中にただ一人、孤立している。いったい、この霧はいつ晴れるのだろう ?

 大木はそれでもトボトボ歩いて行く。すると今度は大木の前に、林立するビルの影がおぼろげながらにも見えて来た。おや ! と大木は思った。あれは新宿駅の建物ではないか・・・・・

 ようやく安堵の思いで呟くと、なおも勇んで歩いて行った。

 それにしても、ビルというビルの建物の明かりがことごとく消えているのは何故なんだろう ? やっぱり、この深い霧のせいでみんな、帰ってしまったという事なのだろうか ?

 さっきまでは全く見えなかったビルの影が今では、おぼろげながらにも見えてて来るのはひょっとしたら、霧が少しずつにでも薄くなって来ているという事なのだろうか ? もし、そうだとすれば、これに越した事はない。

 今度は眼の錯覚などではなかった。歩いて行く大木の方へビルはどんどん近付いて来る。

 気が付いた時には大木は、林立するビルの谷間に立っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   


遺す言葉 236 小説夢の中の青い女 他 時よ 止まれ

2019-04-07 11:51:54 | 日記

          時よ 止まれ(2019.4.1日作)

 

   時よ 止まれ

   願わくば

   父や母の笑顔の輝いていた

   あの頃に戻してくれ

   わが青春の輝いていた

   あの頃に戻してくれ

   今はただ 失われてゆくだけのもの

   あの幾多の恋

   愛した人の数々

   記憶の底に堆積する

   あの事 この事

   喜び 悲しみ 怒りと嘆き

   すべては幻

   遠い日の還らぬ夢

   独りたたずむ時の流れの中で

   過ぎ去りし日々の記憶は

   ふたたび 還り来ぬ道ゆえに

   いよいよ鮮やかに 懐かしく

   日ごと 迫り来る時の終わりは

   重たく心を覆う

 

 

          -----

 

               (2)

 

「でも、あまり霧が濃くなれば、国電だって止まってしまう事もあり得るわ」

「霧の夜には、街中に死人の山が出来るんですって。さっき、テレビで言ってたわ」

 健康そうな女の客が言った。

「街を歩く人が、濃い霧の中で息が出来なくなって、窒息してしまうんだって言ってた」

 男の客が続けた。

「だから、霧の夜が明けた朝には、街角のいたる所に出来た死人の山を片付けるのに、衛生局では清掃車を出して、死体を寄せ集めて歩くんですって」

「テレビで行ってたの ?」

 バーテンダーが聞いた。

「そう。さっき、街頭のテレビが言ってたわ」

「嫌だわ。そんなにならないうちに、早く家へ帰りたいわ」

 しのぶが大袈裟に身震いをしてみせた。

「いよいよになったら、ここへ泊まればいい」

 大木は楽観的な声で言った。

「でも、霧は悪魔のように、僅かなドアの隙間からも押し入って来るんですってよ」

 女の客が大木を見て言った。

「街中にあふれた霧は、それ自体、悪魔のように膨張して、行き場がなくなると、ドアというドアの小さな隙間を見付けて家の中に忍び込むんだって。だから、厳重に戸締りをして、隙間という隙間にはガムテープを貼るようにって、テレビで言ってた」

 男が言った。

「そんなの、嘘だよ。嘘に決まってるさ」

 バーテンダーが笑い飛ばした。

「そうだよ。嘘に決まってるさ」

 男も言った。

「霧の中には、濃い硫酸が混入している模様ですので、街を歩く人は水中眼鏡などで眼を防禦し、ガーゼを三枚重ねにしたマスクをするように、都の衛生局では注意を呼び掛けています」

 ラジオの男性アナウンサーの声が聞こえた。

「なお、都合の付く方は、一刻も早く帰宅をして、冷水で眼を洗い、うがいをしてやすむようにとの事です」

「しのぶちゃん、あなた帰っていいわよ。チーフ、看板の灯を落として。今夜はもう、閉めましょう。美紀ちゃん、亜佐ちゃん、さっちゃん、あなた達も早く帰りなさい」

 小太りの中年のママが言った。

「どうやら、早く帰って寝た方が良さそうだなあ」

 四十代の年齢を感じさせるチーフが言った。

「大木さん、お車ですか」

 ママが聞いた。

「いや、飲む時は車に乗らない」

「ああ、そうね。でも、大木さんの所は国電で江戸川を越えた向こうだから、安心らしいわ」

「うん、霧は都内だけのようだしね」

「そうらしいわ。だから、家が都内でない人は早く帰った方がいいのよ」

 しのぶが言った。

「おれ達は都内だから、何処にいても同じだ」

若い男が投げ遣りに言った。

「でも、早く帰って、厳重に戸締りをして寝た方がいいわよ」

 しのぶが諭した。

「大木さん、追い出すようで御免なさいね」

 ママが謝った。

「いや、いいんだ。こんな夜じゃ仕方がないよ」

 大木はゆっくりとスツールを降りた。

 酔いのせいで足元がふら付いた。

「大丈夫ですか ?」

 ママがカウンターの中から、心配げに見守って聞いた。

「大丈夫、大丈夫」

 大木はわざとしゃんとした振りをして応じた。

 ドアを押して外へ出ると階段を上った。

 地上へ出ると、街はまさに霧一色だった。

 霧の中にすべてが溶けていて、所どころに街灯の明かりや、ネオンサインがぼやけているのが見えた。

「確かにこれはひどい霧だ」

 大木は思わず呟いた。

 人々の動く姿がほんの近くにいても、黒く影絵のように見えた。

 霧の幕が遮断してしまうのか、声や物音はまるで聞こえなかった。

 車のヘッドライトが人魂のように、霧の中に蒼白く滲んで消えて行った。

 霧の中には多量の硫酸が含まれているという、ラジオのアナウンサーの言葉を思い出して大木は、ハンカチを取り出して口に当てた。

 体中に霧の湿気が粘り付いて来るようで、たちまち人間にも黴が生えてしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。

 大木は狭い路地を抜けて広い通りへ出た。

 普段なら、当然、何処の通りか分かるはずだったが、この濃い霧の中では、何一つ正確な判断が出来なかった。まるで見知らぬ土地の街中を歩いているかのような感覚だった。

 むろん、駅の方角の見当は付けてある。新宿駅のあの巨大な建物なら、いかなこの濃い霧の中でも、不夜城のように浮かび上がっているに違いない。 

 大木は不意に眉を寄せた。

 粘り付いて来る霧の異様に臭いのは、霧の中に含まれている硫酸のせいだろうか ?

                                                       

 

 

   

 


遺す言葉 235 小説 新宿物語(3) 夢の中の青い女 他

2019-03-31 11:00:52 | 日記

          眼の前 それが総て(2019.3.11日作)

 

   禅の世界では

   芥子の実 一粒の中に

   全宇宙が包含されるという

   事実 その通り 

   今 眼の前にある

   その事にのみ 心を結集

   集中すべし 他の事

   関係 必要なし

   今 眼の前にある事実

   それのみが 総て

   自身の今

   眼の前の今 を 全う出来ずして

   他の何が出来るという  ?

   世間の些事 愚行 に

   惑わされるな 今が総て

   今が世界の中心 

   眼の前の今を突き抜けた 先 

   その先に 世界は開かれる

 

 

          ------

 

 

          夢の中の青い女 (1)

 

 

 バーの中には歯切れのよいリズムを刻んで、アルゼンチンタンゴが流れていた。

 ロック全盛の現在、タンゴとはいかにも時代遅れの感がなくもなかったが、戦後の混乱期に少年時代を過ごした者にとっては、むしろ懐かしく、自分達の音楽だという気さえした。

 大木は多少、酔っていた。カウンターの中のホステスを相手に取り留めのない冗談を交わしていた。

 大木修三、四十八歳。現在、都内と近郊に七店のスーパーマーケットを持ち、その日常生活は自信と共に、活力に満ちたものになっていた。自身、そんな生活に格別に、不満を抱く事もなかった。家庭には六歳下の妻と、大学三年生の息子、高校二年生の娘がいる。大木にとって、もし、不幸の忍び込む余地があるとすれば、唯一、大木自身の健康面からに外ならなかった。かと言って、現在、大木が不健康だというのではない。仕事に情熱を注(つ)ぎ込む余りに、つい、無理を重ねてしまう事に問題があった。大木の睡眠時間は一日平均、五時間を切っていた。それだけに、一週間の仕事が終わった水曜日の夜などには、安堵感と共に、深い疲労感の中で全身の筋肉が溶けてゆくような感覚に襲われるのだった。

 大木にとっては、一週間に一度、このバー「青い女」に足を運び、誰に邪魔される事もなく、思いのまま、気の向くままに、寛ぎの時間を過ごす事は、過激で多忙な日常生活の中での、唯一の慰めになっていた。

 バーの中には大木の他には客はいなかった。この新宿の繁華街にある店としては珍しい事であった。時計の針は十一時十三分を指している。店の中には多少の疲労感と倦怠感とがなくもなかった。大木はそろそろ腰を上げようかと潮時を見ていた。

 不意の来店者だった。学生らしい男女が飛び込んで来た。

「わあ、ひどい霧だ。一寸先も見えやしない」

「髪も服も湿気を帯びてびっしょりだわ」

 二人は、突然の災難を楽しみ、面白がっている風だった。

「霧 ?」

 同年代のバーテンダーが言った。

「うん、凄い霧だよ。あっという間に街中が覆われてしまった。自動車は方向感覚を失ってうろうろしているし、街を歩く人たちは金魚のようにパクパク口で息をしながら歩いている」

「さっきまで、なんでもなかったのに」

 バーテンダーが言った。

「そうだよ。ほんの十分程の間の出来事だよ。ここへ来るのにも道を間違えてしまいそうだった」

 男が言った。

「何か体の温まるカクテルを頂戴。霧の中ですっかり体が冷えてしまったわ」

 女がハンカチで髪を拭きながら言った。

 その髪には細かい霧が雫をつくっていて、仄暗い照明にキラキラ輝いた。

「キッス、オブ、ファイヤーって言うのはどう ?」

「火の接吻 ? いいわね」

 女は悪びれずに言った。

「霧になるなんて、天気予報ではまったく言わなかったのに」

 男が不満気に言った。

「でも、霧ってちょっと悪魔的ね」

 丸顔の健康そうな女は、カクテルを口元に運びながら言った。

「ほら、聞いてみな」

 有線放送のアルゼンチンタンゴに代わって、ラジオの男性アナウンサーが放送している声を耳にした男が言った。

「ただ今、東京都内全域に於いて濃い霧が発生しています。霧は明日の明け方まで続く見透しです。この濃い霧のために国電は都内全線に於いて、時速十キロのノロノロ運転を行っています。なお、車の事故が多発している模様ですので、運転される方はくれぐれも御注意下さい」

「全くだ。これじゃあ、車の運転なんて出来やしないよ」

 男は叫ぶように言った。

「なんでまた、霧なんか出たんだろう ?」

 バーテンダーが言った。

「とにかく、急に気温が下がって来たと思ったら、あっという間だったわ」

 女がカクテルのグラスを口に運びながら蒼白い顔のまま言った。

「今夜、帰れるかしら ?」

 大木の前にいたホステスのしのぶが言った。

「大丈夫だよ。ノロノロ運転でも国電は動いているって言うから」

 大木は言った。   続く

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                     

 

 


遺す言葉 234 小説 影のない足音(完) 他 うたかた

2019-03-24 10:24:36 | 日記

"          うたかた(2019.3.4日作) 

 

   わたしはもう

   わたしの世界だけにしか生きない

 

   あれもいらない

   これもいらない

   長い人生の道を歩いて来て

   すべてはうたかた

   夢のように消えていった 

 

   わたしにとって一番大切なものは

   今

   わたしの心

 

   わたしの心の命ずるままに

   わたしはわたしの残された

   短い人生の日々を生きる

 

   そんな日々を生き切った時にこそ

   わたしには 人の世の最期を迎えて

   真実の幸せ 心の充足が

   訪れるだろう

 

   あれもいらない

   これもいらない

   すべてはうたかた

   消えてゆくわが身が望むものは

   心の楽園 孤独な時間

 

   それだけが

   わたしの慰め

 

 

 

          -----

 

 

          影のない足音(8) 

          

 

 無論 明け方に近い夜の中で男たちが何をしているのか、分かるはずのものではなかった。しかし、わたしの意識の中では、薄い紙が一枚一枚積み重なって確かな体積を作るように、いくつかの出来事が重なって、誰かに付けられている、といった思いが次第に強く、確かなものになって来ていた。

「いったい、あいつらは何をしようっていうんだ」

 わたしは正体を明かさない男たちへの腹立たしさで、思わず声に出して言った。と、同時にわたしは、わたしの前に姿を見せなくなった女への、突然に込み上げて来る激しい怒りを抑える事が出来なくなっていた。 

「あの女が、誰かに俺を売ったに違いない」

 もし、その場に女がいれば、思いっきり、女を殴り倒してやりたい、という、抑え難い欲求に突き動かされていた。

 しかし、女がわたしの前に姿を現す事は、もうない・・・・・

 わたしはトイレを出ると布団の上に戻って坐りこんだ。

 女に対する怒りと復讐心がさらに募った。

 自分の方で誘惑しておきながら、たかが家のある場所を探られたぐらいで、これだけの仕打ちをして来やがる !

 湧き上がる女への憎しみと共にわたしは、今度は女が来るのを待つだけではなく、自分の方から積極的に女に近付いてゆこうと考えた。女が何処に居るのかは分からなかったが、多分、今でも深夜の街で、男たちを漁っているのに違いないーーー

 当然ながらに、女に近付こうとすれば、正体の分からない男たちが゛更に迫って来るだろう。だが、それでも構わない。それでなくても、すでに誰かに付け回され、見張られているのだ !

 わたしはあれこれ考えながら、夜が明けるまで眠りに就く事が出来なかった。

 朝になったら、護身用のナイフを買いにゆこう......

 身を守るためには、何か武器を持っていた方がいい、と考えた。

 翌朝、わたしは十時過ぎに布団を抜け出して、いつも通りの身支度をすると外へ出た。

 

          -----

 

「おい、これどうだ ?」

 わたしは街の金物店で、その日の午後に買ったナイフを白木に見せた。

 店は開店前の準備中で、客はいなかった。

「なにすんだ、そんなもん ?」

 白木は怪訝な顔をして言ったが、すぐにわたしの手からナイフを取った。刃渡り二十センチはある、ズシリとした重みを伝えて来る豪華なナイフだった。

「いいナイフだろう ?」

 わたしは白木の手からナイフを取り返すと、そのまま、柄と刃(やいば)の接点にある黒く光る石のボタンを押した。

 白い何かの骨で出来た柄からは、鋭く小気味良い音を立てて瞬時に、白銀に輝く見事な刃が飛び出した。

 白木は少し驚いた風だったが、

「変な事はしねえでくれよ」

 と言った。

「心配すんな、迷惑はかけねえよ」

 わたしは自身に満ちて、満足感と共に言った。

 ---わたしは考えた。これから、どんな風に行動すればいいんだろう ? 何処へ行けば女に合えるのか ?

 取り合えず、また「蛾」へ行ってみようと考えた。女が来るかどうかは分からないが、辛抱強く待ってみる事だ。あちこち探し回っているうちには、また、女に出会う機会もあるだろう・・・・・

 新宿はわたしに取っては、自分の家の庭にも等しい場所だった。

「蛾」には二度、三度と足を運んだ。

 女は来なかった。

 わたしが気にした二人連れの男たちが姿を見せる事もまた、なかった。

「刑事みてえな男たちは、まだ、うろうろしているか ?」

 わたしは白木に聞いた。

「いや、このところ見えねえな」

 白木はそんな事など忘れていたかのように言った。

 わたしは深夜に帰宅すると、何度もアパートの自分の部屋から外の様子を伺った。誰かに付けられていなかったか ?

 だが、格別に変わった事はあの夜以来、依然として、何も起こらなかった。怪しい人影を見る事もなくなった。わたしは何故か急に静かになった思いのする身辺に、拍子抜けの感を抱いた。いったい、訳の分からないあの男たちはなんだったんだろう ?

 二ヶ月近くが過ぎても何も起こらなかった。かえってわたしは、その事に不自然さを感じて、もう一度、女の家を訪ねてみようかという気持ちになった。訪ねて行けば、何かの手掛かりが得られるかも知れない。

 その土曜日、わたしは午前零時まで「蛾」で過ごし、そのあと、タクシーを拾って女の家へ向かった。上着の内ポケットにはナイフが忍ばせてあった。

 この前と同じように大通りでタクシーを降りると、すでに馴れ親しんでいる小道に入った。右手にはポケットから取り出したナイフが、刃を柄に収めたまま握られていた。もし、身辺に危険が迫れば、いつでも使う心構えが出来ていた。

 わたしが歩いて行く深夜の路上にはだが、以前のような、わたしの神経を逆なでするような出来事は何一つ起こらなかった。暗闇で蠢く人影もなくて、そばだてた耳に聞こえて来る足音もなかった。暗い外灯の明かりの下で静まり返った小道が、大方の家々の門灯が消された夜の中で、ひっそりとして続いているのが見えるだけだった。

 

          -----

 

 わたしはある種の虚脱状態の中にいた。急に静かになった身辺がかえって女の不在感を強く感じさせた。事改めて、女を探すつもりはなかったが、わたしの心の隅の何処かには、まだ、女の姿を追い求めるものがあった。わたしはあちこちのバーをしきりに飲み歩いた。

 五月雨が続いていた。わたしはまだ、白木がチーフを務めるバーで働いていた。

 雨のせいか客は少なかった。なん組かの客を送り出すと、カウンターには若い男女の一組がいるだけになった。わたしは手持ち無沙汰になって、馴染みの客が置いていった古い週刊誌を手に取った。

 グラビアは相変わらず、芸能人のスキャンダルや若い女性のヌードだった。わたしは気の乗らないままにページをめくっていった。

 そのページの中程では、三十二歳の女性服飾デザイナーが、自分を裏切った男を殺害し、自宅の裏庭に埋めて置いた、という事件が報じられていた。死体は一年以上が経過し、掘り出された時には腐乱していたーーー。

 警察では行方不明の男の捜索願が出されるのと共に、男の行方を捜していたが、その捜査線上に浮かんだのが男と交際のあった服飾デザイナーの女だった。そして、その証拠を固めた時、女は姿をくらましていた。

 警察が女を逮捕したのは、茨城県大洗の友人宅での事であった。女の告白によって、すべてが明らかになった。

 わたしは世間にはよくある話しだと思いながら、大した関心も抱かずにページをめくっていった。そしてわ、たしは息が詰まった。ーーーわたしの探していたあの女の写真が大きく掲載されていた。それは見誤る事のないほど鮮明な犯人の顔写真だった。

 

                              完

 

 

       

   


遺す言葉 233 小説 影のない足音 他 道祖神

2019-03-17 12:05:25 | 日記

          道祖神(2018.3.15日作)

 

   宗教 神 の 名の下

   いかに多くの 殺人 犯罪 争い

   悪徳 悪行 が 行われて来た事か ?

   絶対的 全知全能の神 など 存在しない

   宗教 教会 聖職 すべて 空疎な

   絵空事 砂上の楼閣 人間は

   絶対的孤独者 孤独な存在 その事実を

   まず 認識 自身を納得させる事

   人間が縋り得る存在 人間自身 その自覚の下

   人がもし 神を必要とするものならば 神は

   自身の心の内 心の中で 静かに育むべき存在

   それが神 わが心に住む神 わが心に育む神

   その神が人間 自身を統御する 自分を律する

   しかし その神 その存在の絶対的条件 

   悪徳の神 人間 人を 苦難 苦痛 苦悩

   悲惨の道に追い込む神であっては ならない

   人が縋り得る存在 神は 人間 人の世 人の世界の

   守護 人の世界を 律する為のもの 

   争い 諍い 貶め 人各々に 苦難 苦痛 苦悩 を

   もたらす神であっては ならない

   人の心を蹂躙する神であっては ならない

   金銀宝飾 巨大な力 権力 楼閣 必要ない

   神には無用 神はひそかに 静かに 人々 人間

   各々を 見えない場所で支える存在 隠れた存在

   それが神 真の神 ひなびた片田舎 草生す道端

   風雨 直射の日光 陽射しを浴びて ひつそり佇む

   道祖神 その姿 それこそが真の神の その姿

   人々 人間 人の世が生み出した 真の神

   その姿

 

 

          影のない足音(7)

 

 わたしは咄嗟に、先程 、同じ場所で動いたと思った人影を思い浮かべた。

 やっぱりあれは、眼の錯覚などではなかったのだ。誰かが俺の後を付けていたんだ !

 だが、もし、そうだとしたら、いったい、なんの為に・・・・?

 ふと、一つの情景が思い浮かんだ。

「あんたの後を付けたんだ」と、わたしが言った時、思い掛けなく女が見せた、凍り付くような表情だった。あるいは女は、身辺を探られたくない為に、俺をどうにかしようとしているのだろうか ? だが、仮にそうだったとしても、いったい、何故 ?

 俺に知られたくない、何かの秘密を隠し持っているのだろうか ?

 しかし、最初に女の後を付けた時に聞いたように思った、あの足音は、すると、どういう事になるんだ ?

 わたしは湧き起こる疑念と共に、暫くは人影の通り過ぎた三叉路を見つめ続けていた。

 しかし、再びそこに動くもののない事を確認すると、足音を殺し、用心しながらゆっくりと歩いて行った。もし、誰かが物陰から飛び出して来た時には、いつでも動けるように身構えていた。

 ようやく人影の動いた三叉路まで来た時、だが、そこでもやはり、何事も起こらなかった。静まり返った夜の中に、外灯の乏しい明かりが描き出す、ほの暗い道が続いているのが見えるだけだった。

 わたしは、なんとはなしに覚える安堵感と共に、大通りへ出るとタクシーを探した。なかなか来ないタクシーを探しながら二十分程歩いて、ようやく空車を捕まえる事が出来た。

 

          -----

 

 身辺に、尋常ではない、と明らかに分かる気配を感じるようになったのは、それから三、四日経ってからだった。わたしが働いているバーで白木が、

「おまえ、何かやったか ?」

 と、カウンターの中でわたしに囁いた。

「なんで ?」

 わたしは白木の言う事の意味が分からなくて聞き返した。

「今入って来たあの二人連れを見ろ。刑事(デカ)じゃねえかと思うよ」

「刑事 ?」

 奥まったカウンターの隅に席を取った男たち二人は、わたしの眼には平凡なサラリーマンのようにしか見えなかった。

「うん、どうもここ二、三日、店のまわりで変な男たちがうろうろしている」

 白木はわたしと眼を合わせる事なく、軽い世間話しをする時のように、何気なさを装って言った。

「別に、刑事に付け回されなければなんねえような事はしてねえな」

 わたしは言ったが、そう言ったすぐ後で、冷たいものが体の中を走るのを意識した。女の後を付けた夜と、それに続く二度目の夜の出来事が脳裡をよぎった。

 だが、客たちのいる前で、いつまでもそんな話しをしているわけにはゆかなかった。その話しはそれきりになった。

 白木の怪しんだ男たちは、ピーナッツのつまみとビールでかなりの時間ねばっていた。たいした金は使わなかった。しきりにタバコを燻らせていて、話しのはずむ様子もなかった。閉店前三十分程に店を出て行った。

「刑事だと思わねえか ?」

 白木が、また言った。

「うん、よく分かんねえけど」

 わたしは曖昧に答えた。

 刑事か、それ以外の者なのか、判断が付き兼ねた。はっきりしている事は、女に絡む事でわたしの身辺に何かが起こっているのでは、という事だった。女がわたしに何かを仕掛けようとしているのか ?

 それから更に三、四日経っていた。店が終わった後わたしは、白木と連れ立ってゲイ、バーへ行った。代々木のアパートへ帰った時には、午前三時を過ぎていた。

 多少の酔いを覚えていた。古びた木造アパートの部屋の扉を開け、靴を脱ぐと座敷に上がってそのまま、四畳半に敷かれた万年床に倒れ込んだ。

 どれだけの時間眠ったのか、覚えがなかった。尿意に促されて眼を覚まし、軽い頭痛を意識しながら、明かりを付けるのも忘れて暗い中でトイレに入った。

 終わった後で何気なく小窓の外に眼を向けてわたしは、自分が夢の中にいるかのような錯覚に捉われた。アパートの斜向かいの小さな四つ角に二人の男たちが立っている・・・・

 わたしはまだ眠気の取れない眼を瞬(しばたた)かせ、もう一度確認するように視線の先に注意を凝らした。

 次の瞬間、わたしは頭痛を伴った、まだ醒め切らない酔いが体中の血の引く思いと一緒に、一気に引くのを意識した。

 外灯の明かりの下にいる男たち二人のうちの一人は、手持ち無沙汰の様子でしきりに三、四歩、歩いては、同じ場所を行ったり来たりしていた。小柄でジャンパー姿の、何処にでもいるといった感じの男だった。あとの一人は、やや小太りな体に黒っぽく見えるスーツを着ていて、光りの鈍い外灯の明かりの下でタバコを吹かしていた。二人とも四十歳ぐらいに見えた。バーにいた男たちとは明らかに違っていた。

 わたしはだが、男たちが二人だという事に、厭なものを感じた。白木が言った言葉を無意識のうちに思い出していた。あの時も男たちは二人だった・・・・・。