狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

お前の体は宇宙の全てと繋がっていながらお前にしかなり得ない。お前の魂は宇宙の全てを含んでいながらお前でしか有り得ない。それはこの私も、そして誰しも。

2018年06月13日 20時40分32秒 | 知人、友人に関する日記





 本日6月13日は、ロードアイランドがイギリス北米植民地で初めて奴隷の輸入を禁止した日で、清とロシアが天津条約に調印した日で、シュタルンベルク湖で前日に廃位させられたバイエルン王ルートヴィヒ2世の水死体が発見された日で、陸海軍省官制改正により軍部大臣現役武官制を廃して大臣・次官の任用資格が予備役まで拡大された日で、アメリカで戦略事務局と戦時情報局が発足した日で、太宰治が愛人山崎富栄と玉川上水へ入水した日です。

 本日の倉敷は晴れでありましたよ。
 最高気温は二十五度。最低気温は十七度でありました。
 明日も予報では倉敷は晴れとなっております。





 或る夜の事。

 何心なく場内を眺めている内に不思議な事に注意を引かれた。
 其の夜は、大正、昭和、平成と経て白寿になつた或る芸術家の御方の為に開かれた祝賀の会なのであつた。
 狐は其の宴席の末席で火酒を靜に舐めていた。
 此の燈火の煌いた華やかな宴席には、もう何年も前に名を聞き知っているばかりでなく多くの業績を目の当たりにして狐なりに其々に受け入れているような大家達も席を連ねている。
 狐は大家達の強烈な威圧感にぷるぷる震えながら只管に火酒を舐めていた。
 迂闊に発言をすると喰われてしまいそうな恐ろしさがある。怖い。

 主催者の何か特別な意図が含まれていたのであらうか?
 祝宴の主人公である其の御方の坐つている中央の卓子は純然の家族席として纏められている。
 夫人。成人して若い妻となつている令嬢。其の良人。其の他幼い洋服姿の男の子。或は先夫人かと思わるるやうな婦人。
 正座の画家をめぐつて花で飾られた卓子の周囲をきつしりと取り囲んでいるのである。
 一応は和気藹々たる其の光景は主人公が他ならぬ白寿の御方であるといふことから、寧ろ異様に孤独に鬼気さえも孕んで忘れがたい感銘を与えられた。


 芸術の道を往く時、芸術家にとつて道連れは今こうやつて卓子に何か雑然と無意味な賑やかさで着いている大小様々の家族達であらうか?
 其れとも友達や同時代人、或は先輩後輩達であらうか?
 仮に狐が当夜の主人公であり、芸術家として何十年かの果にかういう席の割当ての白寿の祝を催されたとしたら狐は戦慄を禁じ得なかつたであらうと思う。

 芸術家は孤独を恐れない勇気を常に持たなければならない。
 けれども恐るべき性質の孤独があるとをいふことをも知らなければならない。

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『砕かれたハリルホジッチ・プラン 日本サッカーにビジョンはあるか?』/五百蔵 容

2018年06月13日 15時25分25秒 | 小説・本に関する日記




 昨日の夜は、五百蔵 容の新書『砕かれたハリルホジッチ・プラン 日本サッカーにビジョンはあるか?』を読んでいました。
 ブラジルワールドカップでベスト16に進出しドイツ代表と死闘を繰り広げたアルジェリア代表を率いた名将・ヴァイッド・ハリルホジッチ元日本代表監督の日本での代表監督としての仕事を解説した本であります。


 ハリルホジッチ監督の下でロシアワールドカップを戦って、どのような結果となったか? それは分かりません。
 しかし、ハリルホジッチ監督の仕事はとても緻密でした。
 そしてハリルホジッチ監督を招聘した当時の日本サッカー協会の技術委員は日本サッカー界に対するしっかりとしたビジョンを持っていました。
 検証を行い検証に基づいて行動を行いその行動について検証をする。
 サッカーには無数の正解が存在しているけれども、ハリルホジッチ監督のプランはたとえ失敗に終わったとしても財産が残る有意義なものであったはずです。

 世界のサッカー界では、不確かであやふやなものを言葉や理論で明確化し、偶然を必然化し再現性のあるものにする作業が進んでいます。
 方法は一つではなく無数に存在しています。
 正解は一つではありません。
 しかしハリルホジッチ監督のプランは試すに値する魅力的なプランであり示唆に富むものでありました。


 面白かったですよ。
 お勧めであります。

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戦争は誰が正しいかを決めるのではない。誰が生き残るかを決めるのだ。

2018年06月13日 13時01分33秒 | その他の日記



 関ヶ原の闘いから豊臣家滅亡までの流れはどのようなものであったか?

 徳川家康と豊臣秀頼の会談はあったし、融和策が実施されたこともあった。
 様々な和解案が提示され、折衝もあった。
 豊臣家は家名を残すチャンスはあったし、やり方次第では大大名や公家の名門として生き残ることもできた。
 豊徳合体のプランもあった。
 しかし豊臣家が徳川家への軍事的な対決姿勢を示し挑発した時点で全ては決した。
 後は幾ら折衝を重ねようとも流れは変わらない。
 徳川方の条件を丸呑みする以外は戦闘となる。
 しかし丸呑みしても徳川方に信用されるわけではない。そして雇い入れた将兵達の不満が爆発する。
 圧倒的な軍事力を持つ相手に対して戦闘で勝つ以外に生き残る術はない。しかし戦闘で勝っても相手は幾らでも軍勢を差し向けることができる。
 戦闘で勝っても戦略的に相手の優位を覆すことはできない。消耗するだけ。


 戦闘は戦争の一部分でしかない。





 交渉は遥か前から続いていて、何か決定的な事柄や具体的な事柄が決まったわけではない。
 今回の会談は単なる政治ショーかもしれない。
 しかし、様々な国(当事国を含めて)が今回の会談を自国の利益の為に利用するだろう。マスメディアを使って。

 実感するのは難しいが、私達は今、戦争の真っただ中にいるといえる。
 太平洋戦争のような形態ではない戦争も存在している。
 私達も当事者であって戦争に参加しているといえる。


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