人の記憶ほど曖昧(あいまい)なものはない。
「いや、いやいやいや…確かに、もう一切れあった!」
横川家では、朝から残っていた一切れの銀ムツの味噌焼きを巡り、口喧嘩(くちげんか)が勃発(ぼっぱつ)していた。横川渡×妻、江美による壮絶な口バトルである。
「何、言ってるのよっ! 昨日の夕飯に食べたでしょっ!」
「馬鹿なっ! それは先週の話だろうがっ!」
「またまたっ! 昨日よ?! もう、忘れたのっ!」
「そうだ、昨日だっ! 忘れるかっ!」
猫のタマは、偉いことになったぞ…と二人の声に驚き、フロアから飛び起きると、スタスタ、奥の間へトンズラを決め込んだ。
「あなたの記憶違いよっ!」
「そんなことあるかっ! 俺の記憶は確かだっ!」
ついに争点は記憶の信憑性(しんぴょうせい)が問題となってきた。
「じゃあ、言わせてもらうけど、昨日のオカズは何だった?」
江美は完全な不信感を露(あら)わにした。
「オカズ?! オカズは、海老フライ・・笹かまぼこの板わさ・・それに…じゃないかっ!」
「ほら! それに、なに? 味噌焼きがあるじゃないっ!?」
「んっ? …いや、いやいやいや、味噌焼きはなかったっ! なかった! …なかったはずだ」
「あったわよぉ~!」
「そうだったか? …」
横川の声は次第に小さくなった。このとき、横川は江美の言葉でおやっ? と自問自答していた。そうだ、食べたかっ? 食べたな…と。だが、一家の主(あるじ)としては、急に退却するのも不甲斐(ふがい)ない。加えて、男のメンツもあった。横川は記憶違いを内心で実感したあと、何かいい手立てはないか…と探った。
「あっ! いけない、いけないっ! 平田に電話しないとっ!」
横川はタマと同じく、自室へトンズラを決め込んだ。
THE END