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空母インヴィンシブルはどこへ消えたのか 【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ③

2024-06-24 05:31:03 | 【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ

【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ③

空母インヴィンシブルはどこへ消えたのか

山本徳造(本ブログ編集人)

 

『週刊ポスト』で筆者が英国海軍の空母インヴィンシブルが炎上する写真を捏造だとした。同じ小学館が出していた写真雑誌『写樂』も、筆者の取材をきっかけに、駐日英国・アルゼンチン両大使館などに取材した記事を掲載する。今回は『写樂』の記事を筆頭に、「インヴィンシブルはその後、どこへ消えたのか?」「英海軍駆逐艦シェフィールドは核兵器を搭載したまま海底に沈んだ」といった疑惑に迫った。そして、インヴィンシブルから離着陸したヘリの副操縦士として活躍し、「フォークランドの英雄」となったアンドルー王子の身から出た錆ともいうべき醜聞にも触れたい。

 

▲写真雑誌『写楽』も取り上げた

 

写真雑誌もインヴィンシブル炎上の疑惑を検証

《はるか海のかなた、わたしたちの目のとどかないところで、この戦争が、わたしたちの想像力の及ばない超近代的な兵器で戦われていたとき、連日のようにテレビやニュースペーバーの紙上をにぎわした無数のフィルムや写真たちは、戦争そのものについて、わたしたちになにを伝えようとしていたものだろうか。
 フリージャーナリストの山本徳造さんが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに渡ったのは、まさにイギリス機動部隊約1000人が本島のポートサンカルロスに上陸したその日、5月21日のことだった。》
 私がアルゼンチン取材から帰国して約3カ月後、小学館の写真雑誌『写樂』(1982年10月2日号)が『週刊ポスト』で触れたインヴィンシブル炎上の疑惑写真について、次のようにフォローした。
《「これが戦争中の国なのだろうか!?」
 彼はまずそう感じた。
「やけに平穏な感じで、夜の11時から平常どおりに酒場も開いている。
みんなワールドカップに夢中でしたね」というのだ。
 もちろん、そんなブエノスアイレスの街にも、戦争中だとひと目でわ
かるところがあった。道に50メートルおきにある新聞売り場。マルビナス諸島で、いかにアルゼンチンが優位に戦いを進めているかを特大活字で告げる新聞や雑誌の山。ニュースは、アルゼンチンの優勢を連日伝えていた。
『レビスタ10』という邦貨で350円ほどの週刊誌の5月25日号のカバーには、ア軍の空軍ヘリから英戦艦を見おろす写真が使用されていたし、1週間後の6月1日号には、〈無敵・無敗〉を意味する英空母インヴィンシブルが、なんと5月31日のア軍の攻撃によって炎上しているナマナマしい特撮のモノクロ写真が、いかにも号外の雰囲気で、ア軍の勝利を歌いあげていたのである。
 このカバーフォトを見て、山本さんは首をひねった。ふつうなら火災をおこした空母はスピードを落とし消火活動をするはずなのに、この波のたちかたから判断すると、減速もしていないし、おまけに消火作業の人影もない。退避するはずの戦闘機すら、飛び立つ気配もないと、おかしなことだらけだ。
 のちの調査で、この写真は無傷の空母に黒煙と炎をもっともらしく描き加えた合成写真だったことを山本さんは確信することになる。
 山本さんが持ち帰ったこの雑誌を見、新聞の報道を読むうちに、さらにいくつかの疑問点がわきあがってきた。なぜ『レビスタ10』は、こんなでっちあげの写真を掲載したのか。その後、すべてのニュースからかき消すように姿を消したインヴィンシブルは、いまどうなっているのか?》

 
駐日英国大使館は「エグゾセ」被弾を否定したが……

『写樂』記事の続きを見てみよう。

《『レビスタ10』には、5月31日、マルビナス諸島東方30マイルのところで、空母インビンシブルを、ア軍のシュぺール・エタンダールとスカイホーク4機が、攻撃して大破させたとある。シュペール・エタンダール2機は、2発のエグゾセ・ミサイルを命中させ、その瞬間スカイホーク1機が500キロ爆弾2発を投下させたのだ、とも。
 さっそく、東京のイギリス大使館広報担当官のディクソン氏にたずねると、即座に、
「インビンシブルは、エグゾセによる爆破は受けていない」
 と明言したが、エグゾセ以外の火器による被爆ないし被弾を否定しなかった。なんとなく、ニオウのである。
 攻撃したア国の見解は、ではどうなのだろう。アルゼンチン大使館海陸空武官キャプテン・ヘルバシオ・メンデス・カサリエゴ氏は、
「この写真は、政府関係の写真ではありません。まったく私的なものです。だいいち、攻撃機に乗っているパイロットに、写真を撮るゆとりなんてありませんよ。わたしも、合成だと思います。しかし」
 そういってしばらく言葉を切ると、
「しかしインヴィンシブルは被弾しているはずです。5月30日、わが軍は空母を含む艦隊に対して攻撃をかけました。まず、敵をおびきよせるために、わが国のミラージュ戦闘機の編隊が"おとり"としてイギリス艦隊にちかづきました。そして、ハリアーをひきよせたあと、低空からシュペール・エタンダール1機、さらに両脇にスカイホーク1機ずつの計3機が、敵艦隊にちかづきました。レーダースコープを見て、いちばん大きい艦影を狙い、37マイルのところからエグゾセを発射。その時点でシュペール・エタンダールは帰還しました。その後、2機のスカイホークが攻撃に入ったのですが、その大きな艦にエグゾセが命中し、オレンジ色の炎が高く上空まであがり、煙を噴いていました。すかさず、スカイホークも、100ポンド爆弾を投下しました。船首と船尾に命中させました。イギリスはエグゾセをシーウルフ(迎撃ミサイル)で打ち落としたと発表していますが、それはウソです。エグゾセは命中しています。 最初、アルゼンチン側は、インヴィンシブルは沈んだと思ったんですが、いまだにイギリスは認めてはいません。これが、ことの真実なんですよ」
 とまるで見てきたような「事実」を語ってくれたあとで、さりげなく、
「インヴィンシブルが攻撃を受けたので、のちの上陸作戦では、すくない飛行機で作戦を開始しているんです」
 とつけくわえたものだった。
 いったい、どうなっておるのか?
 イギリス側は、インヴィンシブルはエグゾセに被弾しておらず、しかも大破もしていないという。では、いまこの"無敵"インヴィンシブルはどこにいるのか、と重ねて聞くと、前出の英国大使館の広報担当官氏は、
「帰途についている」
 とくり返すだけ。
 かたやアルゼンチンの駐在武官(前出)は、あくまでも私的な見解だがとことわったうえで、
「インヴィンシブルは、イギリスの港に入る前、どこかのドックに入るでしょう。たぶんアメリカ……アメリ力しかない」
 と、帰国前にアメリカに寄港して修理をしているはずだと、いう。》

インヴィンシブルは核爆雷を搭載していた!?

 炎上の疑惑写真はともかく、インヴィンシブルが核兵器搭載艦だったことが紛争終結後に明らかにされる。フォークランド諸島に向かっていたとき、同空母が標準兵装の一部として10発の核爆雷を搭載していた。英国海軍が戦時を想定して核兵器を装備した軍艦の1隻だったのからである。しかし、同空母に積載された核兵器は1982年5月初旬、南大西洋で移動中に撤去されたという。
 核兵器に関して気になる報道があった。ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』(1982年10月5日号)が、こんなスクープ記事を載せたのだ。英海軍の駆逐艦シェフィールドに核兵器が搭載されていたが、アルゼンチン軍のシュペルエタンダール攻撃機から発射された空対艦ミサイルエグゾセによって撃沈された。つまり、核兵器とともに海中に沈んだというのだ。
 フォークランド紛争終結後、英国政府は軍事秘密保持法を発令した それによると、1982年6月から2072年6月までの90年間、同紛争に関する秘密のデータまたは情報を開示した場合、控訴裁判所に提訴されるのだそうだ。しかし、インヴィンシブルも核兵器を事前に撤去していることから、シェフィールドも同様に撤去していたとみたほうがいいだろう。


▲核兵器搭載のまま沈没と疑われた駆逐艦シェフィールド


 フォークランド紛争終結後、インヴィンシブルは、どこで何をしていたのか、あまり知られていない。1983年7月、英国防省は3隻の空母部隊を維持するため、インヴィンシブルをオーストラリアに売却する提案を取り下げたと発表した。そして同年12月、インヴィンシブルがシドニーの乾ドック施設を使用しようとした際、核兵器の有無をオーストラリア側に明らかにしなかったため、シドニー入港を拒否されている。
 ユーゴスラビア内戦が勃発したのは、1991年のことだった。この内戦に対処するため、インヴィンシブルも1993年から1995年までアドリア海に配備される。
 1997年から海兵隊3個旅団を含む機動艦隊を指揮した。またイラク南部での作戦にも参加するが、その後はバルカン半島に再配備され、コソボをめぐるNATOの対ユーゴ作戦を支援したのを最後に予備役艦のリストに入る。が、2010年9月に予備役リストから抹消され、入札に出された。
 香港の英字紙『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』は2011年1月8日、英国に住む中国人実業家が500万ポンドで入札し、水上インターナショナルスクールとして珠海かリバプールに係留する計画があったと伝えた。
 結局、入札は実現に至らず、その年の4月にトルコのアリアガ船舶解体場でスクラップにされる。1980年7月の就航から31年という短さだった。あまりにも寂しい末路ではないか。

フォークランドの「英雄」だったアンドルー王子が醜聞で英王室から追放された

▲アンドルー王子のスキャンダルを報じるデイリー・ミラー紙

 

 故・エリザベス女王の三男で現チャールズ国王の弟・アンドルー王子ほど天から地に落ちた人物はいないだろう。なにしろフォークランド紛争の「英雄」から恥ずかしい醜聞で「変態」扱いされたのだから……。
 1960年生まれのアンドルーは、19歳のときに海軍兵学校に入学した。兵学校を卒業後、空軍で基礎的な飛行訓練を受け、さらに海軍で汎用小型ヘリコプターの操縦を学び、さらに対潜水艦攻撃用ヘリ「シーキング」の操縦士に転向した。
 そしてフォークランド紛争が勃発した1982年、第820海軍航空隊の一員となってインヴィンシブルに乗艦する。そう、「シーキング」の副操縦士として乗り組んだのだ。こうして王子はアルゼンチン軍相手に様々な任務をこなした。英国政府が慌てふためいたのは言うまでもない。「もしアンドルーが戦死したら大変だ」というわけである。
 そんな最悪の事態を避けようと、アンドルー王子を後方での事務職に就かせることを画策した。が、なんとエリザベス女王が愛してやまない次男がインヴィンシブルに乗艦し続けることを許可したのである。王子といえども、英国の王族は軟弱ではない。昔から英国の貴族は、戦いの先頭に立って戦うのが常だ。アンドルー王子も例外ではなかった。
 しかし、ヘリの操縦士は一番危険な役割を与えられたようである。英国艦隊がもっとも恐れていたのが、アルゼンチン軍が保有する空対艦ミサイル「エグゾセ」だった。そこで艦艇への攻撃をかわすためにヘリが囮の役を演じることになったという。
 アンドルー王子らヘリのパイロットたちは、危険を顧みず自発的に囮の任についた。エクゾセが向かってくるのを確認すると同時にヘリは飛び立つことになったのだ。まさに一か八かの勝負である。王子と言えども、いざ戦闘になったら、兵士以外の何者でもない。幸いにして、実際に対艦ミサイル攻撃が行なわれることはなかったらしい。
 フォークランド紛争が終わって帰国したアンドルー王子は「英雄」として迎えられた。ましてや王子はかなりのイケメンである。英国の未婚女性たちのハートを鷲づかみにしたのも無理はない。そんなモテモテの王子は帰国から4年後、セーラ・ファーガソンと結婚する。二女をもうけるが、結婚生活は10年で終わった。

 

▲結婚したアンドルー王子とセーラ・ファーガソンだったが……


 ところが、離婚後もふたりは良好な関係を続けただけでなく、ウインザーのロイヤル・ロッジで同居しているというから面白い。英国の貴族社会を俗人が理解しようとしても無理なのかも。そして、例のスキャンダルが発覚する。

▲ニューヨークの路上で話し込むアンドルー王子(左)と自殺した(?)エプスティーン


 米ニューヨーク州でで2021年8月、ヴァージニア・ジュフリー(旧姓ロバーツ)という女性が2001年にアンドルー王子と性的関係を持ったとして王子に対する民事訴訟を起こしたのだ。彼女は当時17歳だったという。このニュースが大々的に報じられたのは、2019年に性的人身取引で起訴された後、ニューヨークの拘置所で急死した米富豪ジェフリー・エプスティーンを訴えていた一人で、しかもアンドルー王子がエプスティーンと親交があったからである。

 アンドルー王子は疑惑を否定したが、王子は近衛歩兵連隊連隊長の役職の他、9つの軍役職を返上した。さらにカナダやニュージーランド両軍の名誉職も失うことになったが、海軍中将の階級だけは維持されるという。早い話が、英王室から追放されたのである。
 2022年2月、アンドルー王子が原告に多額の和解金を支払うことで和解が成立したが、失ったものはあまりにも大きかった。「フォークランドの英雄」というイメージは、醜聞で跡形もなくかき消されてしまったようである。(つづく)

 

★その後のアルゼンチンに忍び寄る中国の影は次回にまわし、さらにアルゼンチン側の本当の戦死者数、戦場にいなかった勇猛果敢なグルカ兵、英国がフォークランド諸島の軍備を強化した理由などに触れたい。


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