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アンソニー・トゥ回顧録② 吹き荒れた白色テロの嵐

2023-01-30 05:48:56 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

2023-01-22 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録②

吹き荒れた白色テロの嵐

 

杜祖健(Anthony T. Tu)

 

筆者紹介 

台湾出身の米国の化学者。コロラド州立大学名誉教授。1930年、台北市生まれ。 日本統治下の台湾で初の医学博士となった杜聡明氏の三男。台湾大理学部卒後、渡米。ノートルダム大、スタンフォード大、エール大で化学・生化学を研修。ヘビ毒研究を中心に毒性学および生物兵器・化学兵器の世界的権威として知られ、松本サリン事件解明のきっかけを作った。「毒 サリン、VX、生物兵器」(角川新書)など著書多数。


【注目ポイント】
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、台湾から日の丸が去ったころを振り返り、台湾人としての心情を記録する。

 

 

死と隣り合わせの日々

私も中国兵の機銃掃射を受けて九死に一生を得るという体験をしたわけだが、1947年に起きたこの「二二八事件」こそ、台湾史上最大の衝撃的な出来事であったと言っていい。

事件勃発後、当時の台湾の行政長官であった陳儀(1883~1950)は、先に述べた通り、自治を要求する台湾人をあざむいて「要求を受諾した」「本土から援軍を呼ばない」などと発表し、態度を穏便に装った。だが実際は中国大陸本土に援軍を要請していた。3月10日頃に台湾北部の港町・基隆(キールン)から上陸した中国兵は、町で台湾人を見るやいなや、その場で撃ち殺すという具合だった。

私の父で、台湾人初の医学博士・杜聰明(1893~1986)は、この当時国立台湾大学(1945年に台北帝国大学からいったん国立台北大学に改称されたのち同年に再度改称)の医学院院長(医学部学部長)であった。


▲国立台湾大学の校門(杜祖健氏提供)


中国大陸からの援軍が来る前、台湾人は各地で二二八事件の処理委員会を設置したが、仕事に忙殺されていた父は、その委員会に出席することができず、代わりに彰化・鹿港の出身で台湾史上3人目の医学博士だった施江南氏(1902~47)に出てもらっていた。その後、彼は中国人(外省人)に暗殺された。

また父がこの医学院長の職にあった時、ある台湾人の弁護士が父に会いに来て、「あなたも暗殺対象のリストに載っているから早く隠れた方がいい」と知らせてくれた。

父は「了解」と承諾して、2階にあった院長室から何気なく外をながめていると、父に危機を知らせにきたその弁護士が、今まさに中国兵に捕らえられ、連行される場面だった。

これが、父がその弁護士の姿を見た最後となり、彼も後に暗殺されたことが判明した。

数年前日本に行ったとき、旧姓、邱さんという台湾人の医師が、私の父・聡明が彼の父君に一時期かくまわれていた、と教えてくれた。また米国ではその邱さんの弟君と一度お目にかかったこともある。

私は父・聰明が二二八事件の混乱のなかで一時期身を隠したことは知っていたが、その場所がどこであるかまでは聞かされていない。いま私は米国在住なので、今度その弟君の方にまた会うことができたなら、父は一体どこでかくまわれていたのか、さらに詳しく知りたいと願っている。

 
逮捕の危機は私や父にも

さてこの二二八事件の際、中国兵と実際に戦闘を繰り広げたのは日本統治時代の台湾で台湾共産党(日本共産党台湾民族本部)を設立し、活動初期には台湾独立を支持、戦後は中国共産党の指導を受けるようになっていた謝雪紅らであった。

謝は事件勃発直後の3月2日、台中において人民政府の旗を揚げ、強奪した弾薬などをもとに部隊を組織して武装蜂起を企てたが、台湾人は共産党と一緒に行動することに積極的ではなく、山岳ゲリラ戦などを模索しても原住民に拒絶されるなどで、結局謝はアモイ経由で香港に逃れていった。

これ以外で中国兵と実際に戦闘を展開したのは嘉義の中学生であった。しかし台湾人はまともな武器を持っていないので、最終的には敗北した。

台北でも建国中学の学生が中心となって中国兵と戦うつもりであったが、他の中学の連中も「参加する」と言いながら、結局は来なかったので蜂起は中止になった。

結局、中国大陸の援軍が基隆に上陸して以来、建国中の1年上の上級生はみな牢屋にぶち込まれる結果となった。

そのなかには台北の大きな薬局の息子の李君もいて、逮捕された後に釈放された際、彼は逮捕時の経緯を詳しく話してくれた。

それによると、彼は家まで押し掛けた中国兵に逮捕されたが、その時の彼のポケットに、彼の後輩として私の名前が書かれた名簿のメモがあった。

中国兵が彼のポケットを検査したとき、当然、私の名前が載っていたそのメモを見たのだが、中国兵らは文字が読めなかったため事なきを得たという。

この時期、北門からやや南西に位置する日本時代の東本願寺台北別院が臨時の牢獄になっており、彼はそこに収容されたのだが、すきを見てそのメモを細かくちぎって便所の中に捨てたという。

「だから当局は君の事を知らないから安心しろ」と話してくれたので、ホッとしたことを覚えている。

 
父・聰明が覚悟した瞬間

さて、父・聰明がこの時期しばらく身を隠していたことは先に触れたが、その父のところにもある日いきなり中国兵がやってきたそうだ。

いよいよ自分を捕まえにやってきた、これでおしまいだ、と覚悟したようだが、中国兵に護衛された外省人の役人が友好的に父に頭をさげ、省政府が父を「政府委員に任命した」と知らせてくれたという。てっきり自分を捕まえに来たと思い込んでいた父は、思いがけない展開に安堵した。

この省政府委員は計15人で、いわば省政府政策顧問である。地位は省政府主席と同等であり、車も各委員に1台配置されていた。15人の内訳は外省人8で台湾人7である。もちろんこれは意図的な配分で、台湾に関する重要な政策の決定を投票で決める際に、外省人の思惑通りに進めるためだった。

余談ながら私の母の叔父にあたり、台湾5大名家のひとつである霧峰林家の当主で、日本時代には貴族院勅選議員も務めた林献堂(1881~1956)も、父と同じように省政府委員に任命されたので、15人のうち2人は私の親戚なのであった。

 
国民党独裁の暗黒統治

日本の敗戦後に中国大陸で繰り広げられた国共内戦の結果、蒋介石(1887~1975)率いる中国国民党(国民政府)側は1949年、毛沢東(1893~1976)率いる中国共産軍に敗北し、約200万人の中国人(外省人)が中国大陸を捨て、「中華民国」ごと、台湾に流れ込んだ。

中には都市部出身の富裕な中国人もいたが、大多数はボロボロの衣服にわらじ履きの貧しい兵隊たちだった。

蒋介石は終戦後、日本人に対して温厚な措置をとったので日本では評判がいい。

しかし、いずれ大陸を奪還するための反攻拠点に過ぎない台湾においては極端な苛政を布いた。自らの統治に抗う人民は躊躇なく迫害し、ときにはたやすく命を奪った。

やがて蒋介石が世を去り、その子、蒋経国(1910~88)の時代になってから台湾社会は少し明るさを取り戻した。その対比でいえば、蒋介石時代は暗黒の時代だったといえる。

台湾が救われたのは朝鮮戦争(1950~53)によるところが大きい。

それまで台湾を見限ろうとしていた米国は、朝鮮戦争をきっかけに東アジアが赤化することを警戒し、蒋介石の台湾を援助する方向に舵を切った。

ただ米国は蒋介石政権が台湾人民を力で抑え込んで統治していることについてはあまり気にしていなかったようだ。何よりも蒋介石の反共姿勢が米国にとって都合が良かったためであろう。

国民党独裁政治は基本的に人治であり、法治は建前に過ぎなかった。

私が台湾大学を卒業したころのことだが、この当時は1年間の軍事訓練を受けないと卒業証書はもらえない。その軍事訓練は、日本時代の陸軍士官学校に相当する「陸軍軍官学校」で行われるのだが、ある日の朝礼に憲兵がひとりの兵隊を連行してきた。


▲大学生時代の杜祖健氏(杜祖健氏提供)


▲陸軍軍官学校上等兵時代の杜祖健氏(杜祖健氏提供)


司令官である陸軍中将は、その連行された兵隊を指さしながら、「皆よく見ろ。かれは上官の妻を強姦した。よって直ちに死刑に処す」という。

朝礼時は武装するのが基本であるため、小銃を持たされていた私の手は震えてしょうがなかった。裁判などは開かれない。司令官の鶴の一声で死刑を決し、執行するのであった。

もう一例を述べよう。

戦後の台湾では軍のトラックが民間人をひき殺すという交通事故が多かった。

それで多くの台湾人が不平を述べた。これを耳にした省主席は怒りに燃え、民間人をひき殺した軍の運転手を捕らえて死刑にした。

省主席はこの措置により台湾人の不平がおさまり、軍紀も引き締まると思ったのだ。

しかしそれから事故を起こした軍のトラックの運転手は、捕まると死刑になるというので、はねた相手を救助せず、大急ぎで逃亡するようになった。上官の感情次第、鶴の一声で運転手の死活が決まるのだから当然だろう。

この暗黒の時代は、蒋介石の死去後、蒋経国の時代になってからは少し良くなった。


▲機関銃を打っていた杜祖健氏(杜祖健氏提供)

 

▲火炎放射器を使っていた杜祖健氏(杜祖健氏提供)

 


蒋経国は大陸への反攻、奪還は夢に等しく、実現は不可能であると冷静に判断し、その代わりに台湾の建設に力を注ぐべきだと考えたからであった。

一例をあげると、彼は退役軍人らを動員して台湾山脈を横断するハイウェイを作った。私はその「中部横貫公路」を何回もバスで越えた経験を持つ。車窓に映る3000メートル級の台湾の中央山脈の姿は絶景である。現在の豊かな台湾社会の建設に、蒋経国はその基礎の部分でかなり貢献したと思う。

 
FBIに保護された米国生活

このころ国民党は、台湾の当局に反抗する人士を海外でも警戒していた。米国はその大きな舞台のひとつだ。私は1953年に台湾大学理学部を卒業後、留学のため渡米したのだが、その後日系人女性と結婚し、後年コロラド州立大学で教職を得てフォート・コリンズで暮らしていたころ、知らない人から中国語で「ドクター・トゥは大変に有名な方ですから、ぜひ訪問して一度お会いしたい」という電話をもらったことがある。

私はすぐに国民党関係者からの電話だと察した。

例えば1984年には蔣経国の伝記を書いた米国籍の華人ジャーナリスト「江南」(本名・劉宜良)が、ロサンゼルスの自宅ガレージで、台湾最大の暴力団組織の手で暗殺された事件が発生したことは「江南事件」としてよく知られている。

この時は米当局が入手した射殺実行犯と台湾当局との電話記録から、台湾の特務機関の関与が浮上し、米国政府、議会が台湾に対する態度を硬化。台湾への武器を供与しない方針を示し、台湾当局に民主化をせまったとされている。

そんな事例をあげるまでもなく台湾人は米国在住でも、いつなんどき国民党の魔手が自分の身辺におよんで、生命の危機に直面するかもしれないと心配していた。

私はヘビの毒を主とする毒物研究を専門とし、米国では軍の研究にも協力する立場にあったこともあって、身元不明者からの突然の怪しい電話があったことをコロラド州のFBIの主任に相談したところ、主任は「その人が訪ねて来るというなら前もって知らせてくれ。隣の部屋でピストルを持たせたFBIの係官2人が待ち構える。もし命に危険を感じたらベルで知らせればいい。即座にその人を逮捕する」と応じてくれたので安心した。

その後その主任からまた電話があり、「あなたに『会いたい』と電話をしてきたのはデンバーにいる中国人だったことがわかった。アメリカ在住者の行動を妨害するな、と警告しておいた」と告げてくれた。主任はその中国人の名前まで把握していた。

いったい主任はどうしてその人が特定できたのか。私は今でも不思議に思っている。とにかくこういうわけで私は米国在住中の安堵を得ることが出来たのだ。

(2023-01-22 「The News Lens」からの転載)


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