【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ②
伝道のため実業家に
山本徳造(本ブログ編集人)
▲多彩な顔を持つヴォーリズ
YМCA活動にのめり込んだ大学時代
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは1880年、カンザス州のレブンワースで生まれた。赤ん坊の時、従姉がピアノでメンデルスゾーンやブラームスの曲を弾く横にさえ座らせておけばご機嫌だったという。ヴォーリズが初めて教会に連れていかれたのは4歳の頃だった。そこで初めてパイプオルガンと聖歌隊の合唱を耳にして感動したらしい。
「僕、大きくなったら音楽家になるんだ」
音楽家を夢見たヴォーリズ少年は、12歳のときにピアノを弾きはじめた。それから数年もしないうちに、オルガン奏者として教会で讃美歌を伴奏する。
コロラド大学に入学したのは、20世紀最初の年だった。1900年、ヴォーリズ20歳のときである。大学ではチャペルで朝の礼拝があった。ここでもパイプオルガンの奏者を任されることになった。ヴォーリズは狂喜した。パイプオルガンの演奏を夢見ていたからである。
入学と同時にヴォーリズはYМCAの奉仕活動に熱心に取り組んでゆく。だが、この時点で建築家になることを夢見ており、海外へのキリスト教伝道の必要は認めながらも、自らは祈りと献金による支援を行うつもりでいた。
しかし、彼の運命を変える出来事に遭遇する。1902年にヴォーリズはカナダのトロント市マッセイホールを会場とした「海外伝道学生奉仕団」の第4回世界大会にコロラド大学YМCA代表(コロラド州から1名)として参加した。この大会がきっかけで、ヴォーリズは伝道の道に進むことを決意する。といっても、宣教師なると決めたわけではない。
「海外でいろんな職業に就いて、現地で生活しながらキリスト教を広めたい」
ヴォーリズはニューヨークにある海外伝道学生奉仕団本部に海外伝道の決心を伝えた。それから2年後の1904年、コロラド大学を卒業する。
英語教師として日本へ
大学を卒業した翌年、ヴォーリズは日本で英語の教師を求めていることを知らされた。それも東京や大阪といった大都市ではなく、滋賀県の商業学校というではないか。多少の不安があるものの、ヴォーリズは快諾した。こうしてヴォーリズは見ぬ東洋の日本を目指して太平洋を渡った。
「日本の若者に英語を教えながら伝道しよう!」
そんな希望と熱意を胸に、ヴォーリズは近江八幡の商業学校に英語教師として赴任した。明治38(1905)年2月のことである。当初は英語を教えるのも楽しく、彼らがキリスト教徒になるのを信じて疑わなかった。ところが、早くも問題が発生する。
良くも悪しきも若者によくあることだが、あまりにも伝道活動に熱心すぎたようだ。「ガリラヤ丸」という船で琵琶湖岸各地を伝道したり、生徒にキリスト教への改宗を迫ったりするなど、周囲からすれば、伝道活動が目に余ったに違いない。
商業学校との雇用契約は2年間だったが、その契約は更新されなかった。
「さて、これからどうしようか。日本で伝道活動を続けるにも資金が必要だ」
しかし、あてはなかった。
▲日本で活動し始めた頃のヴォーリズ
そんな彼に朗報が舞い込む。近江八幡のYМCA会館の建設監督をやってくれないかという依頼である。
建築家を目指したこともあるヴォーリズにとって、願ってもない話ではないか。彼が引き受けたのは言うまでもない。来日して2年後の明治40(1907)年のことだった。ヴォーリズ、27歳のときである。これが建築家として最初の仕事だった。
伝道のためには、もっと堅実な強固な経済的な基盤を築く必要があった。その準備のため、ヴォーリズはいったんアメリカに帰国し、翌明治43(1910)年、建築家のレスター・チェーピンを連れて再来日する。そして商業学校を卒業したばかりの吉田悦蔵らと「ヴォーリズ合名会社」を設立した。建設・設計がメインの会社を始めたのである。
仕事が軌道に乗ると、近江八幡に再び活動の拠点を移し、精力的に西洋建築の設計に取り組むことになった。最盛期には30名以上のスタッフがいたという。もちろん生活も安定したので、大正3(1914)年には、アメリカから両親を呼び寄せた。
勢いに乗ったヴォーリズは大正7(1918)年、キリスト教の伝道と関連した教育を広めようと、近江伝道団(後に近江同胞団と改名)を設立する。まず近江八幡に結核病院を開設、さらにヴォーリズ学園を設立した。大正9(1920)年には、布教活動支援の資金をつくるため、「近江兄弟社」を設立し、アメリカの軟膏薬メンソレータムをライセンス生産し始める。
子爵の娘、一柳満喜子と結婚
この頃、ヴォーリズの私生活でも大きな変化があった。一柳満喜子と知り合ったのだ。
旧小野藩主で子爵の一柳末徳と敬虔なクリスチャンである母親の栄子との三女として東京で生まれた滿喜子。 神戸女学院音楽部(ピアノ専攻)卒業後、日本女子大学校で助手を務めたが、1909年に渡米してブリンマー大学(ペンシルバニア州)で学ぶ。しかし、大正6(1917)年に父親が病気で倒れたので、アメリカから呼び戻されていた。
ヴォーリズが大阪の豪商である廣岡家から増改築を依頼されたのは、その翌年のことである。そのときの通訳が滿喜子だった。なぜ彼女に通訳の話があったのか。満喜子の兄が廣岡家の婿養子だったからだ。9年間もアメリカで生活していた滿喜子は通訳だけではなく、廣岡家とヴォーリズの間で行われた増改築の協議にも加わったという。そんな聡明かつ美人の彼女に、ヴォーリズは「一目惚れ」した。
▲ヴォーリズが一目惚れした一柳満喜子
▲ヴォーリズ・満喜子夫妻
積極的に伝道したように、彼女への想いを手紙にしたためたのは言うまでもない。詩心もあるヴォーリズである。もちろん手紙に詩を添えることも忘れなかった。その努力の甲斐があったのか、満喜子はヴォーリズの気持ちを受け入れる。
ところが、日本に留まることはなかった。アメリカ留学中に満喜子が世話になった女性教育家、アリス・M・ベーコンを看病するため、アメリカに戻らざるを得なかったのである。ベーコンは明治17(1884)年に初来日し、華族女学校の英語教師を務めた。その後いったん帰国するが、明治33(1900)年には東京女子師範学校と女子英学塾の英語教師として再来日。2年間教えた後、帰国した。いわば日本の女子教育の功労者である。
アメリカに戻った滿喜子は、ベーコンを数カ月看病した。帰国後、ヴォールズと結婚することになっていたが、大きな壁にぶち当たる。宮内省から「華族の一員は外国人と結婚することはできない」と言われたのだ。弱りはてた満喜子とヴォーリズであった。何かいい手段はないのか。一つだけあった。
「そうだ。私が平民になればいいのよ」
満喜子は、華族から離脱する道を選んだ。なにやら真子さんと小室圭氏みたいだが、当時としては思い切った決断だったことだろう。二人の結婚を宮内省も渋々認めざるを得なかった。大正8(1919)年6月3日、東京の明治学院大学のチャペル(ヴォーリズが設計)で結婚式が行われ、近江八幡でも結婚披露の音楽会が催されている。
この結婚でヴォーリズの伴侶として家庭に収まるような満喜子ではなかった。満喜子夫人は結婚の翌年から教育事業に乗り出す。親が忙しくて子供たちの世話ができない家庭が珍しくない時代である。そこで彼女は思っていたことを実行に移した。大正9(1920)年、蒲生郡八幡町(現在の近江八幡市)に「プレイグラウンド」を設けたのである。地域の子供たちの遊び場だ。
メンソレータムを日本で販売
この年、ヴォーリズは伝道活動支援の資金をつくるため、近江セールズ株式会社を設立した。同社が最初に扱った商品というのが、アメリカの軟膏薬メンソレータム。アメリカから「メンソレータム」を輸入して販売を開始した。
その後、同社は近江兄弟社と改名し、日本における「メンソレータム」の製造・販売権を取得する。こうして日本でライセンス生産を行うことになったのだ。
ところで、なぜ「近江兄弟社」なのか。言うまでもなく「近江」は創業の地。「兄弟」は「志を同じくする仲間」を意味らしい。キリスト教の隣人愛をもろに表現した社名だった。
同社が最初に扱った商品というのが、アメリカの軟膏薬メンソレータム。これをライセンス生産し始めたのである。発売当初はあまり売れなかった。なにしろテレビ・コマーシャルやネットのない時代である。大規模な広告は期待できない。
ではどうして広がったのか。もちろん、使った人の「傷口に塗ると効いたよ」という声もあっただろう。しかし、「手荒れや擦り傷にメンソレータム!」「何にでも効果あり!」と、と教会婦人部の口コミで全国に広まったようだ。
一方、満喜子もヴォーリズに負けてはいない。大正11(1922)年には、池田町に「私立清友園幼稚園(現・近江兄弟社学園)」を開設する。園舎は家屋を改修したものだった。昭和6(1931)年にはヴォーリズも加わって、現在の近江兄弟社学園の地に本格的な園舎を建設する。建設費用には、メンソレータムの創始者、アルバート・アレキサンダー・ハイド夫妻からの多額の寄付も入っていた。
『放浪記』の林芙美子もメンソレータムを愛用
メンソレータムで思い出した。余談だが、聞いてもらいたい。
林芙美子の代表作といえば、昭和5(1930)年に改造社から出版した自伝的小説『放浪記』だろう。この小説は森光子が長年にわたって舞台で主役を務めたので、あまりにも有名だ。さて、『放浪記』で一躍ベストセラー作家になった林は、たっぷり印税が入ったので、まず中国大陸へ。次は朝鮮・シベリアを経由してパリ、ロンドンへと、いずれも気ままな一人旅に出かけている。
私が言うまでもなく、当時は『地球の歩き方』やスマホで旅行情報を簡単に得る時代ではなかった。それも女性の一人旅である。おまけに満州事変が始まっていたので、けっして平和な時代ではない。命知らずの冒険好きだったのか、それとも単に好奇心旺盛な性格がそうさせたのか。彼女のその後の行動を見てみると、そのいずれにも当てはまるのかもしれない。
昭和12(1937)7月7日、北平(今の北京)郊外の盧溝橋付近で夜間演習していた駐留日本軍に中国国民党軍が発砲したことから両軍が武力衝突。これが8年に及ぶ支那事変(第二次大戦後は「日中戦争」と言うらしいが)のきっかけとなった。
林芙美子も支那事変に従軍して、数々のレポートを書いている。同年の南京攻略戦、翌昭和13(1938)年の武漢作戦にも従軍した。また陥落後の漢口へは男性をさておいて一番乗りを果たしている。これらの従軍記は『戦線』『北岸部隊』として出版された。
しかし、そんな怖いもの知らずの林でも、健康には十分注意していたようである。彼女がいつも旅に持っていくのが、ビオヘルミン、ロート目薬、アスピリン、仁丹、それにメンソレータムだった。
▲怖いもの知らずの林芙美子
日支事変が始まって1カ月後の昭和12年8月14日付の大阪朝日新聞朝刊にメンソレータムの全面広告が載った。そこにはこんなコピーが。「万歳! 武運長久を祈る!」「皇軍将士に送る慰問袋はメンソレータムをお忘れなく」
この全面広告でわかるように、メンソレータムは前線の兵士たちの必需品になっていたのだろう。また、同年9月18日付の大阪毎日新聞夕刊一面にも、「世界の家庭薬」と銘打った広告が掲載された。そのコピーは…
痛いから泣きます 打ったところ切ったところ
すでにご用意のメンソレータムをおつけ下さい
いずれにしても、メンソレータムの名が全国に広まっていたことは間違いない。
▲大阪毎日新聞夕刊一面に広告が
余計なことかもしれないが、「メンソレータム」のその後が気になって仕方がない。一時、「メンターム」と改名した記憶があったからである。調べてみると、次のようなことがわかった。
昭和49(1974)12月、近江兄弟社は倒産したが、再建のためにメンソレータムの製造・販売権をアメリカのメンソレータム社へ返還する。同時に「リトルナース」の商標権もメンソレータム社へ売却した。
その後、近江兄弟社は大鵬薬品工業の資本参加などによって再建され、かつての生産ラインで「メンターム」という名で製造・販売を行う。昭和50(1975)年(年)、ロート製薬が日本での「メンソレータム」の製造・販売権をメンソレータム社から取得、技術・資本面でも提携した。
そしてロート製薬は昭和63(1988)年にメンソレータム社を買収し、傘下に収めたというではないか。これによって、同社はメンソレータムの商標と経営権を取得した。もしヴォーリズが存命だったら、この展開にさぞ驚いたに違いない。
それはさておき、ヴォーリズが建築家として日本で築いた実績を知ってもらいたいものだ。ヴォーリズほど数多くの西洋建築を設計した外国人はいないからである。
私は前号(「山の上ホテルとヴォーリズ建築事務所」)で「(山の上)ホテルの外観を見ていると、どこかで見たような気がしてならない」のがきっかけで、「一人のアメリカ人建築家にたどり着いた」と記した。その理由もわかった。というのは、私が大阪で生まれ育ったからだ。
ヴォーリズは関西で数多くの建築物を設計している。その中には、関西学院、同志社、神戸女学院といった関西のミッション系大学の建物も含まれていた。
神戸女学院はともかく、関西学院、同志社の両大学には、何度が足を運んだことがある。「なんて美しい建物が多いのか」というのが、私の印象だった。それらの建物と山の上ホテルが二重写しになったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
では一体、どんな建物をヴォーリズは設計したのか。次号では、大学も含めた建築家ヴォーリズの実績の数々、そして同志社との深い関係を紹介したい。(つづく)