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ベルリンの壁崩壊で覗いた東欧の光と闇 【連載】頑張れ!ニッポン③

2024-09-26 05:30:15 | 【連載】頑張れ!ニッポン

【連載】頑張れ!ニッポン③

ベルリンの壁崩壊で覗いた東欧の光と闇

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

▲ベルリンの壁の残骸と筆者

 

視察団の一員として東欧5カ国へ

 ベルリンの壁が崩壊した後に訪ねた東欧で感じたことを話したい。電気メーカー業界がつくる団体に、日本電子機械工業会(EIAJ:Electronic Industries Associationof Japan)というのがあった。今は他の団体と合併して電子情報技術産業協会(JEITA:Japan Electronics and Information Technology Industries Association)と言う名前になっている。
 そのEIAJが1990年10月、東欧諸国(旧東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア)に半導体に関する調査団を派遣することになった。私は工場から本社のマーケティング部門に異動になっていたので、その調査団の一員として東欧諸国を訪問する機会を得たのである。
 1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した。我々調査団が東欧諸国を訪問したのは、その1年後のことだ。そして、東西ドイツが統一されたのは、我々が訪問した同じ月の3日のことだった。
 だから、我々がベルリンに着いたとき、「ベルリンの壁」は破壊されていたものの、まだ所々に衝立のように残っていたのである。壁の前で、学生らしき若者が壁のカケラをお土産に売っていたので、私は、それを衝動買いしてしまった。

まだ国民車「トラバント」が走っていたが

 旧東ドイツでは、ベルリン、ドレスデン、ライプチヒなどを回った。バスの車窓から見る街は第二次大戦後が終わって45年も経ったとは思えない。爆撃を免れた建物が黒く汚れており、銃撃戦を物語る弾痕も至る所に残っている。

 

▲「トラバント」はまだ現役で走っていた「トラバント」

 

 市中を走る車の多くは、「トラバント」だった。かつて東ドイツを代表した「国民車」で、軽四輪のような車である。ただ、販売店はというと、フォルクスワーゲン、ベンツ、BMWなどが並んでおり、これから西側からの車がどんどん入ってくることを予感させる光景であった。
 我々は少し田舎のケムニッツという町のホテルに泊まったが、そこで目にしたものには少なからず驚かされた。
 まず目に飛び込んできたのは机の上に置かれた小さな白黒テレビである。放送内容も座談会や、ニュースが中心である。テレビを見ていると、やがて娯楽番組が始まり、トランプの絵が映し出されるではないか。ゲームをやっているらしいが、何ともお粗末な内容だった。東西ドイツ統一直後のことだから、放送番組も旧東ドイツのものだったのだろう。

▲ケムニッツのホテルに置かれた白黒テレビ

▲トランプのカードが映るだけの娯楽番組


 トイレに入っても衝撃を受ける。日本と違って、トイレットペーパーはゴワゴワした灰色の厚手のものだ。使用するのがチョットためらわれるシロモノである。当時の日本はバブル経済が崩壊した時期であるが、東ドイツで目にした光景を東京と比べると、その落差は余りにも大き過ぎた。
「建物がまだ戦争の傷跡を残したまま」「車は軽四輪のようなもの」「ホテルには小さな白黒テレビ」「トイレの紙は新聞紙よりは少しマシ」
 そんな状況を目の当たりにして、私の脳裏にこんな思いが駆け巡った。 
 旧東ドイツは戦後40年以上の長期間にわたって、一体何をしていたのか? 共産主義体制の社会とはこうも経済を停滞させるものか? 平等を求めてみんなで貧しくなったのか?
 最初の訪問地である旧東ドイツで、共産主義と計画経済に対する不信の念を改めて強く感じた次第である。

ポーランドで見た計画経済の非効率

 次の訪問国はポーランドだった。パソコンの組み立てラインを視察した。組立ラインと言っても、理科の実験教室みたいなところに机が並んでいるだけ。製品が殆ど見当たらないので、どうしたのかと尋ねると、他の工場から部品が入ってくるのを待っているのだと言う。「どのくらい待っているのか?」「いつ部品が入ってくるのか?」という事は多分質問したと思うが、その内容は覚えていない。私は計画経済の非効率さをみた思いであった。ラインが止まっても自分の責任ではない、部品を供給して来ない他の工場の責任だという態度である。確かにそうだが、ラインが止まっても悠然としているなんて日本では考えられない。
 また、机に置かれていたパソコンのボードを見ると、最先端のDRAMが搭載されており、「これはココム(COCOM・共産圏輸出統制委員会)によって共産圏への輸出が禁じられていた筈ではないか」と誰かが声を上げたので、調査団一同顔を見合わせて頷いたものである。
 規制が破られるのは今も昔も変わらない。今でも対北朝鮮、対ロシアへの経済制裁が時折破られているという。
 視察で分かったことは、東欧には半導体産業は殆ど存在していないということである。で、これは想像通りだった。ただ、調査の為面談した各国の政府関係者達は、みな若く、希望に燃えた目をしていたのが印象的だった。
 ポーランドの首都ワルシャワ、チェコスロバキア(今はチェコ共和国とスロバキア共和国に分かれている)の首都プラハ、ハンガリーの首都ブタペスト、ブルガリアの首都ソフィアを訪問したが、いずれも中世の面影を残した美しい街並みで、観光で訪れるには良いところだ。

▲チェコスロバキアの首都プラハは美しい


 これらの都市は第二次世界大戦で徹底的に破壊されたはずだが、建物は見事に昔の姿に復元されているのが印象的である。これらの都市は東ドイツとは違い、美しく復興していた。一体これは何故なのだろうか。

 

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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