水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

隠れたユーモア短編集-31- 程度

2017年08月19日 00時00分00秒 | #小説

 お湯の温(ぬる)めと熱(あつ)め、味の薄めと濃いめ、同じく味の甘めと辛(から)め・・など、人々の好みには程度の差がある。いや、それは味覚だけには留(とど)まらない。あらゆることに人々の程度の差は生じるのだ。
 たとえば、音量の感じ方ひとつとっても、大きめ、小さめ・・と好みの程度は違う。酒量でも、猪口(ちょこ)に数杯のほろ酔い加減で十分…という程度の人もあれば、いやいやいや、三合は…と、暗に調子三本を程度とする人もある。このように、人が感じる程度の違いには、隠れた人間性の違いが秘められているのだが、それは表立っては分からない。ただ、お年寄りが感じる音の程度とかは、老人性・・ということもあるから例外としなければならないだろう。
「こんちはっ! 三河屋でございますっ!!」
「…ああ、三河屋さんか。家内は婦人会で出かけていてね…。どうなんだろうね?」
「なにがです?」
「いや…いつも家内が注文するやつだが…」
「あっ! それは日によりますっ!」
「というと?」
「冷蔵庫の中の程度でしょうなぁ~。こちとらには、ちょいと…」
 三河屋は困り顔になった。えらいときに来た…というのが本音(ほんね)である。
「今、冷蔵庫、覗(のぞ)いてみるよ。待ってくれるかい?」
「いや、また寄りますんでっ!!」
 長びくな…と見た三河屋は、引きどきの程度を心得ていて、スゥ~っと玄関戸を開けて去った。なにごとにも程度が大事だということである。

                             


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