きょうも蒸し暑くて 雨が降ったり止んだり~の一日になりそう~
それでは・・・南紀旅日記!最終章を・・・
「田辺城水門跡」から10分で到着! 世界遺産「鬪雞神社」
「一の鳥居」
左に「大福院」
「二の鳥居」
パソコンで「とうけいじんじゃ」と入れると「闘鶏神社」と出ますが・・・
闘鶏神社の「鶏」の字は正式には雞。「闘」も正式には鬪。鬪雞神社が正式な表記になります。と・・・「み熊野ねっと」に!(お借りしました)
闘鶏神社は、別名『権現さん』とよく呼ばれています。
熊野山所権現(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社の神様)が分霊されているのです。
「鬪雞神社」は、田辺宮、新熊野、権現さんと称されたように、熊野三山から全ての祭神が勧請された、いわば熊野の田辺別宮のような位置づけの神社で
京から淀川をくだり難波の渡辺津へ。ここから熊野詣が始まり、紀伊山地の入口「藤白神社」を経由して海岸線の紀伊道を南へ南へと下る。
そして辿り着くここ田辺が、中辺路と大辺路の分岐点。まさに熊野三山への入口となる場所でした。
「手水舎」
「拝殿」御祈祷中なので横から
この日は大安でしたから、私たちが参拝中に二組のお宮参りがありました。
次の御祈祷が始まる前!隙を狙って
熊野三山の別宮的存在
社伝によると允恭天皇8年(419年)に創建。
白河天皇の時代(1073~1087)に熊野三所権現を勧請し、熊野参詣の折には鬪雞神社に参拝して心願成就を祈願したと言います。
また、鬪雞神社に祈願して三山参詣に替えたという伝承もあり、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の別宮的存在として熊野信仰の一翼を担っていました。
社殿は熊野本宮大社が川の増水で流失する以前と同じ配置をしており、熊野信仰の歴史をいまに伝える貴重な場所です。(田辺観光協会より)
左から、上御殿、中御殿、下御殿、八百萬殿。
「上御殿」
拝殿横から
拝殿の奥が「本殿」
祭神名 | |
西御殿 | 速玉之男命・事解之男神 |
本殿 | 伊邪那美命 |
上御殿 | 伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命 |
中御殿 | 瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命 |
下御殿 | 火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命 |
八百萬殿 | 手力男命・八百万神 |
(み熊野ねっとよりお借りしました)
「弁慶社」
鬪雞神社の名は平家物語壇ノ浦合戦の鶏合せの故事に由来します。
源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当・湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせました。すると、ことごとく白(源氏)の鶏が勝利したため、源氏に加勢することを決め、熊野水軍200隻を出陣させました。熊野水軍の加勢が合戦の勝敗に結びついたともいわれます。
境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像があり、社務所には源義経が奉納したといわれている笛(銘白竜)、弁慶産湯の釜、湛増が使ったとされている鉄烏帽子や鉄扇等の宝物が展示されています。(田辺観光協会より)
武蔵坊弁慶のゆかりの地でもあります
「神木」樹齢1,200年の大楠
延命長寿・無病息災の信仰があり、又、楠の葉を歯痛の患部につけ念ずると平癒するという、歯病治癒の信仰がある。
「藤巖神社」
田辺の基礎を作り、安藤公が梅の栽培を奨励したことが当地の梅栽培発展のきっかけとなりました。
紀州の梅の栽培の経緯がわかります
「神馬」
世界遺産の「鬪雞神社」素晴らしいものでまたまた古を感じて・・・
その上、熊野三山お参りしたのと同じご利益があると!
ここまでは割と計画通りに運んだのですが・・・
湯浅まで戻って、昼食に立ち寄る予定で検索していたお店が見つからない!(閉店したようで)
仕方なく走りながら見つけたお店で海鮮丼を・・・新鮮なお魚で美味しかったのですが・・・
そして・・・和歌山県の北、大阪よりのお寺に立ち寄りたいと希望していたのですが、ナビをいれると距離があり
立ち寄っていると渋滞の時間帯になると!いうことで却下
またということで・・・早めの帰宅になりましたが・・・満足した南紀の旅でした~