趙雲はみごとに一晩で熱を下げた。
熱がすぐに下がったのは、日ごろ、趙雲が鍛えていた成果である。
まだ本調子ではない様子ではあったが、状況が状況なので本人も寝込んでいるわけにはいかないと言い張り、すぐに斐仁《ひじん》の囚われている襄陽城への出立となった。
「ほんとうに熱を下げるとは。あなたには感謝しないといけないな」
孔明が感心して言うと、趙雲はあまりうれしくなさそうに答えた。
「もとをただせば俺の部下の起こした騒動だ。意地でも熱くらい下げて見せるさ」
そうだろうかと、孔明は思う。
ことの発端は、いったいどこなのか。
どうして崔州平だけではなく、麋竺までもが同じ言葉…忘れるな、仇讐は壺中にあり…を残していったのか。
考えようにも、すべてがばらばらでつながらない。
そもそも、崔州平と麋竺につながりがあったとも思えない。
ふたりの共通点といえば、やはり『諸葛孔明』しかなく、それ以外を想像することはできなかった。
新野を早朝に出立し、なるべく急いで、襄陽城へ向かう。
とちゅう、孔明はみずから調合した風邪薬を趙雲に処方することを忘れなかった。
その風邪薬の調合方法は、ほかならぬ、孔明のもとから逃げた妻の黄月英《こうげつえい》が教えてくれたものである。
月英とは、仲の良い夫婦として、うまくやってきたつもりであった。
ところが、孔明が劉備に仕えると決めたその日に、とつぜんにいなくなってしまったのだ。
書置きなどのものもなかったので、なにが不満でいなくなったのかすらわからない。
ろくに財貨も持たず、かのひとは、いったいどこでどうしているやら。
孔明は新野で落ち着いてから、おそるおそるではあるが黄家に消息をたずねる手紙を送ったことがあった。
ところが、返事は今のところまったくない。
蔡一族と敵対する男に仕える婿など、他人だと思っているのかもしれない。
それまで、うまくやっていたと孔明のほうは信じ切っていたので、味気ない気持ちでいっぱいである。
つねに、頭の隅に、月英のことがひっかかっている状態だ。
このまま時間がたてば、記憶もうすれてしまうものなのだろうか。
それだけの関係だったと納得しなければならない時がきてしまうのは、おそろしくもあった。
※
陳到は面倒を嫌う。
面倒が起こると、たいがい趙雲だけではなく、『副将』たる自分も動く羽目になる。
それがいやなのだ。
さらに陳到は怖がりである。
怖がりだから、怖い目に遭わないように武芸の鍛錬を欠かさなかったし、怖い目に遭わなくてすむように、目立たず生きることを心掛けていた。。
目立たず、騒がず、功を立てるのもほどほどに。
趙雲の影に隠れて、大好きな家族と乱世を生き抜く。
それが陳到のこころに刻まれている目標のひとつで、下手に出世して、大きな責任をともなう地位に就《つ》くことなど考えたこともなかった。
そんな陳到の性格を知ってか、それとも関係ないのか…わからないが、趙雲は劉備の主騎の代理を関羽にたのんでいった。
そのことを何より喜んだのは、関羽ではなく陳到であった。
よかった、自分に面倒な役目がまわってこなくて済んだ。
こんなにうれしいことはない。
こころの中で快哉をあげていると、その関羽から別の面倒をたのまれてしまった。
関羽曰く。
「おまえは徴兵に乗じた人攫いのほうを調べてくれ。わしは手が空かなくなったのでな」
おもわず目を丸くして陳到はたずねる。
「わたしがやるのですか」
「そうだ、おまえだ」
「関将軍、人攫いについての手がかりはあるのですか」
「ない」
きっぱりと関羽はいい、それから目を細めてつづけた。
「ないからこそ、調べるのだ。叔至、まさか、このわしの命令を断るつもりではなかろうな」
おたがいに、伊達に付き合いが長くない。
関羽も陳到の面倒くさがりで、隙あらば逃げようとする欠点を承知しているのである。
つづく
熱がすぐに下がったのは、日ごろ、趙雲が鍛えていた成果である。
まだ本調子ではない様子ではあったが、状況が状況なので本人も寝込んでいるわけにはいかないと言い張り、すぐに斐仁《ひじん》の囚われている襄陽城への出立となった。
「ほんとうに熱を下げるとは。あなたには感謝しないといけないな」
孔明が感心して言うと、趙雲はあまりうれしくなさそうに答えた。
「もとをただせば俺の部下の起こした騒動だ。意地でも熱くらい下げて見せるさ」
そうだろうかと、孔明は思う。
ことの発端は、いったいどこなのか。
どうして崔州平だけではなく、麋竺までもが同じ言葉…忘れるな、仇讐は壺中にあり…を残していったのか。
考えようにも、すべてがばらばらでつながらない。
そもそも、崔州平と麋竺につながりがあったとも思えない。
ふたりの共通点といえば、やはり『諸葛孔明』しかなく、それ以外を想像することはできなかった。
新野を早朝に出立し、なるべく急いで、襄陽城へ向かう。
とちゅう、孔明はみずから調合した風邪薬を趙雲に処方することを忘れなかった。
その風邪薬の調合方法は、ほかならぬ、孔明のもとから逃げた妻の黄月英《こうげつえい》が教えてくれたものである。
月英とは、仲の良い夫婦として、うまくやってきたつもりであった。
ところが、孔明が劉備に仕えると決めたその日に、とつぜんにいなくなってしまったのだ。
書置きなどのものもなかったので、なにが不満でいなくなったのかすらわからない。
ろくに財貨も持たず、かのひとは、いったいどこでどうしているやら。
孔明は新野で落ち着いてから、おそるおそるではあるが黄家に消息をたずねる手紙を送ったことがあった。
ところが、返事は今のところまったくない。
蔡一族と敵対する男に仕える婿など、他人だと思っているのかもしれない。
それまで、うまくやっていたと孔明のほうは信じ切っていたので、味気ない気持ちでいっぱいである。
つねに、頭の隅に、月英のことがひっかかっている状態だ。
このまま時間がたてば、記憶もうすれてしまうものなのだろうか。
それだけの関係だったと納得しなければならない時がきてしまうのは、おそろしくもあった。
※
陳到は面倒を嫌う。
面倒が起こると、たいがい趙雲だけではなく、『副将』たる自分も動く羽目になる。
それがいやなのだ。
さらに陳到は怖がりである。
怖がりだから、怖い目に遭わないように武芸の鍛錬を欠かさなかったし、怖い目に遭わなくてすむように、目立たず生きることを心掛けていた。。
目立たず、騒がず、功を立てるのもほどほどに。
趙雲の影に隠れて、大好きな家族と乱世を生き抜く。
それが陳到のこころに刻まれている目標のひとつで、下手に出世して、大きな責任をともなう地位に就《つ》くことなど考えたこともなかった。
そんな陳到の性格を知ってか、それとも関係ないのか…わからないが、趙雲は劉備の主騎の代理を関羽にたのんでいった。
そのことを何より喜んだのは、関羽ではなく陳到であった。
よかった、自分に面倒な役目がまわってこなくて済んだ。
こんなにうれしいことはない。
こころの中で快哉をあげていると、その関羽から別の面倒をたのまれてしまった。
関羽曰く。
「おまえは徴兵に乗じた人攫いのほうを調べてくれ。わしは手が空かなくなったのでな」
おもわず目を丸くして陳到はたずねる。
「わたしがやるのですか」
「そうだ、おまえだ」
「関将軍、人攫いについての手がかりはあるのですか」
「ない」
きっぱりと関羽はいい、それから目を細めてつづけた。
「ないからこそ、調べるのだ。叔至、まさか、このわしの命令を断るつもりではなかろうな」
おたがいに、伊達に付き合いが長くない。
関羽も陳到の面倒くさがりで、隙あらば逃げようとする欠点を承知しているのである。
つづく