古稀を過ぎた主夫の独り言日記

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ぶっきょうがくしゃ

2024-09-22 21:35:41 | 主夫のつぶやき
高楠順次郎:東洋文化史における仏教の地位(昭和五年二月十五日、外務省文化事業部に於ける講演)
多分2時間に及ぶ講演だったはずだ。一般に文明は生存競争の結果などと西洋人は言うが、インド人は相互扶助にこそ文明の本質があらねばならぬと考える。牛を大切する事で知られるが、牛を食料にする様な国がインドを統治できるわけがないと説く。また文明は自然と同化することとインド人は考える。ヨーロッパ人に搾取されても精神を奪われることがない限り征服されることはないと考える。まさにガンジーが率いている時のインドの姿である。この様な国インドで興った仏教が、大乗仏教として日本に渡ってきたのだが、その時代においてインドや中国から指導者たる人物が日本に来ていたと言う。さて、この講演の主旨は『一切経』なるものが千数百年の時間や関東大震災をも生き延びて存在するのだが、世界の何処にもその片鱗すらなく偽物の評価だった。ところが敦煌で同じ経典の一部が見つかり、日本の『一切経』は本物であると世界が認めた。その後フランスの学者と著者が主体となり、広く広める為に出版がされ始めている。しかしながら内容の理解には第一原本である梵文、巴利文の教養が必須であるし西蔵語やサンスクリットを知らなければならない。漢文も自由に読めなければならないと説き日本以外にこの事業を成し得るものはないと胸を張る。何故日本にこの経典が存在するかの謎や理解出来る基礎を有するのは今や日本しか無い理由を述べその偉業を解説する。結論は日本には学問としての『研究の仏教』(倶舎、唯識、三論)もあれば、『思索の仏教』(華厳、天台)もある。『実行の仏教』(律)もあれば『瞑想の仏教』(禅、真言)もある。『信念の仏教』(浄土)もあると述べ、然るに思想進展の頂点に達したのは日本であることを忘れてはならないと強調する。また信仰宗教としての法華の実相教などは信仰方面だけが寺院組織となったもので、今回述べた大学としての仏教とは異なると説く。240921

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