狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

夜通し語り合い忘れられないうつむいた日々を笑い飛ばしたい。

2017年02月21日 19時50分29秒 | 知人、友人に関する日記




 本日2月21日は、ジャンヌ・ダルクの異端審問が開始された日で、足利義政が慈照寺の造営を始めた日で、イギリスでリチャード・トレビシックが蒸気機関車の試運転に成功した日で、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が出版された日で、改正日米通商航海条約が調印されて不平等条約を撤廃されて関税自主権が確立された日で、ミュンヘン革命の中心人物クルト・アイスナーが暗殺された日で、孫文が第三次広東軍政府を設立した日で、天皇機関説を唱えた美濃部達吉が襲撃されて負傷した日で、日本の警視庁が婦人警察官の募集を開始した日で、東パキスタンでベンガル語運動家と軍隊が衝突した日で、フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンがDNAの二重螺旋構造を発見した日で、アメリカの黒人運動指導者マルコムXが演説中に暗殺された日で、イスラエル空軍がシナイ半島でリビア航空機を撃墜した日で、東京地検が『四疊半襖の下張』を掲載した雑誌の編集長・野坂昭如らを起訴した日で、漱石の日です。

 本日の倉敷は晴れでありましたよ。
 最高気温は九度。最低気温は四度でありました。
 明日も予報では倉敷は晴れのち曇りのち雨となっております。お出かけの際はお気を付けくださいませ。






 若い娘の命を取る事も真っ白な張のある体を目茶目茶にする事でも平気な顔でやってのける力を持った刀でさえ錦の袋に入った大店の御娘子と云うなよやかな袋に包まれて末喜の様な心もその厚い地布の影には潜んで何十年の昔から死に変り生き変わりした美くしい男女の夢から生れた様な艶やかさばかりを輝かせて育った我が友人である女の名はその美しさに似ず勇ましい名である。
 友人の心の底にちらっと怪しい光りもののあるのを私は見つけた。
 その光りものの大きくなった時に起る事も私は想像する事が出来た。
 友人の心の中に棲む光りものの細やかに物凄い煌めきを見るにつけて天が人に与えるものについて考えさせられた。
 友人の心に住む光りものの広がる毎にその美くしさは増して昔からお話にある様な美くしさと気持を持って居るのを知ったのは私きりではなかった。
 粋な模様の裾長い着物に好きでかつら下地にばかり結って居た様子はそのお白粉気のない透き通るほどの白さと重そうに好い髪とで同じ学級の者がこぞって附文をする程の美くしさをもって居た。
 或る時、自分の名が勇ましい名であることに笑って「あたしゃ大好きさ。いいねえ……」と云っていやがった。
 「女は柔しい名の方がどれだけいいんだか……。名のあんまり凄い女は嫌がられるもんだ……」と彼女の母親は云った。
 「そう、咲くかと思えば直に萎んで散ってしまう花。直に年寄りになる様なお花なんて名が良いんでしょうか。でも、わたしゃ自分の名が好きなんだもの。龍があの黒雲に乗って口をかっと開いて火を吹く所なんかは堪らなく良いけども、まぁ只の蛇が真っ青に鱗を光らして口から赤い舌をぺろりぺろりと出す事なんかもあたしゃ大好きさ。いいねぇ……」
 其の凄く光る瞳を憧れる様に見はって友人は斯う云って母親が顔色を青くしたのを真っ黒な瞳の隅から見て居た。
 細工ものの箱に役者の絵葉書に講談本のある筈の室には、壁いっぱいに地獄の絵が貼りつけてあり畳の上には古い虫ばんだ黄表紙だの美くしく顎が尖った男達が睦む本が散らばって真っ赤に塗った箱の中には勝れた羽色を持った蝶が針に刺されて入って居た。
 そんな事も母親に何とはなしに涙ぐませるには十分な事だった。
 友人は家業を手伝っていたが、仕事を教わる際には気ままに教わって居たけれども教える任にあたった者は友人の冷たい美くしさに自分の気の狂うのを畏れて成る丈は避けて居た。
 友人は男が鉛筆を握って居る自分の横顔を見つめてぼ~っとと顔を赤くしたり小さな溜息を吐いたりして居るのを見ては、それが面白さに分るものをわざと間違えて癇癪を起したふりをして弱い男のおどおどしてただ情けなそうに俯く様子を見ては満足の薄笑いをして自分の部屋に入るのが常だった。惡い奴である。

 今もその氷のような美貌と共に恐ろしくも冷たくも美しい内面と煌びやかな才が頭に浮かぶ。
 でももう居ないのだ。
 友人は恐らく笑いながらこの世界から去っていった。
 あいつは莫迦だ。底なしの莫迦だ。
 でももう居ない。
 だからあいつに直接文句も言えない。


 その事は私をとても寂しい気持ちにさせてしまうのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『崖の上のポニョ』

2017年02月21日 13時00分26秒 | 映画・ドラマに関する日記



 昨日の夜は、アニメーション映画『崖の上のポニョ』のDVDを観ていました。

 お魚の少女であるポニョは、魔法使いの父親の元から家出をして海岸にやってくる。
 空き瓶に頭が挟まって困っていたら、海辺にやってきた幼稚園児の宗介に助けられる。
 宗介はお魚のポニョが気に入り、ポニョも宗介のことが好きになる。
 しかし、ポニョは父親に連れ戻されてしまう。

 宗介のことが忘れられないポニョは、再び家出をして宗介に会いに行こうとする。のだけれども……。





 私の友人達がこの『崖の上のポニョ』を「観るのはやめておきなさい」とか「わけがわからん」とか言っていて、それで今まで観たことがなかったのです。
 でも観てみようかなと思ったので、観てみました。

 以下の文章は、『崖の上のポニョ』という作品が大好きなお方や宮崎駿監督の作品が大好きなお方には不向きな文章となっております。
 なので、『崖の上のポニョ』という作品が大好きなお方や宮崎駿監督の作品が大好きなお方は読むことはお勧めしません。
 申し訳ないのですが、『崖の上のポニョ』という作品が大好きなお方や宮崎駿監督の作品が大好きなお方はここで読むのをやめてください。




















 宮崎駿という人物は物語を作るという才能はあまり無いのです。
 でもでもアニメーション映像作家としての才能は物凄いのです。
 なのでアラだらけのお話を作っても観ている側は誤魔化されてしまうところがあります。

 おそらく宮崎駿という監督は頭の中のイメージを映像にする為にお話を作ってしまうタイプで、お話を表現する為に最も適した映像表現とは何かをあまり考えない人なのだと思います。
 お話をきっちりと固めてからそのお話に適した映像を考えるのではなく、頭の中に浮かんだイメージを繋げてお話を作るタイプ。
 なので頭の中に浮かんだイメージを物語に出現させるためにお話をぐにゃっと捻じ曲げてしまう。
 そしておそらく結末を考えていない段階で、イメージが幾つか浮かんだ段階で、そのイメージを早く映像化したくて制作に入ってしまう。
 作りながら物語を考えて辻褄合わせをしようとしてる。
 このタイプの作家さんは、物語をきちっと固める役のスタッフが必要なのですが、ここまでの大御所となると制作に口を出せる人がいないのかもしれません。

 そして宮崎駿というお方は、自身の欲望や願望を作品の中でストレートに表現します。
 そして自分が正しいと思っていることや常識だと思っていることや自分が気持ちよいと思っていることは絶対的な真理として誰しもが思うことであるとして疑いもせずに隠すことなく表現します。
 しかし、人の感覚は本来は人それぞれなので、その部分では普通ならば観ている人の頭の中が?マークでいっぱいになるはずなのです。
 何かを表現することを職としている人は作品に自身の欲望や願望を込めるものですが、しかし、普通はもう少し慎重なやり方で自身の欲望や願望を込めます。
 何故ならば、自分が正しいと思っていることや常識だと思っていることや自分が気持ちいいことは絶対的な真理だとは考えないからです。
 でも宮崎駿というお方は、かなりストレートにそのあたりのことを表現しています。
 でもでも宮崎駿という人のアニメーション映像作家としての才能は桁違いに物凄くて描写が細かくて映像そのものが凄く楽しいので、観ている人達はその部分に気が付かずにスルーしてしまいがちになるのです。

 この『崖の上のポニョ』は、中盤の津波のシーンのイメージを出現させるために、お話を作っていますね。
 それで辻褄が合えばそれでもOKなのですが、プロットもストーリーも無視してイメージを繋げて辻褄を合わせるのはとても難しいです。
 さらにその状態で監督自身の欲望や願望をお話の中に無理矢理捻じ込んでいけば、物語はぐにゃぐにゃと歪んでしまいます。
 物語の部分ではこの映画は失敗しています。
 辻褄は合っていません。

 そしてこの映画の映像は、心地良いのだけれども気持ち悪いのです。
 これは私の感覚であって、一般的な人の感覚とは違うのかもしれませんが、私はこの映画の映像は気味が悪いと感じたのです。
 でも、気味が悪いと感じるように意図して作られた映像ではないのです。
 そして、宮崎駿監督の願望や欲望によって歪まれて出現した幾つかの表現は、ギョッとするほど気味が悪い。
 そもそもこのお話のテーマ(といってよいものなのかは分かりませんが)そのものが、私は気味が悪いのです。
 ハイティーンの男女の恋のお話ではなく、5歳児の男の子と女の子のディープで世界を滅ぼすかもしれない程の恋のお話。
 う~ん??? 五歳児で??? むりやり五歳児に設定する必要があるとは思えないのだけれども???

 このタイプの作家さんは、実力のある脚本家をスタッフに加えるべきだと思うのですよ。
 作品作りに他者の常識や感覚を取り入れるべきだと思うのです。
 でもここまでの大御所となったらもう無理なんだろうなぁ。

 そして宮崎駿というお方は人間が大嫌いなのかしらん?
 或いは現代社会というものが大嫌いなのかしらん?
 昨夜は、そんなことを思いながら映像の気味の悪さにぷるぷる震えながら観ておりました。

 お勧めはしません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする