白樺(しらかば)並樹は、名が体を表すとおり、実直な庭師である。この男、妙なことに拘(こだわ)りを持っている。一日の仕事内容を、すべて偶数奇数で決めるのである。例えば、¥1,000で昼のコンビニ弁当を買い、おつりが偶数なら偶数本の樹木を庭に植え、奇数なら奇数本を植えつける・・といった類(たぐ)いだ。そんなことで、施主を満足させる造園が出来るのかという疑問も生まれるが、白樺はそれを見事に成し遂げ、多くの収入を得ているのだ。変人か? といえば決してそうではなく、ある種の天然ながら、世界的にも数少ないカリスマ庭師だった。外国の場合は、ゴルフ場の設計も手がけ、いや、完成まで拘り通した・・と言った方がいいだろう。造園中、偶然、最初に目にとまったPAR5の文字で、このホールには五本をドコソコに…と配置して指示し、完成させたくらいだ。それがまた、見事に絵になって、プレヤー達を満足させたのだから驚きである。こんな白樺にも弱点があった。循環小数、分かりやすく言えば、円周率3.141592653589793238462643383279…とかの割り切れない数字に弱かった。偶数奇数に拘るあまり、ずっと計算を続けたこともある。
「親方、もう日が暮れます…」
弟子職人の一人が呆れ顔でそう言って促(うなが)した。白樺は、頭で計算をし続けていたのである。
「おっ! そうか…。今日は、やめだ! 明日(あした)、明日! 撤収~~!!」
白樺は叫んだ。このように、いっこう指示されないまま一日が無駄に過ぎ去ったケースの造園もあった。恰(あたか)もワンカットに拘る映画監督と似通っていた。多くの弟子職人は仕方なくガヤガヤ…と引き揚げた。ついに、偶数奇数への拘りが高じた白樺は、数学の権威者の大学教授の助手になっていた。異色の庭師を兼務する助手だった。
THE END
ここは天界である。朝からワイワイと賑(にぎ)やかにざわついているのは、天界の神さまの子供達だった。
「はいはい! 皆さん、お静かに…。あなた方はこれから天界を背負って立つ神さまの卵なんですから、出来の悪い人間の真似をしてはいけませんよ。いつも、楚々(そそ)として冷静であることに努(つと)めなさい」
「はぁ~~~いっ!!」
元気のある大きな返事が雲の建物内に響いた。建物は周囲すべてが雲の壁で出来ていて、ところどころに開(あ)いた窓からは下界の様子を望むことが出来た。
「では、さっそくですが、新しいお天気係を決めることに致しましょう」
神さまが子供達に言った。実は、数年前からお天気係が病気で雲隠れしていたのである。神さまの世界の数日は下界の数年に当たる。感覚が、まったく異なるため、ここ数年、下界では季節外れの天変地異により被害が続出していた。神々は、このままでは捨て置けぬと深く憂慮(ゆうりょ)され、教育係の神さまに指示されたのだった。天気係は古来より神さまの子供達に任(まか)されていたから、勉強前に決める話が教育係の神さまから出たのだった。決定はすぐ、なされた。それも全部の意思によって、である。人間のような6割程度の投票者により決定されるといった無意味なことは神さまの世界ではなかった。
「では、今日からお天気係をやります!」
新しいお天気係はみんなの前にスゥ~っと進み出て、軽く挨拶をした。
その瞬間から、下界のお天気は、ほぼ平年並みへと戻(もど)された。ほぼ、というのは、不馴れによる不手際のためである。
余談ながら、病気で雲隠れしていたお天気係が復帰してからのお天気は、完璧(かんぺき)に修復されたということである。めでたし、めでたし…。
THE END
世の中は、まあまあで成り立っている・・と考えて生きているのが商社オーロラのキャリア・ウーマン、城永(しろなが)日沙代である。小難(こむずか)しく言えば、━ すべからく中庸(ちゅうよう)をもって良しとす ━ という格言どおりに生きている、ということになる。彼女には押しも押されぬ会社の顔として、多くの契約を纏(まと)め、他社との良好な関係を築いてきた実績があった。頭の切れは抜群で、大手商社の女性社員としては破格の営業部長職に就任して久しかった。まあ、男女雇用機会均等法の力が少なからずその登用に力を貸したということも、なくはない。そんな日沙代だったが、彼女は次期取締役候補の一人にも上(のぼ)っていた。
「あら? 今日は、まあまあのご出勤ね」
会社の玄関[エントランス]で出食わした販売部長の吉川(よしかわ)学に嫌(いや)みとも取れる朝の挨拶をし、日沙代は営業部へと急いだ。ただ、彼女の言動は嫌みでもなんでもなく、平均値に近いから、まあまあ…と言った言葉だったのである。前日の、いや、ひと月の吉川の出社時間は、日沙代の脳内に格納されていて、言葉の裏には出社時間の平均値が存在していたのだ。日沙代は万事が万事、この調子だった。
「部長、月星商事の株価、どう思います?」
第一営業課長の早川秀男が息を切らしてバタバタと部長室へ飛び込んできた。二日ほど前から俄(にわ)かに月星商事の株価は値上がりしていたのである。その報告にも日沙代は動じなかった。すでに彼女はその訳を分析し、読み切っていた。
「あら! いいじゃない。まあまあよ…」
「どういうことです?」
「吉川君、まあ一週間、待ちなさいよ、反転するから」
「はあ…」
自信ありげな日沙代の言葉に吉川は喉(のど)を弄(いじ)られた猫のように大人しくなり、ゴロゴロ…とUターンした。大空物産の月星商事へのM&A[戦略的合併回収工作]は日沙代蜂のひと刺しで頓挫(とんざ)したのだった。こんなことは朝めし前の日沙代である。
「まあまあだわ…」
自分の読み筋は、ほぼ当たっていた。早川が出て言ったあと、日沙代は部長席に座りながら、そう呟(つぶや)いて好きなアメちゃんを口へ放り込んだ。ひと月ほど前、出張した大阪で、日沙代が偶然、知ったおばちゃんの味だった。
「まあまあだわ…」
この場合のまあまあは、まあまあの味だった。
THE END
ここは国会の衆議院特別委員会である。朝から昼の休憩を挟(はさ)んで、あ~でもない、こ~でもない・・と与野党の論戦は続いていた。ある法律の成立に伴う解釈の相違による、あ~でもない、こ~でもない論争だった。これを見ている国民、いわゆる一般視聴者は、どうたらこうたら言(ゆ)うてるでぇ~・・あるいは、どうのこうのと言ってらい!・・的に冷(さ)めた目でテレビを観ていた。円藤久彦もそうした一人である。円藤は室内の心地よい暖かさで、テレビ中継を観ているうちに、いつしかウトウト眠っていた。
気づくと円藤は議員として衣倍(いべ)総理と対峙(たいじ)して座っていた。
「円藤久彦君…」
委員長の飽きたような声がした。総理が答えて座ったから、仕方なく君を指名する・・感がなくもなかった。名指しされた円藤は一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した。だが、上手(うま)くしたもので、円藤の前机の上には答弁用の原稿があった。何のことか意味はまったく分からなかったが、円藤は質問原稿を棒読みしていた。衣倍総理や大臣達、加えて同じ側の与野党委員が訝(いぶか)しげに自分を見つめる様子が、円藤の目に飛び込んできた。今までと明らかに違う部外者を見るような眼差(まなざ)しだった。
「衣倍内閣総理大臣…」
また、委員長のおざなりな眠い声がした。だがその声は円藤にとって救世主の声だった。部外者を見るような眼差しは消えた。
「あなたはA’の危険性があるとおっしゃる。しかし私達は、そのA’の危険性は国民生活を守る上で仕方がない行為だと受け止めています。もちろん、従来の見解は踏襲(とうしゅう)を致しますが…(略)」
「円藤久彦君…」
委員長は欠伸(あくび)しそうになり、危うく押し止めながら言った。
「いや、そこが違うんです、総理。AがA’を引き起こせば、これはもう、はっきり言って戦闘ですよ。それはダメでしょ!?」
いつの間にか円藤は議員になりきっている自分に気づいた。スラスラと分からないのに言えたからだ。円藤が腰を下ろすと、また委員長のおざなりな声がした。
「衣倍総理大臣…」
「だから、そういう場合は、行かないんですよ」
「行かないなら、それでいいじゃないかっ!」
野党委員から野次が飛んだ。
「静粛に!! 円藤君!」
委員長は、久しぶりにハッキリした声で強めに言った。
「そうですよ、総理。行かないなら、私の解釈と同じじゃないですかっ!」
「衣倍総理…」
「あなたの解釈と私の解釈は違うんです」
円藤は座った席で笑いながら顔を横に振って衣倍総理を見た。総理が腰を下ろした途端、委員長が完全に目覚めた声で言った。
「解釈は同じだと私は思います。不測の事態に対する認識が違うんじゃないですか? …失礼。審議を進めます。円藤君」
「そうですよ、総理。今起きるときだと私も認識します」
円藤は、そのときハッ! と目覚めた。テレビの国会中継は、まだ続いていたが、いつの間にか質問する委員が変わっていた。円藤は、なんだっ、解釈じゃなく委員が変わったのか…と、つまらなく思った。
THE END
串柿(くしがき)久司は働けど働けど、いっこう金が溜(た)まらない金運のない男だった。これだけ働いたんだから、かなり入ってくるに違いない…と思えば思うほど、身入りは少なかった。
仕事の帰り道、人けのない舗道の隅で立ち止まり、串柿は怨(うら)めしげに背広の内ポケットに入れた財布を取り出した。そして、ジィ~~っと中身を眺(なが)めた。中には出がけに入れた食事代と万一を考えての数千円の札、それと硬貨の数枚しか入っていなかった。通勤はスイカで事足りていた。これじゃな…と、串柿は思った。いや、思えた。そのとき、空から天の声がした。
━ アンタの財布は底が破れてるよ、ははは… ━
笑い声が消えた空を串柿は見回したが、誰の気配もなかった。当然だ、たぶん空耳(そらみみ)だろう…と串柿は思ったが、一応、財布の横や底の破れを確認した。やはり、どこにも破れは見つからなかった。そのとき、また空から同じ天の声がした。
━ アンタの目には見えないが、破れてるよ、ははは… ━
ふたたび笑い声がして静かになった空を、串柿は必死に追った。だがやはり、誰の気配もしなかった。しばらくして、串柿が歩き始めたそのとき、舗道の下に財布が落ちていた。
━ ははは…その財布、よく働くアンタにやるよ。破れてないから、アンタ、金、溜まるよ、たぶん。ははは… ━
串柿は財布を手にすると、ポケットの財布と中身を入れ替え、空(から)にした自分の財布を拾った財布が落ちていた場所へ置いて立ち去った。その後、串柿は不思議なことに金運に恵まれ、億万長者になった。
THE END
恵まれた境遇に生まれたにもかかわらず、することなすこと、すべてが裏目に出るという薄幸の女がいた。彼女の名は名からして悲劇を連想させる奥山侘枝(わびえ)という。いつしか人は、彼女を演歌な女と呼ぶようになった。生まれ落ちたとき、侘枝の未来は前途洋々としていた。なんといっても父親は世に知られた大富豪で、母も元華族という上流家庭に生まれ育ったからだった。そして、侘枝は美人だった。それが、まさかこのような薄幸の人生を生きていかねばならなくなると誰が想像できただろうか。
あるときを境にして侘枝の人生は一変した。侘枝が3才になったとき両親が不慮の事故で他界したのだ。叔母夫婦に預けられたまではよかったが、その夫婦が悪かった。財産を乗っ取り、侘枝を残して、どこかへトンズラしたのである。すでにこの辺(あた)りから侘枝の人生は演歌になっていた。しかしそれでも、なんとか無事に孤児院で成人した侘枝だったが、そこからが、ひどかった。侘枝は流転の人生を味わうことになる。働いた会社は倒産し、男には騙(だま)された。気づけば、侘枝は場末の飲み屋で働いていた。哀れに思った人々は、この頃から侘枝を演歌な女と呼ぶようになった。そんな侘枝にただ一つ、奇跡的な光明が射した。美人の侘枝を見た客が、彼女を歌手に誘ったのである。客は世に知られた作詞家だった。だが、侘枝の歌手人生もまた演歌だった。出した曲はヒットせず、いつしか侘枝は50の坂を越えていた。そんな演歌な侘枝に、またひと筋の光明が射した。一枚のCDが偶然、一流作曲家の目にとまり、侘枝は演歌な女として売り出されることになったのである。曲、♪お茶碗人生♪は大ヒットした。演歌な女は演歌な女ではなくなっていた。
THE END
世の中には信じ難(がた)いような話をする人がいる。村役場の健康福祉課に勤務する宇曽川(うそかわ)誠(まこと)もそのような男だった。課内では眉唾(まゆつば)者として名を馳(は)せていた。
「いや、どうも地震があるようですよっ!」
「緊急地震速報でもあったんですかっ!?」
「いや、それは…。ただ、そう思っただけです」
宇曽川は真山(まやま)に訊(たず)ねられ、そう返した。
「ははは…なんだ。また、ソレですか。おい、皆! だ、そうだ」
真山は他の課員達を見回しながら笑った。全員からドッ! と笑声が起こった。課員の一人などは、まったく信じられん・・とでも言うかのように、手の指先で眉毛(まゆげ)をなぞりながらニヤリとした。そして、その日は何事もなく過ぎ去った。
翌日の朝である。いつものように出勤してきた真山が、すでに出勤してデスクに座っている宇曽川を覗(のぞ)き込んだ。
「起こりませんでしたね、宇曽川さん」
完全な嫌(いや)みである。
「いや、そうなんですがね。おかしいなぁ~」
宇曽川は、まだ地震が起こると信じている口調で真山に返した。真山は、ははは…と笑った。そのときだった。一瞬、課内がグラッ! と揺れた。ただ、その揺れはすぐに収まった。
「ねっ! でしょ!」
宇曽川は、ここぞとばかり自慢げに言った。
「まあ、確かに。でもねえ…」
真山は一応、納得したが、地震は小さかったんだから・・と真顔をすぐ緩(ゆる)めた。他の課員達も宇曽川を小馬鹿にするかのように軽くチラ見したあと、席へ着いた。
「おかしいなぁ~」
地震を期待している訳でもなかったが、宇曽川は首を捻(ひね)った。その直後、本震が襲った。マグチュード5の揺れが数分、続いた。役場内は物が落ちたり崩れたりで大混乱となった。真山の眉が埃(ほこり)で白くなっていた。幸い、怪我人は出ずに終息したが、課員達は全員、怖いものを見るかのように宇曽川を見た。
「でしょ!」
宇曽川はしたり顔で課員達を見回した。宇曽川は以後、課員達から眉唾者と言われなくなった。
THE END
板蒲鉾(いたかまぼこ)は今場所、横綱を破り晴れて優勝した・・という夢を見た。ハッ! と目が覚めると、自分は十両だった。なんだ…と思ったが、よくよく考えれば、少し厚かましい夢にも思えた。親方からは努力はしているが、相撲が今一・・と言われている。こればっかりは努力だけでは駄目なのか…と最近、思うようになった。幸い、生来の頑丈(がんじょう)な身体で、怪我だけはしたことがなかった。ただ、幕内寸前まで番付が上がると、翌場所はまた下がる・・といった塩梅(あんばい)で、サッパリだった。まだまだやれる…と思っているうちに、いつの間にか50半(なか)ばを越えていた。アラフォ~どころかアラファ~~である。だが、どういう訳か板蒲鉾自身、体力の衰えが感じられない。これでは、そろそろなあ…と親方は言えない。当の本人が至ってやる気十分・・ということもあった。マスコミや相撲界では別の意味で板蒲鉾の四股名(しこな)は有名になっていった。なんといっても、この年齢の現役力士は相撲界の歴史に存在しないからだった。
「ははは…努力するだけです」
たまにマスコミからの取材があったとき、板蒲鉾は決まってこう言った。そうこうするうちに、奇跡が起こった。サイクルからすれぱ、今場所は負け越しのはずだ…と思っていた板蒲鉾は、初日からアレヨアレヨと勝ち進み、気づけば十両優勝していたのである。板蒲鉾は場所が終わったとき、夢に違いない…と思った。しかし、それは現実だった。
「ははは…そんなに美味(おいし)いですか? 努力しただけです」
「いやいや、なかなかの努力味です」
努力はついに報(むく)われたのだ。ふだん、食卓で食べられる安ものの板蒲鉾は正月用の高級食材、鯛蒲鉾に変身していた。
THE END
すべての生物は、自分が主張する領域(テリトリー)というものを持っている。それは微視的(ミクロ)世界のバクテリアやウイルスの類(たぐい)に始まり、巨視的(マクロ)世界の人間まで及ぶ。その支配権の争奪は生物を超越した地球上の領有権にも波及し、あらゆる分野に見られるのである。この領域を侵害すれば、越権行為として両者間にトラブルが発生する。
「どうも風邪らしい…」
課長席に座る岩魚(いわな)塩味(しおみ)は手を額(ひたい)に乗せ、朝から熱ばった身体でそう言った。
「今日は無理されず、早退されたらいかがですか?」
課長席前の係長席に座る滝壺(たきつぼ)幸一は心配そうに岩魚を窺(うかが)った。
「ああ、そうさせてもらうか…。あとは滝壺君、頼んだぞ」
「はい! ご安心ください。お大事に!」
席を立った岩魚は足早に会社から去り、病院へと向かった。
整理加病院の老医師、炭火(すみび)は検査結果が出た岩魚を前に座らせ、ひと通り診(み)たあと、静かに言った。
「…ただの風邪ですな。よかった、よかった!」
何が、よかっただ! と少し怒れた岩魚だったが、思うに留めた。炭火は古くから顔馴染(かおなじ)みの医師だったこともある。
「で、どうなんでしょう?」
「ああ、大丈夫ですよ。…お薬をお出ししときましょう。インフルエンザじゃありません。インフルエンザはテリトリーを駄目にしますからなぁ~」
「テリトリー?」
「ははは…いやなに、体内細胞のことですよ」
炭火自身、新任医師の電力(でんりき)に内科のテリトリーを脅(おびや)かされていた。院内の噂(うわさ)では、次期の科長は電力だろう…というのが、もっぱらの評判だった。
「どうも、ありがとうございました」
「テリトリー…いや、お身体(からだ)が不調なら、またお越し下さい」
炭火に美味(うま)そうにほどよく焼かれ、岩魚はテリトリーの家へ戻(もど)った。そしてテリトリーの家で妻によって、ほどよく盛り付けられた。
THE END
天風(あまかぜ)渡は生れもっての正直者である。ただ、正直の上に馬鹿がつくほどだったから、何かにつけて損をしていた。この日も朝から、さっそく損をしていた。とはいっても、この日の朝の段階では、まだ天風の馬鹿正直によって引き起こされた営業の含み損は表面化していなかった。
課長の川戸は、かねてから天風に、○×物産との大口の契約を期日までに纏(まと)めるよう指示を出していた。その期日が昨日(きのう)で、天風は今朝、その報告を迫(せま)られていた。
「ああ、おはよう…。で、どうだった?」
川戸は出勤直後、天風を課長席に呼んだ。天風を前にし、開口一番、川戸は、そう切り出した。天風が受け持った大口の契約は見事に纏まっていた。だが、そこには一つの…。
「はい! 課長、纏まりました。三日後に契約させてもらう、とのことでした!」
天風は元気よく言った。
「おお! よく、やったな! 馬鹿正直な君を見込んだだけのことはある。ははは…」
川戸は課長席に座りながら、満足そうに笑った。だが、川戸の笑顔が真っ赤な憤怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)に一変したのは、その三日後である。その日、契約を無事終えた天風は、会社へ取って返した。
「な、なんだ! この契約はっ!!」
契約書をひと目見た川戸は激怒した。
「見てのとおり、○×物産との契約ですが…」
怪訝(けげん)な面持ちで天風は川戸を窺(うかが)った。
「それは分かっとる!! なんだ、この額はっ!」
川戸は完全に切れていた。
「はあ…、書かれたとおりですが、それがなにか?」
天風は川戸がなぜ怒っているのかが分からなかった。天風とすれば、課長に言われたとおり契約を纏めた・・だけのことだった。だが、その天風の契約は馬鹿正直に纏めただけで、契約額の単価@が半額まで引き下げられていたのである。これでは仕入れ値を差っ引(ぴ)いて、大幅な含み損を計上する大赤字だった。下手(へた)をすれば、川戸は責任を追及され、解雇はないだろうが降格やリストラは覚悟せねばならなかった。だから、川戸が激怒するのも無理はなかった。
「もう、いい…」
川戸は天風を課長席前から自席へ下がらせた。部下を指示した自分にも責任の一端(いったん)はある…と思えたからだった。
一週間後、川戸は専務室へ呼び出された。川戸の心配をよそに、専務の鍋底(なべそこ)は至って機嫌がよかった。
「ははは…川戸君、やってくれたね! おめでとう!!」
笑顔の鍋底に握手を求められた川戸は、意味が分からず茫然(ぼうぜん)と手を差し出した。
「いやいや、君には分からないだろうが…。○×物産の社長から電話があってね。君の会社にはいい社員がいる、と言うんだよ。私も何のことか分からず訊(たず)ねると、君の課の天風君の名が出た。契約に偶然、居合わせたそうなんだが、あんな馬鹿正直な男はいない、私はあの男に惚れこんだよ、と言うんだ。で、今回の契約は最初の契約額で倍の発注をさせてもらいたいそうだよ、よかったな!」
笑顔の底鍋の説明で、ようやく川戸は話を理解した。
「ええ、私も彼の馬鹿正直さを買っていたんですよっ!」
5分前には思ってもいなかった言葉が川戸から飛び出した。
「だろ! ははは…」
二人は賑(にぎ)やかに笑った。
半年後、人事異動があり、馬鹿正直な天風は係長に、川戸は副部長に昇格した。
THE END