【連載】腹ふくるるわざ㊹
鳥見神社
桑原玉樹(まちづくり家)
私は、約20~30年前に2回、計5年半奈良市に単身赴任していた。その時の住所は「奈良市鳥見町」だった。一方、白井市にはいくつかの鳥見神社がある。「鳥見神社と鳥見町って、関係あるのかな?」と思って、調べた。結果はやはり関係あるようだ。それは古代の大和地方と印旛(印波)地方を結ぶ歴史ドラマだった。
▲鳥見神社と鳥見町
印旛の鳥見神社
白井市には鳥見神社という名の神社が多い。自宅近くでは富ヶ谷にある。「K.K Gallery 白井市のご近所紹介」というサイトによると、白井市7、印西市11、柏市(旧沼南町3)の合計21社という。また、1社を除きいずれも河川近くの高台にある。しかも全国的にみても他には奈良県にあるくらいで他の県にはないようだ。どういうことなのか。
▲白井市・印西市の鳥見神社
奈良市鳥見町
私が単身赴任していた時の住所は「奈良市鳥見町3丁目」。奈良市鳥見町の周辺には「とりみ」あるいは「とみ」がつく地名が多い。最寄り駅は近鉄の富雄(とみお)駅、近くを流れる川は富雄(とみお)川。また隣の近鉄学園前駅北側には登美ヶ丘(とみがおか)という地名も。おまけに登美ヶ丘には、中、西、東、北を付けた町名の住宅地が広がり、登彌(とみ)神社というのもある。なんでこんなに「とみ」が多いんだ、と単身赴任時に思ったくらいだ。
登美ヶ丘が付く町名は、いずれも近鉄グループの近鉄不動産が1960年代から長年にわたって開発してきた新しい住宅地だ。「近鉄グループの大総帥である佐伯さんの奥さんの名前が登美子さんだからじゃないの」という俗説を聞いた。当時も「忖度」した社員がいたのだろうか。そこで近鉄のエライさんに聞いてみたところ、「違いますよ。ワッハッハ」と大笑いされた。奥さんの名前は千代子さんだった。
「登美ヶ丘」は、大和国北部の古称で、「鳥見郷(登美郷)」に由来するというのが本当だ。「とみ」は「鳥見」「登美」「登彌」「富」などとも表記され、現在の奈良市西部から生駒市東部の地名もこれに由来する。
昭和15(1940)年の紀元2600年頃には、この地域は「日本建国」の聖地として扱われ、近鉄奈良線 富雄駅も昭和16(1940)年から同28(1953)年は「鵄邑(とびのむら)駅」と呼ばれたこともあった。
後に書くが、神武東征の最後の戦いでの「登美(鵄)の瑞光」にちなんでのことだ。日本書紀には「今鳥見と云うは、これ(鵄邑)訛れるなり」と記載があるらしいが、本当のところはどちらが先かよくわからない。
▲「とみ」「とりみ」の地名と由来の地
饒速日の天孫降臨
白井・印西にある鳥見神社の祭神は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、その妻(長髄彦の妹)である御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト、鳥見屋媛=トミヤヒメともいう)、そして二人の子である宇麻志間知命(ウマシマジノミコト)の3柱だ。元々の祭神は鳥見長脛彦(トミナガスネヒコ)ではなかったかという説もある。
では饒速日とはどんな神様で、鳥見長脛彦とはどんな人物だったのだろう。調べるにつれ、古代史好きな人たちにとっては、強く興味を惹かれる話だったことが分かった。
日本の古代史を記す書物はいくつかある。中国を意識した外交用と言われる「日本書紀」、国内向けで天皇家寄りといわれる「古事記」、物部氏寄りといわれる「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」。
それぞれに都合がよいように書いてあるので、記述内容はかなり違うらしいが、ネット論者は「先代旧事本紀」に興味をひかれているようだ。これらの情報から「鳥見」に関連する事項をエイヤーっと要約すると、こういうことだ。
饒速日は天照大神の孫。天照大神から十種の神宝(トクサノカンタカラ)を授かり、天磐船(アマノイワフネ)に乗って河内国の河上哮ケ峯(イカルガミネ、生駒山?)の地に降臨した。
よく聞く天孫降臨は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が三種の神器を授かって宮崎県の高千穂に降りたったというものだが、これより前にもう一つの天孫降臨があったことになる。
どちらも天照大神の孫ということなので「ハトコ」かと思ったが、饒速日が兄、瓊瓊杵が弟ということらしい。しかし年代的辻褄は全く合わない。いずれにせよ天孫降臨に関しては饒速日の方が先輩だ。
饒速日命は哮ケ峯に降臨後に大和の国鳥見の白庭山に移った。奈良市西部から生駒市東部にかけての地域であったとされるが、近鉄不動産が開発した白庭台住宅地に「鳥見白庭山の碑」がある。
ところで饒速日は、天磐船に一人で乗っていたわけではない。随行32人のほか、警備の武官や船長らを入れると総勢73人にもなる。その中には各地の豪族が含まれており赤間からの豪族もいた。赤間は宗像神社の地。印旛の宗像神社に関係しそうだ。
▲二つの天孫降臨
鳥見郷と長髓彦
古代、矢田丘陵(生駒山の東側の丘陵)は、長層嶺(ナガソネ)といわれる長くのびた地形で、地名は鳥見といわれ、そこの部族の長が長髓彦(ナガスネヒコ)とも登美彦(トミヒコ)とも呼ばれていた。
彼は長くこの地域を治めていた。そこに饒速日が降臨した。その際、饒速日が十種の神宝を見せると、長髓彦は饒速日命に帰順し、その妹(登美媛)を娶らせた。こうして饒速日はこの地方を治めるようになった。神武天皇より前に饒速日が大和の地域を治めていたのだ。
奈良市石木町(上古時代は鳥美地域)に登彌神社というのがある。富雄川の近く。創建・由緒は不明だが、祭神の一柱が饒速日で、物部氏の一族である「登美(鳥見)氏」が祀ったとも考えられている。白井・印西の鳥見神社はこの神社から分社したのではないかという説もある。
神武東征と登美の瑞光(金鵄)
神武天皇は天皇になる前は磐余彦尊(イワレヒコノミコト)などと呼ばれていた。天照大神から5代目、瓊瓊杵からは3代目だ。磐余彦は日向の高千穂を出て瀬戸内海を東征して大和に向かった。大和の長髓彦を従えようと生駒山を越えて攻めたが苦戦した。
「東に向かって攻めるのは太陽に逆らうからアカン。天照大神に逆らうことになる」と転進。紀伊半島をグルーっと回って熊野から上陸。そして大和の北西部まで進軍。両軍は富雄川を挟んで対峙した。
苦戦を強いられている時、急に黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩きつけるように雹がふってきた。そのとき暗い大空の彼方から、サーッと一筋の光がさしたかと思うと金色の鵄(とび)が磐余彦の弓の先に止まり、さんぜんと光り輝いた。長髄彦軍の兵たちはまぶしくて目もあけられず、ついに降参した。戦前なら誰でもが知っている話だ。
日本書紀によると、以来この地を「鵄邑(とびむら)」と呼ぶことになり、鵄山、鵄邑、鳥見村、富雄など「とみ」「とりみ」の起源とされている。今、鵄山には「金鵄発祥之処」の碑が、近くの「御嶽山大和本宮」境内には「神武天皇と金鵄の像」が建てられている。
▲神武天皇東征之図(月岡芳年)
長髓彦の鎮魂祭
さて長髓彦は戦に敗れても磐余彦を天神と認めなかった。すると間を取り持てないと思った饒速日はなんと長髓彦を斬って、同族とともに磐余彦に帰順することになった。
そして磐余彦は天皇となる即位式を大和南部の鳥見山で執り行い、初代天皇の神武天皇となった。神武天皇は勝利したものの、前勢力を無視することは出来なかった。
そこで長髓彦を祀り鎮めるために即位式と同じ鳥見山で鎮魂式を盛大に行い、そこに鳥見神社を置いた。そして饒速日命の子の宇麻志間知は、霊(物の怪)を鎮める祭祀と軍事をつかさどる物部氏の祖(物部は「もののふ」とも読む)となったという。
一口に物部氏と言っても数多くの派がある。戦に敗れた長髓彦の一派など神武天皇を正統な統治者と認めないグループは印旛に流れ来て、鳥見神社を造営したという説もある。
▲鳥見山中霊畤
饒速日に率いられて印旛沼開拓
このころ、千葉と茨城の間には、霞ケ浦、手賀沼、印旛沼などを含む広大な 「香取の海」 があり、印旛沼周辺地域は当時の開拓の中心地であった。饒速日は、1世紀ごろに東征し、地元民と一緒に開拓し稲作を進めたという。史実でも「言美(とみ)郷」とよばれる郷(村)が存在した。
饒速日はその後、大和に戻ったというが、開拓に関わり土着することとなった物部氏のうち、大和の鳥見からきた物部が鳥見神社を造営し、そして宗像市赤間出身で天磐船にも同伴した物部が宗像神社を造営したのだろうか。
丁未の乱の物部落人
少し時代は下って飛鳥時代の西暦587年に「丁未(ていび)の乱」というのがある。仏教賛成派の蘇我馬子と仏教反対派の物部守屋が戦い、物部氏が敗れた。これ以後、物部氏は衰退した。
この時に物部氏は印旛の方に逃れてきて、この時に鳥見神社ができたのではないかという説もある。考古学的にも印旛地方の住居跡がこの時代に急増しているとか。千葉ニュータウン開発に伴って行われた発掘調査でも多くの遺物が確認されている。
景行天皇の行幸「鳥見の丘」
景行天皇は12代天皇だ。息子である日本武尊(やまとたけるのみこと)に「熊襲を退治に九州に行け」「今度は東国征伐だぞ」と過酷な命令ばかりしていたことを反省したのだろうか、息子の死後に同じルートをたどった。
和銅6(713)年編纂の「常陸国風土記」によると、その際に「下総国印波の鳥見の丘」から、目の前に広がる香取の海を眺め「常陸の国は青い波と赤い霞から湧き上がるように見える」とおっしゃったそうだ。鳥見神社はその鳥見の丘にちなんで名付けられたという説がある。
では、「鳥見の丘」とはどこだろう?
冒頭に紹介した「K.K Gallery 白井市のご近所紹介」というサイトでは、当時の海水面の高さを元にシミュレーションし、小林の鳥見神社あたりではないか、と推量されている。古代と現在をむすぶ想像の世界が拡がる。
▲鳥見の丘
4つの神社圏
印旛地方の神社の分布は大きく4つに分かれる。印旛沼(浦)の東岸に埴生(はぶ)神社、南岸に麻賀多(まかた)神社、北岸には宗像(むなかた)神社、その奥に香取の海に面して鳥見(とりみ)神社だ。
なぜこのような神社圏が成立したのか。4つの神社圏は次のように古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないかと言われている。それぞれはこうだ。
【埴生神社】古代に土器や埴輪などを作っていた土師部(はじべ)一族がこの地(埴生郡)に居住し、その職業から、自分たちの祖神ともいうべき埴山姫命を守護神として祀ったという。
【宗像神社】宗像大社は、福岡県宗像市にあり、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」の3女神を祀る神社だ。その昔、国造(くにのみやつこ)のもとで、干拓事業に従事した有力な一団に宗像出身がいて、そのままこの地に定着して宗像神社を作ったのではと見られている。そういえば饒速日の天磐船には赤間からの豪族(赤間物部)も乗っていた。九州から大和そして印旛へと移り住み、宗像神社を造営したのだろうか。
【鳥見神社】物部氏の祖である饒速日とその家族を祭神としている。また8世紀ごろには印波郡に言美(ことみ・とみ)郷という地区があった。ここまで書いたようにこの地区には大和の鳥見から移住した物部一族が住み着き、神社も大和のどこからか分祀したのだろうか。祭神も以前は長脛彦を祀ったのではないかという説もある。
【麻賀多神社】印旛国の国造として朝廷より派遣されてきた「多(おお)」氏一族が造営し代々祀ってきたことから「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味で名づけられた。なお「総国」の総は麻を表し、「佐倉」は「麻の倉」が転じたとされている。
▲印旛沼(浦)周辺の神社分布
とまあ、鳥見にまつわる話をしてきたが、鳥見神社は、どのような由来で造営されたのか諸説あることが分かり、私にとって謎は深まるばかりだ。古代における印旛と大和。深~い関係があることが分かって古代ロマンへの世界が拡がった。
【桑原玉樹(くわはら たまき)さんのプロフィール】
昭和21(1946)年、熊本県生まれ。父親の転勤に伴って小学校7校、中学校3校を転々。東京大学工学部都市工学科卒業。日本住宅公団(現(独)UR都市機構)入社、都市開発やニュータウン開発に携わり、途中2年間JICA専門家としてマレーシアのクランバレー計画事務局に派遣される。関西学研都市事業本部長を最後に公団を退職後、㈱千葉ニュータウンセンターに。常務取締役・専務取締役・熱事業本部長などを歴任し、平成24(2012)年に退職。現在、印西市まちづくりファンド運営委員、社会福祉法人皐仁会評議員。