白井健康元気村

千葉県白井市での健康教室をはじめ、旅行、グルメ、パークゴルフ、パーティーなどの情報や各種コラムを満載。

遅れてきたグルカ兵 【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ④

2024-07-08 06:32:01 | 【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ

【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ④

遅れてきたグルカ兵

 

山本徳造(本ブログ編集人)

 

フォークランド紛争で遅れてきた部隊がいた。勇猛果敢で知られるネパール出身のグルカ兵たちである。彼らは、なぜアルゼンチン軍兵士たちか恐れられたのか。紛争後のグルカ兵の動向にも肉薄する。

 

▲勇猛果敢なグルカ兵

 

アルゼンチン側の戦死者はもっと多かった

 フォークランド紛争での犠牲者数も正確ではなさそうだ。公にされている数字を見ると、島民3人、アルゼンチン軍649人、英軍255人の犠牲(死者)を生んだ。しかし、これはあくまでも表向きの数字である。
 アルゼンチン人の犠牲者の中に「行方不明」が含まれていないからだ。ちなみに、アルゼンチン軍の死者の多くは、巡洋艦ジェネラル・ベルグラーノの乗組員だ。同巡洋艦は1982年5月2日に沈没し、323人の乗組員が死亡か行方不明になっている。残りの大半がグースグリーンの戦闘で戦死したというが、行方不明者の数は不明だ。
 アルゼンチンは当初、6月末の時点で700~1000人が死亡し、2500人が行方不明と報告していた。しかし、アルゼンチンの退役軍人の一人は現地紙に、「アルゼンチンの実際の死者数は3000人だが、大半は文盲の家族を持つ貧しい地域の先住民である」と語っている。
 これは何を意味するのか。つまり「文盲の家族を持つ貧しい地域の先住民」の場合、その息子や夫が帰ってこなかったりしても、国に問い合わせる手段がない。だから、正確な死者数を把握できないのである。
 イギリス側は、アルゼンチンの死者数を公式の数字よりも、「少なくとも2倍」と推察していた。どうやら1500人前後とみたほうがよさそうだ。

世界最強のグルカ兵とは

 私がブエノスアイレスで取材をしていたとき、現地のメディア、とくに週刊誌は英国軍の中にいる「世界最強の兵士」に注目していた。ネパール出身の「グルカ兵」である。グルカ兵を知らない人もいるだろうから、ざっと説明しよう。
 その起源は19世紀に遡る。インドを統治した英国が次に狙ったのはネパール王国だった。しかし、山岳民族の各部族の抵抗はすさまじかった。山岳という地形を利用したゲリラ戦を展開したのである。するネパール軍に英国軍はつひに根負けする。アフガニスタンでてこずったように。
 ところで、なぜグルカ兵と呼ばれているのか。ネパールの山岳地帯には、いろんな種族がいる。マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などだ。しかし、グルカ族という種族はいない。では、なぜ「グルカ」と呼ぶのか。
 英国がネパールに戦争を仕掛けた当時、ネパール王国を支配してみたのが「ゴル朝」だった。サンスクリット語で発音すると「ゴルカ」だが、英国人は英語なまりでネパールのことを「グルカ」と呼ぶようになったのである。。
 つまり、ネパールの山岳民族の総称である。彼らの「商品」価値に注目したのが、東インド会社だった。グルカを傭兵として英国軍に売り込んだのである。勇猛果敢で白兵戦に強いといふ兵士としての身体能力もさることながら、視力も抜群に良かった。 たとへ闇夜でもグルカ兵たちで標的を見事にへたという。
 傭兵となったグルカ兵は当初、大英帝国インド軍の第2グルカ・ライフル連隊などに組み込まれ、第1次世界大戦で活躍する。第2次大戦中には、日本軍相手のビルマ戦線にグルカ連隊が投入される。
 こうして第1次、第2次の両大戦に20万人以上のグルカ兵が参戦し、約4万3000人が戦死した。第2次大戦後、すでに4個連隊となっていたグルカ兵部隊は英国軍の一部となり、マラヤでの共産グリラ討伐、1962年のブルネイ反乱などにグルカ兵が前線に投入された。

戦闘に間に合わなかったグルカ兵

 さて、フォークランド紛争で山岳戦や白兵戦に長けたグルカ兵が大活躍したのだろうか。結論から先に言うと、グルカ兵は実際の戦闘に参加していなかった。
 グルカ部隊は当初、アルゼンチン軍が占拠するウィリアム山を奪還するために、スコットランド近衛連隊、パラス連隊、海兵隊などとともに派遣されている。ところが、到着したときには、すでにアルゼンチン軍が逃げ去ったあとだった。
 仕方なく、グルカ部隊はタンブルダウンや他の第5個歩兵旅団の支援や地雷除去作業を行うことになる。グース・グリーンではアルゼンチン軍の捕虜や逃亡兵らを一斉検問する任務を負う。結局、フォークランド諸島の首都スタンレーにたどり着くことはなかった。  戦争が終結したのは、グルカ兵が到着して2週間後のことである。グルカ兵の唯一の死者は、アルゼンチン軍の降伏後に起きた事故によるものだった。グース・グリーンの塹壕を埋め戻す際、地雷が暴発して1人が死亡しただけである。つまり戦闘中に死亡したグルカ兵は一人もいなかったというわけだ。
 面白いことに、実際の戦闘に参加していなかったにもかかわらず、「グルカ兵が野蛮で狂暴だった」という噂話がアルゼンチン軍で広まる。もともとアルゼンチン側が「奴らは未開で野蛮なだけだから」とグルカ兵を役立たずと思わせるプロパガンダのつもりで流した噂話だった。が、調子に乗ったのか、余計な話を付け加えたようだ。
「グルカ兵は人を食べる。だから、捕虜を食べてしまうんだ。ナイフとフォークを持ったグルカ兵を見たら気をつけろ!」
 これを信じたアルゼンチン兵は震え上がった。グルカ兵がフォークランドに上陸したという知らせを聞いたアルゼンチン兵が、武器を投げ捨てて陣地を放棄したという。紛争が終わってから19年後、BBCワールド・サービスの番組「Calling the Falklands」で、英国陸軍のグルカ兵、ネルメイル・ライ大尉が、アルゼンチン人が恐怖に怯えていたことを証言している。
「ほとんど放棄されたアルゼンチン軍の陣地を通り抜けるとき、負傷者の世話をするために残っていたと思われる数人のアルゼンチンの医療部隊が捕虜となっていた。彼らの前でグルカ兵が大きな湾曲した『ククリ』ナイフを鞘から抜いたとき、捕虜たちは首を切り落とされるのではないかと恐れていたようである。しかし、実際はククリで靴紐を切って、捕虜たちを縛るためだった。私は捕虜たちに、恐ろしいナイフで殺されることはないと安心させた」
 これもアルゼンチン側の稚拙な宣伝工作の失敗例だった。
 アルゼンチンの兵士も兵士である。紛争が終結して故郷に帰ってきたアルゼンチン兵は自慢話がしたかった。
「オレなんか、あのグルカと戦ったんだぜ。もう白兵戦だ。武器はなかったので、爪楊枝だけグルカ兵を3人も殺したんだ」
 もちろん作り話である。そんな類のホラ話が敗戦後のアルゼンチン各地で聞かされたという。なんともラテンらしいではないか。

グルカ兵のその後

 フォークランドでは活躍の場を与えられなかったグルカ兵だったが、その後が気になる。1994年に4個連隊が王立グルカ・ライフル連隊に統一されて縮小された。それでもコソボ紛争、シエラレオネ内戦、イラク戦争、アフガニスタン紛争でグルカ兵が戦闘に参加している。また東ティモールでの国際連合平和維持活動でもグルカ兵の姿が見られた。
 1997年に香港が中国に返還されまで、グルカの新兵訓練所も香港に置かれていた。香港駐留の英国陸軍部隊のほとんどがグルカ兵だったからである。彼らは国境警備を主要任務としていた。しかし、香港が中国に返還された後、当然のこととして英国軍は香港か立ち去る。
 では、グルカ兵はどうしたのか。英国軍の香撤退でネパールに帰ったグルカ兵は極めて少ない。ほとんどが英国に渡った。現在も英国のケント州を拠点に3500人が任務に就く。
もちろん、香港に残ったグルカ兵もいる。国に帰っても仕事があるとは限らないからだ。 グルカ兵はもともとネパール人だ。ネパール人は香港の永年市民権を持つ。だから、香港に残ることを選択した元グルカ兵たちは、独自に傭兵会社を設立したり、警備員として就職したりしている。
 しかし、ネパールで生まれ育った若者たちの夢は、海外でカネを稼ぎ、家族に送金することだ。ネパールには、英国軍とインド軍に兵士を提供する200年も続く伝統がある。ネパール人男性は1815年から「ブリティッシュ・グルカ」として英国陸軍に従軍してきた。 インドは英国から独立した後もその伝統を受け継ぎ、1949年からシンガポール警察に「グルカ部隊」を送り込んでいる。このようにネパールは何十年にもわたって、三国間条約を通じて、英国軍とインド軍に若い男性を派遣してきた。
 とくにインド陸軍はネパールの若者にとって憧れの就職先である。社会保障と年金の終身支援が約束されているからだ。ところがインドは2022年、国防予算のコストと兵士の福利厚生を削減した。その結果、終身雇用の代わりに4年間の任務に就くという改革を導入したのである。数週間後、ネパールは200年の歴史を持つ徴兵プロセスを、より明確になるまで停止した。
 もはやインド陸軍への就職はグルカ兵にとって魅力的ではなくなった。これに目を付けたのが、ウクライナ侵攻で兵員不足に陥っているロシアである。プーチン大統領は「1年間兵役に就いている外国人は、完全なロシア市民権の申請を早める」と発表した。

ロシアの傭兵としてウクライナの前線に

 英国のオンライン新聞『インデペンデント』(2023年12月11日号)は、ウクライナ当局者によるものとして、ロシアのために戦って捕らえられたネパール人の動画を投稿した。
「私の家族は困っています。母は働いていないし、お金も必要だ。だから私はロシア軍に入隊しました」とビデオで語るネパール人男性。「私は成功した男として母の元に戻りたかった。それで参加したんです」
 当時、すでに約200人のネパール国民が傭兵としてロシア軍に勤務していると考えられていた。しかし、ネパールの傭兵はロシアのために戦っているのではない。ウクライナ側に入隊し、ロシア軍相手にと戦うネパール人もいる。はるか離れた異国で同胞同士が戦っているというわけだ。
「ロシア軍に入ったらカネが稼げるぞ!」
 そんな口車に乗せられたネパール人たちは、主にロシアと良好な関係を保っているUAE(アラブ首長国連邦)経由でロシアに入国する。ロシア軍に入ったネパール人たちは、すぐさまウクライナの前線に送り込まれるというわけだ。金儲けどころか、地獄が待っているのも知らずに。
 言うまでもなく、儲けているのは、密入国業者だけである。彼らは観光ビザでロシアに入国したネパール人を、それこそ「人身売買」し、1人あたり最大9000ドルを荒稼ぎしているという。給料の未払いも少なくない。文句を言っても埒が明かず、命がけで脱走するしかない。
 脱走するにもカネがかかる。元ネパール陸軍兵士とその友人3人の例を紹介しよう。彼らは人身売買業者にそれぞれ2000ドルを支払って、ウクライナから国境を越えてロシアのモスクワへ。昨年12月、ニューデリー経由でカトマンズに逃げ帰ることに成功した。
 こんな成功例は稀である。ロシアも警戒を強めているからだ。多くの者が脱出を試みているが、ほとんどが失敗に終わっている。
 ネパールのナラヤン・プラカシュ・サウド外相は今年1月25日、ウクライナと戦うために徴兵された数百人のネパール国民を送り返し、紛争で死亡した人々の遺体を本国に送還するようロシアに要請したことを記者会見で明らかにした。
 家族を養うためにウクライナで命を落とすという悲劇を引き起こすのは、とりもなおさずネパールの貧困である。なにしろネパール国民の15%以上が貧困ライン以下で生活しているのだ。そのため、毎年何万人ものネパール人が働きのために湾岸諸国に渡航しており、国際送金は同国のGDPの約23%に達している。
 ネパールはまた世界第2位の兵力拠出国でもある。国連平和維持軍をはじめ、世界各地で多くの任務を遂行している事実を知る必要があるだろう。ネパール人志願兵がフランス外人部隊や米軍に従軍し、中東やアフリカの治安部隊や地雷除去所に就いているという報告もある。
『インデペンデント』によると、米国市民権移民局の2021年のデータでは過去5年間で少なくとも1000人のネパール人が米陸軍に入隊して米国市民権を取得したという。また少なくとも300人のネパール人がフランスの外人部隊に入隊した。
 推計によると、2022年のネパールのGDPの25~30%は、海外から得た公式の給与と、傭兵などが「非公式」に持ち帰った金だという。

強化されたフォークランド諸島の軍備

 さて、フォークランドに話を戻そう。
 フォークランド紛争が引き起こされたのは、英国がフォーンランド諸島にあまりにもささやかな軍事力を配備していたからだろう。その教訓を得たのか、フォークランド諸島は、以前よりもはるかに強固な英国の三軍(陸軍、海軍、英国)によって守られている。
 紛争終結後、英国は島の防衛に多額の投資を行った。その代表格が、スタンレーの西43キロに位置するマウント・プレザント空軍基地である。1985年に開設され、翌年から本格的に運用を開始した。
 恒久的な軍事基地である同基地には現在、1300人から1700人の軍人および民間人が常時駐留しており、南大西洋における英国軍の中心地でもある。基地の中心には2本の滑走路があり、空軍のタイフーン戦闘機4機が拠点とし、フォークランド諸島、サウスサンドウィッチ諸島、サウスジョージアのパトロールを実施している。
 さらにボイジャー空対空給油タンカーも常駐し、A400Mアトラス輸送機とともにタイフーンジェット戦闘機を支援している。タイフーンはNATO加盟国のイギリス、ドイツ、イタリア、スペインの4カ国が共同開発した戦闘機だ。
 またアルゼンチンの侵攻を阻止するため、早期警戒および空域管制ネットワークがフォークランド諸島上空を監視している。

▲ボイジャー空中空輸機

▲フォークランド諸島の地図

 

 英国海軍は紛争の終結後、マウント・プレザントの主要な軍事施設が完成したのを機に、護衛艦、潜水艦、哨戒艇を中心に構築された大規模な王立海軍戦隊をこの地域に展開している。とくに哨戒艦フォースが、この地域の恒久的な警備艦として活動するなど、フォークランド諸島とその周辺に恒久的に駐留している。第2次世界大戦以来、英国海域外でもっとも長く展開されている海軍の一つだ。
 英国陸軍は、フォークランド諸島で何百人もの兵士を常時訓練しており、恒久的な駐留を維持している。主に王立工兵隊と王立砲兵隊で構成され、砲兵隊にはスカイセイバー地上防空システム(GBAD)を配備されている。
 スカイセイバーは古いレイピア防空システムに取って代わったもので、長距離監視レーダーと中距離ミサイルと敵機を阻止することができる共通対空モジュラーミサイル(CAMM)で構成。陸軍部隊は住民らで構成されるボランティア部隊「フォークランド諸島国防軍」と協力している。このように、フォークランド諸島の防衛体制は強化されたとみなしてもよいだろう。(つづく)

 

★最終回は、第二次フォークランド紛争の可能性、アルゼンチンに忍び寄る中国の影、そして、ロシアから引き継いだ南極戦略とは何か…。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 迷走する日本半導体 【連載... | トップ | 日本勢が生き残るには… 【連... »
最新の画像もっと見る

【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ」カテゴリの最新記事