田坂源吾は仕事を終え、よく寄る場末の居酒屋・魚飛(うおとび)の入り戸を開けた。
馴染(なじ)み客と見え、魚飛の主人、竿田(さおた)は、田坂が戸を閉めた瞬間、手馴れた仕草でキープしてある田坂の一升瓶を手にした。
「いつものですね…」
竿田の言葉に田坂は軽く無言で頷(うなず)いた。それを見て、竿田は瓶の栓(せん)を抜くと長コップに液体を注ぎ入れた。そして、これも手馴れた要領で氷の幾つかを放り込んだあと、少しの冷水で割った。一連の所作は実に優雅で早く、田坂が腰を下ろしたカウンター席の前へゆっくりと差し出して置いた。長コップの中味は薄黒い液体の黒酢だった。黒酢の水割りである。田坂は意識せず、さも当たり前風に手にすると、三分の一ほどをグビグビ…っと一気(いっき)に飲み干した。そして、フゥ~~! とひと息、吐(は)きながら満足げな顔をした。これが、いつも繰り広げられる田坂の魚飛での幕開けだった。そうこうするうちに、竿田により小奇麗(こぎれい)に盛り付けられた美味(うま)そうな小皿の突き出しを竿田が出す。箸は竿田が拘(こだわ)って入手した割り箸(ばし)である。間伐材を利用して知人が作った野趣あふれる割り箸だ。使用後の割り箸は、山で木灰としてリサイクルされ、樹木の肥料となる。唯一(ゆいいつ)、田坂が口にする酒的なものは、このアルコール消毒された割り箸くらいで、田坂は一滴(いってき)も酒を口にしたことはなかった。もっぱら、黒酢の水割りやお湯割りに田坂は満足感を覚えた。二杯が限度だったが、酔いもなく、完全な薬膳だった。何を隠そう、居酒屋・魚飛は、酢通(すつう)が満足感を味わう異色の居酢屋(いずや)・魚飛だったのである。
THE END