筆だけ持てればいいと思っている書家の話を聞いたことがありますが、私はそうは思いません。
毎日腕立てもするし、重いものを持ち上げる作業だって普通にします。
三時間ドラムを叩いた後に、多少ぷるぷるすることはあるけれど、お稽古指導することだってあります。
ぷるぷるを精神力でねじ伏せるチャレンジも結構好きです(^○^)
魂は身体を通して腕から指先、そして筆先に伝わって紙に記して書になるわけですから、身体がしっかりしていないと思うような線にならず、イライラが募るばかりです。
身体を大事にしすぎると、使えないなまくらな腕前になってしまうのです。
私はそれを普段の生活の中で鍛えるようにしています。
つまりよほど過激な事でない限り、つまり、拳で板を割ったり(過激!)、指立て伏せをやったり(そもそもやれない!)など、一部分にだけ大きな負担がかかるようなことで無い限り、大工仕事も庭仕事も引越しのような仕事も普通になるようにしてきます。
そうでないと、身体がなまるだけでなく、生活感のない、浮き草のような書になってしまいますから。
お座敷の余興ならありかもしれませんけれど、浮き草のような人の書いた物を見て、誰かに何かを感じてもらうことができるでしょうか?
書において、老いる事は成長してきた証のようなものです。
老獪さだって全て悪いと捉えなくたっていいのです。
悪けりゃ悪いなりに、ダークサイドを表現すればいいのです。
こんな感じで
『混沌としている私の書』
あるいはこんな感じで
『浮遊する森羅万象』
こんな感じも
『日本の歴史』
感心する人はいなくとも、関心する人が一人でもいれば、独りよがりにならず、報われるのです。
それでも、好きな線が書けるような身体を保っておくことは、私にとって必須事項なので、経験値としての老いはウェルカムですが、全ての虚飾を捨て去る事を目的とする事は、今はまだ求めたく無いのです。
最近書いた結構好きな一文字
『乱』
法則性から逸脱したい気持ちと、それを揺れ戻そうとする気持ちの間で揺れ動いた所を客観的に表現した『乱』です。
理屈っぽくて、わっかりにくいよね〰(^○^)
良寛さんの字は全ての虚飾を捨て去った、和の書の真髄があります。
でも、まだ意識して目指したくは無いのです。
あらがって、あらがって、その結果良寛さんのような心境に辿り着いたとすれば、ベストなのかな、、、。
揺れ動く、お年頃なのであります(笑)