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硫黄島の英霊に捧ぐ  あの玉砕は犬死ではなかった!

2021-03-16 07:17:55 | 特別記事

硫黄島の英霊に捧ぐ

あの玉砕は犬死ではなかった!

 

 毎年3月がやってくると、日本人はあの東日本大震災を思い起こします。しかし、もう一つの悲劇は、戦後日本からほとんど忘れ去られたのではないでしょうか。

 東京都心部から南に約1200キロに位置する島があります。その島の名は硫黄島。東京都小笠原村に属していますが、一般住民は住んでいません。日本の自衛隊員と米軍が駐屯しているだけです。
 今から76年前の昭和20(1945)年8月15日に日本は連合軍に降伏しました。その半年前の2月19日に米海兵隊3個師団、6万1000人が、この硫黄島に上陸します。迎え撃つ日本軍はその3分の1でしかありません。しかも、米側は上陸前に3日間にわたる執拗な艦砲射撃と空爆を行っていたのです。
 こうして第二次大戦史に名を刻む壮絶な戦いの火蓋が切られ、3月26日にかけて日米両軍の大激戦が繰り広げられていました。結果は悲惨なものでした。日本軍側は硫黄島守備隊2万933名のうち2万129名が戦死し、米軍側も2万8686名の戦死傷者(戦死6821名、負傷2万1865名)を出します。
 さて、よく知られているのが、硫黄島の最高峰である摺鉢山(標高170メートル)に米海兵隊らによって星条旗を掲げている写真でしょう。米バージニア州アーリントン国立墓地にある「合衆国海兵隊記念碑」のモデルにもなった写真です。しかし、この写真は後で撮影されたもの、つまりヤラセだったのは今では周知の事実となりました。
 さらに、あまり知られていないことがあります。米海兵隊が摺鉢山に星条旗を立てたのですが、翌朝になると、再び日章旗がひるがえっているではないですか。米軍が驚いたのは言うまでもありません。その日章旗を焼いて、再び星条旗を。すると翌朝、また日章旗が……。
 では、なぜ硫黄島が日米両軍にとって重要な島だったのでしょうか。前年の夏、米軍はサイパンを攻略、数カ月後の11月にはサイパンから飛び立った米軍の長距離爆撃機B-29が日本本土を爆撃しました。
 サイパンと日本本土の中間に位置していたのが硫黄島です。つまり、日本爆撃に向かうB-29の動きを硫黄島の日本軍が把握して、本土に無線で報告していました。日本への本格的な空爆をもくろむ米軍からすれば、硫黄島は非常に邪魔な存在以外の何ものでもありませんでした。
 日本軍守備隊の勇猛果敢な闘いがなければ、B-29による日本本土爆撃がスムーズに実施され、民間人死傷者の数も想像を上回ったことでしょう。けっして犬死ではありません。故郷に残してきた愛する家族や友人・知人を守るために、日本軍将兵は自らの命を投げうったのです。まさに「英霊」そのものと言ってもよいでしょう。
 元衆議院議員の西村眞悟氏は事あるごとに硫黄島のことを講演で語り、文章も発表されてきました。3月15日付の『西村眞悟の時事通信』でも「硫黄島摺鉢山に翻る『日の丸』を忘れるな」と題した一文を掲載されましたが、読んでいて涙を抑えるのに苦労しました。本ブログでも紹介しますので、ぜひご一読ください。(本ブログ編集人・山本徳造)

▲アーリントン墓地に翻る星条旗だが……

 


西村慎吾の時事通信(令和3年3月15日)
▲硫黄島摺鉢山に翻る「日の丸」を忘れるな

▲栗林中将


東日本大震災から十年を経る三月十一日が迫る日々は、
連日、津波の状況や、その中での人々の苦難の様子が報道され、
その度に目頭が熱くなった。
そして私も、
日本の國體、則ち、天皇のしらす國の顕現という観点から、
東日本大震災のことを記した。
さらに、同時に、我が国の現代史において、
寒中から時に春風を感じ始める三月という時期が、
我が国にとっても、世界にとっても、
重大な意味をもつことが起っていた時であることを感じた。
「記憶としての過去」ではなく
「現在を決定づけた過去」=「現在とともにある過去」として大観すれば、
平成二十三年(2011年)三月十一日の東日本大震災と巨大津波
昭和二十年(1945年)二月十九日から三月二十六日までの日米の硫黄島の戦い、
さらに、明治三十八年(1905)三月十日に終結した日露戦争の奉天大会戦は、
総て、過ぎ去さった日付のところにあるのではなく、
現在の我々と共にある。
よって、三月は東日本大震災に加えて、
日米の硫黄島の戦いと
日露の奉天の戦いにおける
日本と日本人を語ることが自然で普通でなければならない。
そこで、これから、
昭和二十年二月十六日の、アメリカ軍の艦砲爆撃の開始から
同年二月十九日の、アメリカ軍上陸
そして、同年三月二十六日の、
栗林忠道中将と市丸利之助少将の戦死推定日までの
硫黄島の戦いのなかで、忘れ難いことを記しておきたい。

アメリカにおいては、
硫黄島の戦いは、
日本軍の凄まじい死を恐れない勇戦奮闘に驚愕し惨憺たる苦戦を強いられ
六千八百人の戦死者と一万九千人の負傷者という膨大な犠牲を強いられながら、
遂に、日本本土に始めて星条旗を立てることができた戦いとされ、
アメリカが今まで経験した最も激しく厳しい戦いであった
一八六三年のゲティスバーグの戦いに比肩されている。
それ故、アメリカは、
ローゼンタールが撮影してピューリツァー賞を受賞した
硫黄島の摺鉢山の頂に五人の海兵隊員と一人の陸軍兵士の六人が、
星条旗を掲げる写真に映った情景を
高さ二十五メートルの巨大なブロンズ像にして、
アーリントン墓地の北側にある
ポトマック川とワシントンDCの中心部が見渡せる高台に立てている。
「合衆国海兵隊記念碑」である。
では、日本において、
この硫黄島の戦いは、
祖国を守るために、命をかけて全力で戦った将兵の
愛国の至情を賞賛し尊敬の念を以て記憶せよと教えられているのか!?

明治三十七・八年、観戦武官として来日し、
日露戦争の戦場における日本軍将兵の勇戦奮闘を目の辺りに見た
イギリス陸軍のイアン・ハミルトン大将は、
日本から学ぶべきものとして
兵士の忠誠心をあげ、
「子供達に軍人の理想を教え込まねばならない。
自分たちの先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、
教育のあらゆる感化力を動員して、
次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである。」
と語り、
エディンバラ大学の名誉総長になって
イギリスの教育改革に取り組んだ(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
もしハミルトン大将が、
大東亜戦争の観戦武官となって日本軍将兵の戦い、
特に硫黄島の戦いを観たら、同じことを言うだろう。
また、その日本軍将兵と戦ったアメリカ軍将官も
自身の体験に基づいて痛切な思いでイアン・ハミルトン大将に同意するに違いない。
それ故、
想定を遙かに超えた戦死者を出した硫黄島と沖縄での戦いの後に、
日本の占領統治に入ったアメリカは、日本の強さの根源を封印するために
日本から「戦史」を奪い、大東亜戦争という名称を奪い、
大東亜戦争は日本の軍閥(軍国主義者)が起こした
不義の侵略戦争だと日本人の頭に刻み込んだ(WGIP)。
これが刻み込まれた体制を、戦後体制という。
よって、先ず、封印された戦史を回復するために、
日本軍将兵の心と姿を取り戻したい。

まず甦らせるべきものは、
摺鉢山の頂に翻る日の丸、「日章旗」である。
アメリカ軍は、昭和二十年二月に入り、硫黄島周辺海域に
空母十六隻、艦載機一千二百機、戦艦八隻、巡洋艦十五隻、
駆逐艦七十七隻、人員十一万人を集結させ、
二月十六日から上陸する十九日まで激しい艦砲射撃と空爆を実施した。
上陸するために艦上で待機している海兵隊員には
砲爆撃に包まれた硫黄島は噴煙のなかで海に沈んだように見え
そこに日本兵が生きているとは思えなかった。
しかし、
栗林忠道中将(戦闘中に大将に昇進)が断固として構築した
硫黄島の地下要塞は
アメリカ軍特有の物量にものをいわせた砲爆撃にびくともしていなかった。
第一次世界大戦に従軍し、タラワ、サイパン、テニアン、グアム等々の
上陸作戦で海兵隊を指揮してきた
アメリカ軍司令官ホーランド・スミス中将は、
その回想録に次のように記している。
「太平洋で戦ったすべての敵の中で、栗林は最も手強い相手であった。」
「栗林の個性は彼の構築した硫黄島の地下防備に深く刻み込まれていた。」
さらに、
「それは、第一次大戦中にフランスで目にしたものより遙かに優れていて
第二次大戦におけるドイツ軍の地下防備をも凌ぐものだ。」

この地下要塞を構築した上で、
栗林中将は、
地下要塞から飛び出して敵に向かって突撃することを禁じ、
全将兵に「敢闘の誓」と書いた紙を配布し、
・我らは全力を奮って本島を守り抜かん
・我らは敵十人を斃さざれば死すとも死せず
・我らは最後の一人となるとも「ゲリラ」に依って敵を悩ません
と命令していた。
この硫黄島に
アメリカ軍は、二月十九日に上陸してきた。
そして二月二十三日に
要衝の摺鉢山の頂上に「星条旗」を掲げた。
すると後からカメラマンのジョー・ローゼンタールが登ってきて、
もう一度やってくれと要請し、
海兵隊はもっと大きな旗を軍艦から降ろして持ってきて
ローゼンタールのカメラの前で星条旗を掲げ直した。
つまりあの写真はヤラセなのだが、
最も素晴らしい戦場写真として有名になり、
「合衆国海兵隊記念碑」という巨大なブロンズ像となって
今、アーリントン墓地の北の高台に立っている。
そこで、
我々日本人が、歴史を回復するとは何か!
摺鉢山のここに、
その大きな実例があるので指摘する。
それは、我々日本人は、
あの「海兵隊記念碑」のポールに翻る日の丸・「日章旗」!
を見なければならないということだ。
確かに、アメリカ軍は、二月二十三日、摺鉢山に星条旗を掲げた。
しかし、
翌二十四日の朝、摺鉢山の上に翻っていたのは日章旗だった。
それを見上げたアメリカ兵はビックリし腰を抜かし、
海と空からの猛烈な砲爆撃の後に摺鉢山に登って星条旗を再び掲げた。
そして、彼らは翌日の二十五日の朝、摺鉢山を見上げた。
するとそこに、星条旗はなく、
再び日章旗が翻っているのを見たのだ。
このこと、生き残った十七歳の通信兵が確認している。
現在、アメリカの国立海兵隊記念館に、
風で外縁部がちぎれた星条旗があり、
摺鉢山に掲げられた「二枚目の星条旗」との説明がある。
しかし、これは間違いだ。
一枚目と二枚目の星条旗は、夜間、日本兵が下ろしたので存在しない。
現存するのは三枚目だ。
ローゼンタールの写真にある星条旗を掲げる六人のアメリカ兵のうち、
三人が戦死した。
その星条旗を下ろして二度も日章旗を掲げた日本兵は全員戦死した。
我らは、彼らを忘れてはならない。

私は、衆議院の安全保障委員会委員として、
平成五年に沖縄から自衛隊輸送機に乗り、始めて硫黄島を訪れた。
硫黄島上空にさしかかり、硫黄島の摺鉢山を眺めた時、
鬼気迫る思いがして、鬼が慟哭している!と直感した。
そして、コックピットの機長に、
翼を振って島を一周回ってから着陸して欲しいと頼んだ。
慟哭の鬼と英霊に着陸の挨拶をするべきと感じたからだ。
その後に、栗林中将の大本営に宛てた訣別電を読んだとき、
私の直感と符合する
「将兵の敢闘は眞に鬼神を哭しむるものあり」
という壮絶な一文があった。

硫黄島を守る日本の陸海軍将兵の総数は2万2786人
生存者は、負傷して動けなくなり捕虜となった1023名に過ぎない。
彼ら生存者は次のような情景を伝えている。
摺鉢山の日の丸のことは既に記した。
以下、留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道の硫黄島戦」より。

○海軍指令部付士官だった松本巌は、
夜、海軍司令部守備隊の全滅を知らすために本部豪を目指して
月明かりと照明弾の明かりを頼りに北地区を歩き
ようやく豪の入り口を見つけて入り込んだ。
しかし、そこは本部豪ではなく中隊豪だった。
目が慣れてくると、その豪には陸軍の大勢の負傷兵が横たわっていた。
そして、突然、一人の負傷兵が松本の足を掴んで、
「水があったら飲ましてくれ、もう四日も何も口に入れてない」と言った。
松本が水筒を渡そうとすると、入り口近くにいた下士官が松本に言った。
「海軍さんやめろ、あと二時間もすれば、
俺たちは皆、火炎放射器で焼き殺されて仕舞うんだ。
死にかかった者に飲ます水があったら、
その水をあんたが飲んで戦ってくれ。
あんたは手も足もまだついている。
やってくれ、我々の仇をとってくれ。頼みます。」

○戦闘が最後の局面にさしかかり、
大本営宛て訣別電を打電したあと、
栗林中将は、
地下の広い一室に幹部を集め訣別の宴を開き、
淡い蝋燭の光を囲み談笑した。
そして、中将は、階級章を外し重要書類の焼却を命じ、
次のように訓示した。
「只今より、兵団は反撃のため出撃する。
たとへ、草を食み、土をかじり、野に伏すとも
断じて戦うところ、死中自ら活あるを信じる。
ことここに至っては、一人百殺、これ以外にない。
本職は諸君の忠誠を信じている。
私のあとに続いて下さい。」
そして、部隊八百を従えて司令部壕を後にした。
以下、この部隊に参加した龍前進也の回想。
一行が一夜を明かすことになった天然豪は重傷者が充満していた。
火炎放射器で真っ黒に焼かれ目ばかり光らせ涙を流している者もいた。
見習いの軍医が重傷者に次々に注射を打って安楽死させていた。
注射を打たれた一人が、
「軍医殿、泣いておられるのですか」
と言った。涙が彼の顔に落ちたらしい。
軍医は答えた。
「俺は、治すことは教わったが、
こんなことは習わなかった。あとからすぐ行くよ。」
が、兵隊はもう死んでいた。

○作家で「ベ平連」の代表を務めた小田実が、昭和三十年の半ばに
「何でも見てやろう」という留学記に
次のことを書いるのを西村は読んだ。

アメリカ留学を終えて
フランス経由で無銭旅行をして帰国の途についたとき、
パリでアメリカ人の作家がいると聞いて、会いたくなり、
彼に電話して、翌朝彼のマンションを訪ねることになった。
翌朝、訪問すると、
彼は、朝からぐでんぐでんに酔っぱらっていた。
そして、小田実に言った。
俺は、硫黄島で日本軍と戦ってから、日本人に会うのは君が初めてだ。
俺達は陣地を構築して機関銃で日本兵を撃ちまくっていた。
すると、一人の日本軍将校が
刀を振りかざして陣地に飛び込んできた。
彼は、俺には目もくれず、
刀を機関銃に振り下ろした。
すると機関銃が真っ二つに斬れた。
そして彼は、満足そうに俺を見つめた。
恐怖にかられた俺は、
夢中で彼を拳銃で撃ち続けた。
彼は斃れた。
それから、日本人に会うのは君が始めてで、
飲まざるをえなかったんだ。
(この記述があるのは初版だけだと思う)

硫黄島戦、追憶の最後に、
海軍守備隊を率いていた市丸利之助海軍少将(後に中将に昇進)の
「ルーズベルトに与ふる書」と
栗林忠道中将の大本営への訣別電と辞世
さらに、
平成六年に硫黄島を行幸啓された
天皇皇后両陛下の
栗林の訣別電「散るぞ悲しき」に
明らかに応答された
御製と御歌を記しておきたい。

市丸少将は、
アメリカ軍は必ず戦死した将校の所持品を検分するのを知っていて、
「ルーズベルトに与ふる書」の英文と日本文の二通を作成し、
それぞれ通信参謀と航空参謀に所持させて共に戦闘に向かった。
案の上、戦闘終了後、アメリカ軍は戦死した将校の懐中から同書を発見した。
この書は、四月十二日にルーズベルトが死去したため、
彼は読むことはできなかったが、七月十一日のアメリカの新聞に掲載され、
その後、ニミッツ太平洋軍最高司令官により
アナポリス海軍兵学校海軍博物館に提出された。
☆市丸利之助少将の「ルーズベルトに与ふる書」
日本海軍、市丸海軍少将、書を「フランクリンルーズベルト」君に致す。
貴下は真珠湾の不意打ちを以て、対日戦争唯一の宣伝資料と為すと雖も、
日本をして其の自滅より免るるため、
此の挙に出ずる外なき窮境に迄追ひ詰めたる諸種の情勢は、
貴下の最もよく熟知しある所と思考す。・・・
我、今、我が戦いを終えるに当たり、一言貴下に告ぐる所あらんとす。
我ら今、物量を恃める貴下空軍の爆撃及艦砲射撃の下、
外形的には退嬰の已むなきに至るも、
精神的には弥豊富にして心地益明朗を覚え歓喜を禁ずる能はざるものあり。
之天業翼賛の信念に燃ゆる日本臣民共通の心理なるも
貴下及び「チャーチル」君等の理解に苦しむ所ならん。
今茲に卿等の精神的貧弱を憐れみ、以下一言以て少しく悔ゆる所あらんとす。
卿等のなす所を見れば、
白人殊に「アングロサクソン」を以て世界の利益を壟断せんとし、
有色人種を以て其の野望の前に奴隷化せんとするに他ならず。
之が為、奸策を以て有色人種を瞞着し、
所謂悪意の善政を以て彼らを喪心無力化せしめんとす。
近世に至り、日本が卿等の野望に抗し、
有色人種殊に東洋民族をして卿等の束縛より解放せんと試みるや
卿等は毫も日本の真意を理解せんと努むることなく、
只管卿等の為の有害なる存在となし、
嘗ての友邦を目にするに、仇敵、野蛮人を以てし、
公然として日本人種の絶滅を呼号するに至る。
豈神意に叶ふものならんや。
大東亜戦に依り、所謂大東亜共栄圏の成るや、
所在各民族は、我が善政を謳歌し、卿等が之を破壊することなくんば、
全世界に亘る恒久平和の将来、決して遠きに非ず。
卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、
数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を、
何が故に嫩葉に於て摘み取らんとするや。只東洋の物を東洋に帰すに過ぎざるに非ずや。
卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にして且つ狭量なる・・・。
卿等の善戦により克く「ヒットラー」総統を仆すを得るとするも、
如何にして「スターリン」を首領とする「ソビエトロシア」と協調せんとするや・・・。
卿等今、世界制覇の野望一応将に成らんとす。卿等の得意思ふべし。
然れども、君が先輩「ウィルソン」大統領は、その得意の絶頂に於いて失脚せり。
願くば本職言外の意を汲んで、その轍を踏む勿れ。 
市丸海軍少将


☆栗林忠道中将訣別電 宛大本営  昭和二十年三月十六日十六時過
戦局最後の関頭に直面せり。
敵来攻以来麾下将兵の敢闘は、眞に鬼神を哭しむるものあり。
特に想像を超えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し、
宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。
然れども・・・
此の要地を敵手に委ぬる外なきに至れしは、
小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御詫び申し上ぐ。
今や弾尽き水涸れ全員反撃して最後の敢闘を行わんとするにあたり、
熟々皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず。
特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるを思い至り、
縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。
茲に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝するとともに
只管皇国の必勝と安泰を祈念しつつ永へにお別れ申し上ぐ・・・
終りに左記駄作御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。

國の為重き務を果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生れて矛を執らむぞ
醜草の蔓る其の時皇国の行手一途に思ふ

天皇皇后両陛下、
平成六年二月、硫黄島に行幸啓される。
御製
精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
御歌
銀ネムの木木茂りゐてこの島に五十年眠るみ魂悲しき
慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ 


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