■地獄思想は日本古来の死後世界観を恐怖のどん底に落とし、死後の世界の保証を仏に求めるようになった。この呪縛にかかった時期は平安時代中期以降、源信僧都の「往生要集」に地獄のさまが紹介されてからのこと。浄土教主・阿弥陀如来以外は人類の罪は救えないとした。親鸞は「臨終に一声だけの念仏で、いかなる極悪深重な罪人でも、来いよ来いよのお招きで極楽浄土へ往生できる」と説いた
これで地獄への呪縛は解除されたのである
■古戦場跡には兵士が地縛霊となっている所がある。一定の時刻になりと法螺貝を鳴らして喚声とともに両軍の兵士が現れて戦いを始めたりするが、そうした地区は全国至る所にある
それを浄霊しようとして幾多の霊能者が力を注いだが、いまだに消滅していない地区も多い
■不思議なのは、こうした古戦場で、多くの念仏を捧げたのに、どうして彼らは成仏しないのか、ということである。「彼らが唱えなかったからだ」ということになるだろうが、地獄では、仏菩薩といえども、そうした亡者の霊は救えないのであろうか?それとも念仏は気休めか?
■仏教の重要説法に【識】という語がある。これは宇宙に遍満する精神。または、親鸞のように【たましひ・(一教行信証)】と解する人もある。だから死後は識だけが遺るとする
■般若心経では【一切が空】であるから【識もまた空なり】と言い切る。死ねば宇宙の普遍意識の中に溶解するから、個人の識(認識・精神・たましひ)はこの地上に遺らないとする
■神道では【物の気】といわれる半物質的なものが遺るとされる。
つまり想念。想念は個人の識・たましひ、などから独立して存在する。古戦場の亡霊とは半物質的独立想念の塊であり、それが地獄を形成している。それを消滅させねばならない
■人間が放出した想念によって、場は汚れたり壊れ、その汚れた破壊想念は【物の気】となり、自然界に憑依浸透して各種の異常を発生させる
先の古戦場の霊については、激戦当時の想念が。現地の山野に浸透し残存している。個別の本体霊が地縛されているわけではない。産業廃棄物のようなものであるから、これを処理するには、焼却するしかない
そこで、古来こうした場所で柴灯護摩が何度も執行されてきた
■なぜ浄化しないのかといえば、修法者が本体霊が迷っているという認識で招霊という形式をとるから、想念は飛来しない
■物の気は半物質であるから、吸収紙の役割の憑代で、物の気を吸収し、祈りの聖火の中に投入し焼却して焼却する。そうすると、その場所の地獄の幽界は消滅する、、が、次は修法者の意識(認識)は消滅しない
個人意識は、
★言葉の祓
【大祓の詞】をとなえて浄化
★水の祓
海、川、滝、井戸などの水浴で浄化。海が最良。流すことに意味があるのでシャワーもいいが、風呂場では周囲に残気が残るのでよく洗い浄める必要がある
★霊の祓
高級神霊降臨なさると、瞬時に「物の気、怨念、執念」などは消滅する。儀式が厳重、清潔でなければ高級神霊は降臨しない