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日本に帰化して国体と天皇を守った! 【短期集中連載・最終回】日本を愛したヴォーリズ④

2024-04-09 08:58:00 | 日本を愛したヴォーリズ

【短期集中連載・最終回】日本を愛したヴォーリズ④
日本に帰化して国体と天皇を守った!

 

山本徳造(本ブログ編集人)

 


準戦時体制に入った日本

 それは盧溝橋事件から始まった
 昭和12(1937)年7月7日に北京郊外で起きたこの日中両軍の小競り合いが、支那事変(日中戦争)の発端である。中国大陸だけではなく、やがてアメリカを巻き込む大規模な戦争に発展することを、当時の日本国民の多くは思ってもみなかったことだろう。
 この年を境にして日本が「準戦時体制」に入ったと言ってもよい。政府は同年10月13日から19日までを「国民精神総動員強調週間」とし、国民に「挙国一致」を求めた。
 そんな動きに近江兄弟社も無関心を決め込むことはできなかったようである。同社は社員に次のような通達を出す。①召集された社員に激励の手紙を出す、②事変が終わるまで慰問献金を続ける、③17日には教会で国旗掲揚・国歌斉唱して伊勢神宮および皇居に遥拝する、⑤代表者が桃山御陵に参拝する。

 前前号でも記したが、メンソレータムは将兵の慰問袋に入れる常備薬として大人気で売れ行きも順調だった。そのため、満洲の奉天(現・瀋陽)にメンソレータム満洲工場がつくられたほどだ。
 時局が変化するにつれ、「近江ミッション」も新しい道を模索する必要に迫られたのだろう。ちょうどその頃、近江兄弟社グループの月刊誌『湖畔の声』にも変化があった。
 同誌は、明治45(1912)年に創刊された月刊誌である。もともとヴォーリズがアメリカの友人にマンスリーレターとして近況報告していた手紙を日本中の友人にも送るようになり、その内容をまとめ月刊誌として創刊したのが始まりだ。
 
 日中戦争が始まった頃、『湖畔の声』に作家の沖野岩三郎と顧問弁護士の山下彬麿が日本思想や神道についての論稿を寄せ始める。

日本人になったヴォーリズ

 はたして沖野、山下両氏の考えがヴォーリズに何らかの影響を与えたのだろうか。昭和14(1939)年、ヴォーリズは満喜子夫人の郷里で行われた「一柳直末三百五十年祭」に、なんと国民服と紋付姿で参列する。
 そして翌昭和15(1940)年、ヴォーリズは帰化手続きを始めた。時あたかも皇紀二千六百年である。つまり、日本にとって記念すべき節目の年だった。2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)には、全国各地の神社で大祭が行われたのは言うまでもない。

 さて、この年の4月1日から「宗教団体法」が施行されたことに注目したい。どんな法律なのか。一言でいえば、日本に数あるキリスト教団を一つの教団にまとめようと企図した法律である。
 こうして誕生したのが「日本基督教団」だった。当時、滋賀県でキリスト教会の過半数を占めていた「近江ミッション」だが、すべてが「日本基督教団」の傘下に組み込まれた。
 八日市教会もその一つだ。同教会の近くには陸軍飛行隊があった。それだけではなく、憲兵隊も駐在していたのである。アメリカから来た伝道師が中心の「近江ミッション」が、いわゆる「敵性団体」とみなされ、「外国のスパイではないか」疑われても不思議ではない。ヴォーリズも神経質になっていたことだろう。

 紀元二千六百年を祝う行事は、日本列島だけに留まらなかった。台湾、朝鮮半島、満洲でも祝賀行事が繰り広げられたという。

 11月10日に宮城前広場で行われた「紀元二千六百年式典」である。天皇皇后両陛下が御臨席して盛大に開催された。

 式典の3カ月前の8月20日、ヴォーリズは八幡神社で同神社の氏子になるための立言式を行う。そして、次のような宣誓書を神前に奉読した。

 日本帝国の国籍を与えられたる上は 日本帝国臣民として皇室に対し奉り 全身全霊を捧げ忠誠を尽くし 日本の国体の精神を遜奉すべき事を 茲に謹んで神明に奉誓候

 翌昭和16(1941)年1月24日、ヴォーリズは晴れて日本国籍を取得した。この日正午、ヴォーリズは満喜子夫人と連れ立って八幡町役場に向かう。一柳家に入籍するためである。
 日本風に「一柳米来留」と改名もした。一柳はともかく、米来留は「めれる」と読む。もともとの「メレル」と同じだが、「米国より来りて留まる」という意味も込めたという。
 一方、アメリカ政府がヴォーリズの国籍離脱を認めたのは、翌年5月になってからだ。米国籍喪失証明書(12月6日付)が大阪総領事のジョン・アリスンからヴォーリズ宛に送付されたのは、日米開戦のたった2日前のことだった。

 それにしても、なぜヴォーリズはよりによって、日米関係が緊迫した時期に帰化を決心したのだろうか。ヴォーリズ本人は『湖畔の声』(昭和16年7月号)の「私が帰化するに際して」の中で、こう記している。

「(前略)殊に日本は東亜の新秩序建設の大任を背負つ立つべき秋になつて来た。今までは一時的のよい加減の弥縫策でどうにか保たれて来た東洋問題も、之を公正に恒久的に解決するには今や国民全体の犠牲苦難なくしてはのぞまれない事となつた。か●る際に私は依然外国人であれば、私は生国に帰り余生を楽しむ事が出来るのであつて何の不便もない。しかし人は彼が愛するものの患難をあとに、自ら飄然と去るに忍びない。却つて、生を共にし、自らを与へんとするの情に駆られるのである。今たとへ日本国に試練の嵐たけるとも私は決して去る事はないであらう。(中略)日本は今や世界の再建に重大なる責任を有し、而してその役割を完遂するまへには勿論生みの苦しみをしなければならない秋に際会してゐる。私は今や既に齢進んだ身であるから、私が国家に貢献し得る所はまことに微少なものではあらう。然しながら少くとも、私は私の愛する国民、私の帰化せる国家と、その患難を共にする事は出来よう。そしてそれこそ私が帰化するに至つた決定的な動機である」

 日米開戦が大っぴらに囁かれていた時期であるにもかかわらず、ヴォーリズは日本に残る選択をした。普通の人間なら、とっととアメリカに引き揚げてもおかしくはない。
 だが、ヴォーリズは違った。その理由を知ると、日本人なら涙が出てしまうだろう。しかも「私が国家に貢献し得る所はまことに微少なものではあらう」と、あくまでも謙虚である。泣かせるではないか。
 ヴォーリズの謙虚さは尋常ではなかったに「超」が百個付くほどだったことが戦後になって明らかになる。「まことに微少なもの」どころか、結果的に日本の国体を守ったのだ。それも数年前までアメリカ人だった人物がである。

 ヴォーリズが日本に帰化して一柳米来留に改名して1年も経たない昭和16年12月8日、山本五十六率いる連合艦隊の空母から飛び立った艦載機がハワイの真珠湾を攻撃した。ヴォーリズの願いもむなしく日米が開戦したのである。
 かつての祖国と今の祖国が戦火を交えたことに、一柳米来留がひどく落胆したことは容易に想像できるだろう。それに仕事にも大きな打撃だった。翌昭和17(1942)年、ヴォーリズ建築事務所は一柳建築事務所と改名し、一柳夫妻は軽井沢に疎開する。仕事どころではない。当然、招集されるスタッフもいた。しばらくして建築事務所は解散せざるを得なかった。

 昭和20(1945)年8月、日本が敗れた。無条件降伏したのである。満喜子夫人と軽井沢に疎開していたヴォーリズは玉音放送を聴く。日本人となった一柳米来留の目から涙がこぼれ落ちたという。
 米軍主体の連合国軍が焦土と化した日本に進駐した。厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサー元帥も厚木飛行場に降り立つ。すっかりトレードマークとなったパイプをくわえながら。この日からマッカーサーがGHQ(連合国軍総司令部)の最高司令官として日本に君臨することになる。

「天皇陛下はどうなるんだ?」
「まさか処刑されるんじゃないだろうな」
「相手は鬼畜米英だ。何をするかわからない」
 そんな声が飛び交う中、ある人物がヴォーリズに接触する。近衛文麿元首相の密使、井川忠夫が軽井沢に滞在中のヴォーリズを訪ねた。一体、どんな目的があったのか。

ヴォーリズが天皇を守った!

 昭和58(1983)年10月31日の東京新聞が大スクープとも言うべき記事を掲載した。ヴォーリズが敗戦直後、天皇が「戦犯」にされるのを阻止するために、マッカーサーと近衛の会談を実現しようと画策したことが書かれてあった。

 しかし、アメリカでは早くも1945年10月7日付のデイリー・オクラホマ紙がヴォーリズの日本での秘密工作を臭わせていた。その記事の見出しは、「オクラホマ在住の男性の弟、今は日本人、ヒロヒトの側近にアドバイス」。いかにもアメリカ人が目を引きそうな見出しではないか。

 さすがアメリカの田舎新聞らしく、「天皇の内閣」といった間違いも気にしない。ま、許そう。ジョン・ヴォーリズ・ジュニアが日本人となった兄のウィリアム・メレル・ヴォーリズ博士からの手紙を受けとった。「私は新内閣から特別な仕事を任された。どんな任務かいつか君にも話すつもりだ」とさらっと流し、ヴォーリズの日本での活躍ぶりを紹介している。

 

▲1945年10月7日付のデイリー・オクラホマ紙 

 

 東京新聞のスクープ記事が出てから3年後の昭和61(1986)年、ノンフィクション作家の上坂冬子が『中央公論』5月号に「天皇を守ったアメリカ人」と題するルポを発表する。

 そこにはヴォーリズの未公開日記やメモから、彼が敗戦直後に天皇を「戦犯」から救うためにマッカーサー元帥と近衛文麿の会見をお膳立てした経緯が書かれていた。さらにヴォーリズが「人間宣言」の草案に関わったことも。

 上坂冬子が昭和8(1996)年に出版した「伝わらなかった真実―女が振り返る昭和の歴史」(中公文庫)には、中央公論の記事を大幅に加筆したものが載っているので、興味のある人は読んだもらいたい。

 では、ヴォーリズの日記を見てみよう。

 まずは井川に初めて会ったのは、9月6日である。翌日の日誌には、どんなことが書かれていたのか。

《昨日、9月6日は驚くべき、やり甲斐のある体験に忘れがたい日となった。私に政治的任務を要請するために、井川氏(長い間外務省、ことに近衛内閣に勤め、クリスチャンにして、ヒロオカアサコ婦人にも目をかけられている)が軽井沢に遣わされたのだ。》

 ここに名前がこ出てくる「ヒロオカアサコ」とは、近代日本で女性実業家のトップランナーとなった広岡浅子である。大同生命創業者の一人として、また日本女子大の設立者としても知られており、その波乱万丈の生涯から平成7(2015)年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルにもなった。
 ヴォーリズが一柳満喜子と初めて会ったのは、満喜子の兄で大同生命二代目社長の広岡恵三邸を訪れたときである。広岡夫人の浅子もその場にいた。二人の結婚を後押ししたのも浅子だという。そう、二人は義理の姉妹なのだ。ヴォーリズ夫妻とはきわめて近い関係にあった。
 ヴォーリズはいささか興奮気味だったのだろう、ヴォーリズは日誌にこう続ける。

《この任務は国の再建に(それも建造物の再建のみならず)助力せよというものだった。これほどの栄誉と責任のために、私は身体に鉄を流し込まれる思いがした。そして井川氏と共に、今朝の列車で出立した。》

 

 

▲「あさが来た」のモデルになった広岡浅子

▲ヴォーリズ家の来訪者名簿に井川のサインが(近江八幡観光物産協会のHPより)

▲9月7日の日誌(近江八幡観光物産協会のHPより)

 

 

 9月10日は「神のお導きによって大切な友人たちに出会った素晴らしい日」と書いている。また横浜では、マッカーサー元帥の補佐をしているバートレットとも偶然出会う。

《私は彼を通じてマッカーサー元帥に考えを伝えていた。そして彼から近衛公にとって重要な情報を得ていたのである。》

 そして9月12日の日誌には、「天皇陛下の一言」として与えられる「詔勅(Rescript)」、または「宣言(Declaration)」について示唆に富んだ言い回しを思いつく。

《マッカーサー元帥は、これを日本国民の間に完全な信頼を回復するために、この上ないものとして受け入れるにちがいない。午前10時、私は予定通りそれを近衛公のもとにお届けした。近衛公は、例の個所をも含めた私の全報告に満足されたようだった。近衛公は、電報で呼び出すことを条件に、私に軽井沢へ帰ってよいとおっしゃった。》

《正午、YMCAの昼食室で井川と落ち合った。我々は車で横浜へ向かう。バートレット海軍少佐(わが友人、日本に生まれた)に会い、マッカーサー元帥に報告したことを聞き知った。元帥は、近衛公に会うことと、会見に臨む近衛公のために、交通手段と軍の護衛を付けることを同意したことを知った。》

 ヴォーリズの尽力が功を奏したのか、近衛とマッカーサーの会談が実現し、その結果を踏まえて昭和20年(1945)年9月27日に昭和天皇とマッカーサーが会見する。天皇が「戦犯」裁判を免れた。ヴォーリズの同志であった吉田悦蔵の孫、吉田与志也さんは令和3(2021)年7月28日の朝日新聞に寄稿している。

《連合国軍総司令部(GHQ)は当初横浜にあり、マッカーサー司令官が来日した直後、政界を退いていた近衛文麿が使者を介してヴォーリズに手助けを求めてきた。

 帝国ホテルで、近衛は「天皇が日本を統合する象徴として維持されれば、日本ばかりか米国の利益にもなる」と語り、マッカーサーがどう思うか探ってほしいと頼んだ。また天皇が発する英文詔勅を考えてもらいたいとも言われた。難題だったが、ヴォーリズは重大な使命に奮い立った。

 マッカーサーが泊まる横浜のホテルニューグランドに向かった。偶然旧知の宣教師の息子が米海軍少佐として現地にいると知り、面会した。少佐はヴォーリズの白髪とやつれ方に驚きつつ、近衛の意見を上官に伝えると言ってくれた。

 2日後、少佐は「マッカーサーが近衛に来るよう指示を出した」と教えてくれた。近衛は安全のため軍人ルートでも同じ依頼をしており、2ルートでの工作が成功し、面会を果たした。(中略)年後、米シカゴで白内障の手術を受けることになった。まだ日本人の渡航が制限された時期。出国前に天皇にあいさつし、お言葉を米国民に伝える約束をした。10カ月間の渡米中に講演会や新聞の取材で天皇のメッセージを発信し、約束を果たした。

 戦勝国によるリンチ裁判ともいうべき東京裁判のインチキをここでは触れないでおこう。いずれにしても、大役を任されたヴォーリズもホッと胸を撫でおろしたに違いない。愛する国の国体と敬愛してやまない天皇が守られたのだから。

 吉田さんによると、ヴォーリズは翌46年にGHQから建築顧問を委嘱されている。一柳建築事務所も復活させた。そして、東京の国際基督教大学からキャンパスの設計を依頼される。

 しかし、今までのようにバリバリと仕事をするというわけにはいかない。昭和32(1957)年、ヴォーリズは軽井沢で静養中に倒れる。くも膜下出血だった。その後は寝たきり状態になった。

 昭和39(1964)年、奇跡の戦後復興で蘇った日本は、東京オリンピックを迎えようとしていた。ヴォーリズ改め一柳米来留が眠るように息を引き取ったのは、陛下が高らかにオリンピックの開会を宣言する5カ月前のことである。83歳の波乱の人生だった。その5年後、満喜子夫人も旅立つ。二人の間に子供はいない。

知られざるヴォーリズの一面

 ヴォーリズの波乱万丈の生涯に興味を持った作家がいる。ヴォーリズを描いた長編小説『屋根をかける人』をKADOKAWAから出版した門井慶喜だ。その刊行を記念して、門井と阿川佐和子が、読書家のための本の総合情報サイト「ブックバン」で対談している。
 この対談の2年後、『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞を受賞した。一方の阿川はヴォーリズが学舎を設計した東洋英和女学院の出身。この二人の対談がじつに面白い。一部を紹介しよう。

門井 今日はいろいろと資料を持ってきました。これは東洋英和女学院の創立八十周年の記念アルバムですが……。

阿川 あっ、懐かしい! わたしも持ってるはずですよ。どこにやっちゃったかしら。

門井 阿川さんは、ヴォーリズが設計した校舎のあった東洋英和女学院のご出身ですが、ヴォーリズへのご関心は在学中から?

阿川 いえいえ。通っている間は誰が設計したかなんて気にも留めていませんでした。きっかけは、一九九三年に校舎が老朽化で取り壊されることになって、当時アメリカに住んでいたわたしに雑誌取材の電話がかかってきたことです。その時は深い考えもなく「残念ですね」というようなことをお話ししたんですが、「東洋英和の卒業生は残念と言うだけで、具体的に動こうとしない」と記者の方に怒られちゃって。

門井 取材なのに怒られましたか(笑)。

阿川 帰国後、たまたま大学の建築学科で講師をしていた友人から「東洋英和の校舎の記録書を作るから手伝って」と声をかけられたんですよ。あ、これはやれってことかなと思って、ヴォーリズについて調べ始めたんです。その記録書が縁となって、建築シンポジウムや講演会に呼ばれるようになり、なぜか今では「博物館明治村」の村長にまでなっちゃいまして。門井さんは、またどうしてヴォーリズを書こうと思ったんですか?

門井 僕は子どもの頃から歴史が好きで、いまは歴史小説を書いているんですが、建築物にも興味があるんです。どちらの興味も満たすことができる上に、さらにヴォーリズはやり手の商人でもある。僕は商人の息子なんです。

阿川 ご実家は何をなさっているんですか?

門井 料理屋です。宇都宮で最初に近代的ケータリング事業を始めたのは俺だと、亡き父がよく言ってました。史実かどうかはわかりません(笑)。もともとヴォーリズが来日したのはキリスト教を伝道するためで、その口実として英語教師をやりました。建築家になろうなんて夢にも考えてはいなかったでしょう。それが建築家として大成し、全国に作品を遺しているのは驚異的です。

阿川 生涯で千五百件くらいでしたっけ。国内だけでなく、満州や韓国にもつくって。どうしてそんなに人気が出たんでしょう。

門井 調べてみて分かったんですが、ヴォーリズは当時の建築家にしては珍しく、見積もり額をきっちり守る人だったんです。主な依頼主である日本のキリスト教関係者は裕福ではないんです。なけなしの寄付をかき集めて、教会の建築費にあてている。だから「予算が倍になっちゃった」とか言われると困るんですね。ヴォーリズは、そこでまず評価を得たんだと思います。

阿川 明治・大正期に外国人が建てた洋館は、「これはこの人の作品」という強い主張がありますが、ヴォーリズ建築にはそれがない。依頼人のご意向のままにという感じ。だから建築学の専門家からは、軽く見られてしまうところがあるんですよね。

門井 同時代に活躍したフランク・ロイド・ライトとは対照的です。その空間をいかに自分色に染めるかを最優先するのがライト。彼が手がけた帝国ホテルは予算が三倍にふくれあがっても完成せず、工期も遅れ、とうとうホテルの取締役全員が辞表を出しました。

阿川 建築家の思想や意匠を第一義にするという風潮は、明治以降もずっと続いていますよね。だから、建物はステキなんだけど、なんか住み心地は悪いっていうような……。

門井 もしライトが東洋英和を設計していたら、阿川さんたちも大変でしたね。壁紙ひとつ傷つけるだけで先生から大目玉で。

阿川 そこらじゅうの段差で膝を打ったりしてね(笑)。ヴォーリズがいちばん大切にしていたのは、そこに住まう人がいかに居心地よく過ごせるかということ。そのためには少しくらい意匠が変でも気にしない。滋賀の近江八幡にヴォーリズが設計した結核療養所があったんですが、家族から離れて暮らす患者たちが淋しく思わないように、窓ガラスをたくさんつけている。その発想はとっても素晴らしいんですが、光を採りこむために壁面がでこぼこしていて、見た目がかっこ悪いの。

門井 ヴォーリズは、日光にこだわりましたから。もともと日本家屋の発想では、できるだけ日の光を入れないようにするんです。軒を長くして、障子紙を張って。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の世界ですね。日本は夏の暑さが厳しいから、それをしのぐことを最優先にするわけですが、アメリカで生まれたヴォーリズには、それが異様に見えたんでしょう。


阿川 わたしがヴォーリズのことを勉強し始めた頃は、まだ近江八幡に生前のヴォーリズを知っているという方がいらしたんですよ。いろいろお話をうかがうと、ヴォーリズって気弱な人だったみたい。当時はアメリカの青年が大志を抱いて、世界中にキリスト教を広めるために旅立っていったわけだけど、ヴォーリズが日本に着いて最初に呟いた言葉が「アイムロンリー」だったって。

門井 大志を抱いていませんね(笑)。

阿川 そもそも日本にやって来たのも、アメリカでの失恋が関係しているそうなんです。辛い思い出のあるアメリカにはもう住みたくないと。その後、満喜子さんというしっかり者の日本人女性と結婚するわけですが、昔の恋人が忘れられなくて、自分が設計した教会の窓をアメリカに向けていた。それを知った満喜子さんが嫉妬した、なんていう話もうかがいました。

門井 それはすごいエピソードです。ヴォーリズの自叙伝を読んでいても、女性絡みの話はほとんど出てこないんです。意図的に隠していたのかもしれませんね。この対談、執筆前にやればよかったなあ(笑)。

 

 阿川佐和子は女性の視線でヴォーリズをみている。どこで仕入れたのか、来日のきっかけが失恋というのが笑わせるではないか。対談上手な阿川らしいサービス精神だ。そして、近江八幡にこだわった理由を二人は推測する。

 

門井 論争好きでもあるんですよ。晩年アメリカに一時帰国した際、ベジタリアンの人と論争になって、「肉を食べないというけど、お前の靴は牛革製じゃないか」と言い負かした。こういう性格は生涯変わらなかったみたいです。そのいっぽうで「アイムロンリー」(笑)。

阿川 そういう一筋縄じゃいかないヴォーリズの魅力が、今回のご本ではよく出ていました。わたしがずっと不思議に思っているのは、ヴォーリズは近江八幡の商業高校を一方的に辞めさせられるじゃないですか。それなのにどうして近江八幡で暮らし続けたのかしら。

門井 あ、なるほど。

阿川 電車に乗ったらすぐ大阪や京都に出られる距離でしょう。もう自由の身なわけですから、どこに行ってもいいはずなのに。

門井 これはあくまで推測ですけど、近江八幡というのは江戸時代から近江商人のふるさとで、お金もうけが善とされる土地柄ですから、ヴォーリズの気質に合っていたんじゃないでしょうか。それと当時のあそこはまだ田舎で、キリスト教信者の数もそう多くなかった。そういう土地だからこそ伝道のしがいがある、と燃えたのかもしれません。

 確かに門井が指摘するように、ヴォーリズに限らずアメリカ人は金儲けを善と思う傾向が強い。そこが日本人と違うところだろう。しかし、田舎の近江はアメリカに似ていたので、ヴォーリズにとって、住みやすかった。作家らしい着眼である。いずれにしても、面白い対談だった。ヴォーリズの別の一面を知らされたような気がする。ちなみに、対談が行われたのは、山の上ホテルである。

近江商人とアニメ

 日本にやって来たヴォーリズは、英語教師として県立八幡商業学校に勤務した。この商業学校が後に「近江商人の士官学校」と呼ばれ、日本のビジネス界に数多くの異才を送り出す。伊藤忠兵衛(二代目)もその一人。後に巨大商社となる伊藤忠や丸紅を創業した人物である。
 当時の校舎は取り壊された。改築された校舎は現存するが、設計したのがヴォーリズだ。
 もう一つの忘れてはならない校舎が今でも残っている。滋賀県豊郷町に建てられた豊郷小学校の旧校舎群だ。伊藤忠兵衛を親戚に持つ古川鉄治郎も豊郷育ち。その古川が欧米視察で痛感した。
「豊郷の子供たちが立派な校舎で学べば、世界に通用する人物になるに違いない」
 帰国した古川は、豊郷小学校の校舎つくりをヴォーリズに依頼する。巨額の私財を投じて完成した小学校は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りだった。「東洋一の小学校」と呼ばれたが、けっして大袈裟ではない。それほど立派な校舎だった。
 平成14(2002)年、当時の町長が新校舎建設のため取り壊そうとした。しかし、卒業生らが猛反対し、民事裁判にまで発展する。結局、最高裁が「校舎解体は違法」とし、取り壊し反対側の主張を全面的に認めた。
 
 そんな豊郷小学校の旧校舎がここ数年の間、映画やテレビドラマ、そしてアニメの舞台として脚光を浴びることになる。
 まず映画は『君の膵臓を食べたい』『カツベン』、テレビドラマではNHK連続テレビ小説『べっぴんさん』『おちょやん』などでロケ地に。女子高の軽音楽部員の青春を描いたアニメ『けいおん!』で同校の音楽室がモデルとなった。今では「けいおんファン」の聖地となっているとか。

 近江八幡市の名誉市民第1号になったヴォーリズは、市内の納骨堂に眠っている。ヴォーリズは自分の設計した建物が、現代の若者たちの心をつかんでいるとは、思ってもいなかったことだろう。(おわり)

 

【前号まで】

●ヴォーリズ建築が関西を華やかに 【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ③
https://blog.goo.ne.jp/46141105315genkigooid/e/b615ae461e288adda206c41f6cf5328a

●伝道のため実業家に 【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ②
https://blog.goo.ne.jp/46141105315genkigooid/e/01178d2ba9de654ca367c1ffcba66bb3

●「山の上ホテル」とヴォーリズ建築事務所 【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ①
https://blog.goo.ne.jp/46141105315genkigooid/e/248bccb36c629da83c98adc66ac9ec23


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